「マルコの福音書を学ぶ」(40)

  • 2025-06-22 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ10:1-12
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(40)「創造のはじめから」
  • 説教者 山田誠路牧師

導入 -今年のテキストの展開―

本日は、長めの序と短めの本論という構成になります。まず、長めの序そして、本日のテキストの流れを、一節ごとにご一緒に確認していきたいと思います。

1:まず、1節のあたまに「イエスは立ち上がり」と書かれていますが、それではいつイエス様は座られたのかを辿っていきますと、9章の35節に「イエスは腰を下ろすと」と出てきます。前々回の途中あたりから、イエス様は12弟子に向かって、座ってお話しになっていたのです。座って話すというのは、ユダヤ教のラビとして正式な話し方です。また、その時おられた場所は33節からカペナウムの家だとわかります。ここは、イエス様の宣教開始からの本拠地ですね。

そこから立ち上がったイエス様は、「ユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。」と続いています。ここは、バプテスマのヨハネが悔い改めのメッセージを説き、多くの人々がユダヤの全域から集まってきてヨハネから洗礼を受けた場所です。

そして、そのヨハネは国主ヘロデが自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアを略奪婚で自分のものとした際、バプテスマのヨハネが勇敢にもその不正を糾弾しました。しばらく投獄された後、ヨハネは、ヘロディアの娘サロメの踊りへの御褒美として、首をはねられたという話は、マルコの福音書ですと6章17節からのところに書かれていました。

10章1節に戻りますと、群衆が集まってきたので、「再びいつものように彼らを教え始められた。」とあります。ここに関しては、ピリポ・カイザリヤ地方への途中、12弟子たちには、受難と復活のことをこれまで2度予告していますが、その話ではなく、それまで通り、たとえなどを使って神の国の話をされた、という意味だと考えます。

2:次に2節を見ますと、パリサイ人たちがやってきます。そして、わざわざそう書いてあるのですが、「イエスを試みるために」一つの質問をしました。質問というのは、本来、自分の知らないことを知っている人から教えてもらうためにするものです。しかし、「試みるための質問」というのは、相手がどう答えても、その返答の言葉のゆえに失脚するための罠を仕掛けたということです。

今回の質問は、離婚についてでした。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか」が質問内容でした。これは、明らかに、先ほど触れました、バプテスマのヨハネが命を落とした原因である国主ヘロデの略奪婚に充てての質問であることがわかります。パリサイ人たちは、イエスの口からバプテスマのヨハネと同じように、ヘロデを糾弾する言質を取って、イエスを危ういポジションに追いやりたいとの魂胆だったのでしょう。

3:イエス様は、質問されたとき、結構この手を使われるですが、即答されずに、質問で返されます。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」これは、ルカ10章に出て来る有名な「良きサマリア人のたとえ」が話されるきっかけになったイエス様とある律法の専門家とのやり取りと似ています。その時、イエス様は「何をしたら、永遠の生命のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と問われたのに対して、「律法には何と書いてありますか。」と問い返されました。「モーセは何と言っていますか」は実質上、「律法には何と書いてありますか」と同じことです。

4:パリサイ人たちは、律法にいのちを掛けている人たちですから、そう問われたら正確に即答します。「モーセは、離婚上を書いて妻を離縁することを許しました。」旧約聖書で離婚について規定しているところは申命記24章1節からのところです。

そこには、こう書かれています。

「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。」

これは、なかなか複雑はことを言っています。「正式な離婚状を書けば離婚は成立する」というような単純なことではありません。「一度離婚した妻を再び妻とすることはできない」ということを規定している文言の中に、間接的に「離婚状によって離婚は成立する」ということが読み取れるわけです。

実際、ユダヤの歴史の中で「正式な離婚状により離婚が成立する」ことは前提とされた上で、「何が妻のはずべきことにあたるのか」について宗派間で議論がありました。

ですから、パイサイ人たちが「モーセは、離婚状を書いて妻を離婚することを許しました。」という返答は、合っていると言えば合っている、ということになります。

ヘロデとヘロデイアの略奪婚の経緯については、古代ローマの歴史家ヨセフスの著書『ユダヤ古代誌』に詳しく記されています。かいつまんで言うとこうなります。

①ヘロデがすでに結婚していた妻は、ヘロデの計画を知り、自分の父のところに逃げ帰った。それによって離婚が成立した。

②ヘロディアは夫を捨てた、と表現されています。旧約聖書には、夫が妻を離婚する規定はあっても、妻が夫を離婚する規定はありません。けれども、ヘロデの権力を傘に強引に離婚に持って行ったということでしょう。

③形の上では、2つの離婚の後に二人は再婚した。

④しかし、これらすべてに先立って、ヘロデとヘロディアは姦通の関係にあった。

これをバプテスマのヨハネは咎めたのです。

5節:さて、このように問い返しに対する返答を受けたイエス様は何とお答えになったでしょう。もし、律法に則って答えるなら、

①そもそもヘロデとヘロディアは、既婚者通しの姦通であって、死刑に値する。

②また、ヘロデの離婚は、妻に「恥ずべきこと」がないから成立しない。

③ヘロディアの離婚は、そもそも妻側からの離婚申し立ては律法にないので、無効。

 こんな感じになるでしょうか。

しかし、イエス様はそんなことは一言もおっしゃいませんでした。その代わりに「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。」という、だいぶ予想外の返答をされました。これは一体、どんなことを言っているのでしょうか。それは、

①イエス様は律法に照らして私たちの行いの良しあしを判断して、セーフ、アウトを判断しようという発想はお持ちではない、ということ。

②ある意味、律法の趣旨や限界について言及されているのです。または、律法の外に立って物を考え、発言しておられる、とも言うことができると思います。

6節:それでは、イエス様はどこに立っておられるのでしょうか。それは、

③今日の説教題にとりました6節に出て来る「創造のはじめ」です。人となったイエス様は、神ご自身でもあるので、この地点にお立ちになっておられるのです。

「創造のはじめ」と「律法」はどのような関係にあるのでしょうか。「律法」は、聖書によると、人類発祥と共にあったものではありません。アダムに初めから与えられていたものではありません。アダムは律法を知らないままでした。そのアダムが罪を犯して堕落したあと多くの時間が経過し、モーセが出エジプトを果たした後になってはじめて律法は与えられたのです。そして、勿論、結婚は、アダム以来あったのです。結婚があったのなら、離婚についての危機も律法付与以前からずっと人類とともにあったのです。

イエス様は、離婚の問題を考えるときに、「離婚について」ではなく、創造のはじめから存在する「結婚について」コメントすることをもって、パリサイ人からのこの「試みるための質問」に答えられたのです。

6節以降、イエス様がおっしゃったことを箇条書きにするとこのようになります。

①神は男と女に作られた

②男は父と母を離れる

③妻と結ばれ、ふたりは一体となる

④神が結び合わせた

⑤人が引き離してはならない

ここまでで、一旦、テキストの流れの確認は終了します。残りの時間で、本日のポイントをお話ししていこうと思います。

本論

Ⅰ. イエス様の発言の基本スタンス

 イエス様の発言の根底にあるのは、ある人のある行動が律法違反になるのか否かという視点からではないということです。律法以前の創造のはじめにまで遡って、良しあしを判断するというのがイエス様のスタンスなのです。

Ⅱ. 創造のはじめからあったもの?

 それでは、創造のはじめからあったものとは何でしょう。それは、結婚という制度を成り立たせる、神様の「私たち一人一人を祝福したい」という御心です。

「創造主としての神」と「摂理の神」ということをキリスト教用語としてはよく使います。神様がすべてのものをお造りになった。人間はすでに存在しているものをいろいろと組み合わせて使うことはできる。変化させて新しいものを作ることもできる。しかし、存在を有らしめるのは神様の専管事項なのです。そして神は、お造りになっただけではなく、今も、天地万物を、知恵をもって美しく秩序の中に治めておられます。

しかし、そこにもう一つ神様の御性質として加えるべきものがあります。それが、神様の「私たち一人一人を祝福したい」という御心です。なんのために造り、なんのために保っておられるかと、というとそれは、「わたしたちを祝福する」ためなのです。

 Ⅲ. 今日考えてみたいこと

 そして、今日考えてみたいことは、いったい全体、私たちは結婚ということについて、「神が結び合わせたもの」という意識がありますか、ということです。

A. この世の規定との関係

①日本国憲法における結婚

 日本国憲法においては、第24条第1項において「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と規定されています。

これは、旧民法において男が30歳、女が25歳未満の場合、戸主の同意がなければ結婚が成立しない、という規定があったのに対して、「両性の合意のみに基づいて成立する」すなわち、「本人たちの合意だけによって結婚は成立する」ということが中心です。

②日本国憲法における離婚

この規定に基づくと、離婚も「本人たちの合意のみによって成立する」となることが自然の理です。実際現在の日本では、民法763条に規定に従って、「夫婦の話し合いによって合意し、離婚届を提出することによって成立する」のです。そんなことは当たり前すぎることで、改めて言うまでもないことだ、というのが私たちの感覚ではないかと思います。

③現代の離婚率

離婚率というのは、そう簡単には計算できないそうですが、大雑把に言って、日本では30%程度、アメリカでは40~45%程度と言われているそうです。家制度の問題、女性の社会的地位や所得の上昇など様々な変化が背景にあるので、近年、離婚率が高くなっているイコール、人々が昔と比べて結婚生活において失敗して不幸になっている人が多くなっている、などといった短絡的なことは決して言えません。

B. 聖書の規定との関係

①欠如している視点

しかし、少なくとも言えることは、そこに、結婚は「神様が結び合わせた」という視点がないということです。世界に何十億という人がいるのに、どうして、よりにもよってたった一人の人と相互に排他的に結び合わされているのでしょうか。今は、ほんとにアプリ婚が当たり前になってきました。条件があった人の中で、更にお互いフィーリングが合ったから結婚したのでしょうか。そしてお互いが合意したからでしょうか。それは、勿論その通りです。

しかし、それだけでしょうか。自分たちの合意によって、自分たちが幸せになるためにあるのが結婚でしょうか。聖書は、明確にもう一つの視点があるというのです。それは、「神が結び合わせた」ということです。そして、それは、創造のはじめにもどるとどういうことになっているのでしょうか。

②創世記1章での男女への視点

創世記1章27節、28節には、こう書かれています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」

神様が一人の男と一人の女を結び合わせるのは、一つには、子々孫々が増えて祝福を受けるためです。そして、もう一つは、この地を納めるという神様の使命を果たすためです。私たちは、この大切なことをしっかりと受け止めなければなりません。この世界に男がいて、女がいて、その中から特定のカップルが結婚して家庭を営む、ということは、創世のはじめから、神様がそのようにして人類を祝福し、そのようにして人類が大切な使命をはたしていくための一番コアーとなる社会的なユニットとして家庭というものを神様が設定されたのです。

日本国憲法には、勿論そのようなことは書き入れられません。しかし、教会はこのことをはっきりと伝えていくべき使命があります。

③創世記1章での一人一人への視点

そして、この創世記1章27節、28節のところもう一つ大切なことがあります。それは、結婚によって一人の男と一人の女が神によって結び合わされる前に、一人一人が神のかたちに造られているということです。私たちが一人残らず、神様に造られて存在しているという事実です。

もし、私たちの存在が、宇宙のごみと何十億年という時間と天文学的数字でも表せないほどありえないほどの確立で起こる突然変異を掛け合わせた結果ということですべての説明がついてしますなら、私たち人間には、倫理も道徳も、宗教も生きる意味も、全も悪もあるはずはありません。それでもそういうものが存在しているとすれば、それは社会をスムーズに運営するための便宜的なものでしかありません。それははっきり言ってフェイクです。

しかし私は確信します。この世界がこれほど美しいのは、美しい神様がおられ、世界を美しくお造りになり、それが美しいとわかるように私たちを造ってくださったからだと。私たち人間の心に、おいしいものを食べた時に幸せを感じるのは、私たちを楽しませてくださる神さんがおられ、おいしいものを作り、私たちにおいしいものをおいしいと感じる感覚を与えてくださったからだと。人間がどんなに罪に落ちて、罪深い存在だとしても、泣く者と共になき、喜ぶ者とともに喜ぶこころが与えられている。それは、すべて神様がそう定めてくださったからなのだ。

④結婚・離婚以外のことへの視点

今日は、結婚と離婚のことが具体的な問題となっていますが、それ以外のすべてのことも、「私が決めた」「私が選んだ」という要素以外に、「神様がそう定めた」という要素が必ずあるのです。私たちがこの時代に生きていること。私たちが日本人であること。私たちがどこで生まれどこで育ったか。私たちがだれとだれの間の子どもとして生まれてきたか。私たちが選ぶことができなかったすべてのことは、神様が、私たちが祝福を受けるために、そして神様の使命を果たすために定めてくださったことなのです。

また、自分がどんな学校で学んだか。どんなスポーツや習い事や勉強をしてきたか。どんな職業についたか、どんな就職先で働いてきたかなど、勿論、道が閉ざされてそれしかなかったという場合もあるでしょうが、自分で考え、自分で判断し、自分で選択してきたと思っていることも、そこには、私たちは気づかなかったかもしれませんが、神様の定めがあったのです。

【まとめ】

ヘロデを糾弾するようなことを言わせて、いのちの危険に貶めようという悪意からされた離婚についての質問に、イエス様が律法の規定を正しく適用するという視点を超えたところからお答えになったところを今朝は学びました。律法は堕落した人間を導くために、やがて救い主が来て、救いを成就するまでのつなぎとして与えられたものです。それをどんなにキチンと守っても、適用しても、私たちにとっては不十分なのです。「創造のはじめから」という視点に立たされる必要があるのです。それは、私たち一人ひとりが、神の形に造られたものであること。そして、その一人一人が、神様に引き合わされて、夫婦となり、家庭を営んでいくことによって、神様の祝福を受け継ぎ、この地上で神様の使命を果たしていくように私たちは造られているのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様とパリサイ人たちの離婚問答のところから学びました。イエス様はただ一人、律法という良いものではあっても、限界があるものをはるかに超えて、「創造のはじめから」という視点にお立ちになることができる方です。そして、私たちは、なんでも自分たちの思い通りにやればいいのではない。思い通りにできるのが幸せなのでもない。神様の定められた通りに生かされることが幸いであることを知る者としてください。どんなことにも神様の私に対する定めがあること、そして、それが祝福を意図された定めであることをよく理解する者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。