「マルコの福音書を学ぶ」(34)

□2025-04-13 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書8:32-38

□説教題 マルコの福音書を学ぶ(34)「だれでも…従って来たければ」

□説教者 山田誠路牧師

導入 -テキストの概要―

今日のところも先週に引き続きキリスト教のど真ん中と言ってよいところです。前回は、イエス様が弟子たちにはじめて、ご自分がこれからエルサレムの宗教指導者たちによって殺されなければならないこと、そして三日後によみがえらなければならないことを打ち明けられた場面でした。しかも、「イエスはそのことをはっきりと話された」と書かれていました。

今日はその続きです。まず、ざっとテキストの流れをおさらいしてからポイントを立ててお話するスタイルにします。マルコの福音書のお決まりのパターンですが、まず、弟子たちの中でペテロが反応します。「イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」のです。マルコにはありませんが、マタイにはいさめたセリフが書かれていて、こうなっています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

ペテロの方がイエス様より年齢は上だったと考える学説もあります。もしそうだとしたならば、ペテロは若殿を戒める指南役にでもなったかの気分だったかもしれません。

「あなたに起こるはずがありません。」と言われたイエス様は、とても厳しいことばをペテロに返します。「下がれ、サタン。」これは、今の時代なら、人権侵害、パワハラで一発アウト級の言葉だと言ってもいいでしょう。そして「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責の要点をズバッと突かれました。それに続いてイエス様は、マルコの福音書にしては、かなり長いセリフを38節の終わりまで語られました。

34節から36節は、とても有名なお言葉で、また、一度聞くだけで深く人の心に留まるような印象深いことばの固まりが3つ並んでいます。34節は、「自分を捨て、自分の十字架を負って従って来なさい」という大いなる招き。35節は、「救おうと思う者は失い、失う者は救う」という自分のいのちに関する大いなる逆説、36節は、「自分のいのち」と「全世界」の大いなる比較という三つです。

さて、本日はこの聖書箇所から二つの繰り返されるもの、ということを読み解いていきたいと思います。ここに現れる二つの繰り返されるものとは、皆さまは、いったい何だとお考えになりますでしょうか。私は、「誘惑」と「招き」の二つを挙げたいと思います。

Ⅰ. 繰り返される誘惑

今日の聖書箇所に出て来る誘惑とは、ペテロがイエス様をわきへお連れしていさめたというところです。イエス様が、ご自分は殺されなければならない、ということを弟子たちに対してはっきり語ることは、大きな決断をもってのことだったと思います。前々回の説教では、ペテロの信仰告白を待ってこのことを語ったというタイミングのことについて触れましたが、それに加えて、重大な覚悟をもって語られたという面があると思います。受難と復活の予告は、聞く側の理解を完全に越えた内容でした。また、これまでの弟子たちがイエス様と寝食を共にしながら目の当たりにしてきた奇跡と権威ある教えから当然イメージされるメシア像と正反対のことでした。これを語るということは、イエス様ご自身としても、これからのご自分の歩む道をご自分で選び取っていくという意味が込められていたと思います。

1. どのように繰り返されているのか

まず、「どのように繰り返されているのか」ということについてお話しようと思います。この誘惑は一言で言うとイエス様を十字架に向かう道から逸れさせようとする誘惑です。そして、その誘惑をイエス様は今回より前にいつお受けになったのでしょうか。   

  • 荒野の試み

それは、公生涯をスタートしようとされる直前、いわゆる荒野の試みの時です。マルコとヨハネには記述がありませんが、マタイとルカでは共に4章の初めに書かれています。

  1. 悪魔「石をパンに変えよ。」

イエス様「人はパンのみ由りて生きるにあらず、神の口より出る一つ一つのことばによりて生きるなり」

  • 悪魔「あなたが神の子なら、神殿の頂から飛び降りて見なさい。御使いが空中で助けてくれると聖書に書いてある。」

イエス様「主を試みてはならない」

  • 悪魔は非常に高い山にイエス様を連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげよう。」

イエス様「下がれ、サタン。『主にのみ仕えよ』と書いてある。」

手に汗握る悪魔との「試練の3本勝負」は、公生涯に出ようとするイエス様に対して悪魔がこのように言ったのです。すなわち「これからどんなに人々を慰める言葉を語ってもいい。どんなに希望を与える話をしてもいい。どんなに大勢の病人を癒してもいい。だって、あなたは神の子なんだから、当然それらのことが出来るのは自分も知っている。それを邪魔するつもりはない。そして、それらのことをしていくときに、当然、人々はあなたに付いていく。あなたはどこにいっても黒山の人だかりになるほど信頼を得、人気者になり、絶大な影響力を手にする。それを善用して、人類を救う道に歩んだらどうか。人々もそれを望んでいる。その幸せを最大化させる道があなたの歩むべき道だ。そこには苦しみなど似つかわしくない。人類の抱えている罪は、あなたのありがたいお話と、あなたの癒しの業で十分に解決される。十字架について苦しんで死ぬなんて必要はない。群衆からの信頼、人気、そしてあなたの影響力を大切にしろ。」

これがサタンが初めに仕掛けた荒野の試みの本音です。びっくりすることに、荒野での3つ目の試みのとき、サタンにぶつけられたのとまったく同じ言葉「下がれ、サタン。」を様は、ペテロにぶつけたのでした。それほど、この2ヶ所は似通っているのです。

  • 十字架上での誘惑

2つ目は、十字架上での誘惑です。まだ、先の話となりますが、イエス様はやがて両手両足を釘打たれ十字架上に吊るされます。十字架刑は、ギロチンや絞首刑と違って、長く苦しみながら死んでいく残酷な刑です。貼り付けにされた後も意識があり、会話もできたようです。イエス様はその段階でもなお、十字架の道からそらそうとする誘惑をお受けになります。

それは、「他人は救ったが、自分は救えない。もし、お前が神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう」という罵声です。これは、十字架の足もとにいた通りすがりの人たち、ユダヤ教の宗教指導者たち、両隣で貼り付けになっていた二人の強盗たちなどが口にした言葉です。

私たちの身に置き換えて考えるならば、これは誘惑でもなんでもない、ただの罵詈雑言です。しかし、もし、イエス様が、本当に神が人間の形を取ってこられた神の独り子であり、病をいやし、嵐を沈め、悪霊たちをたちどころに追い出したお方であるならば、十字架から降りることは簡単なことだったはずです。しかし、そのイエス様が、先週も学んだように、私たちの苦しみを私たちに変わって身に負い、極みまで苦しみ抜いている最中に、かけられた言葉です。「自分を救えないのか、降りてきたら信じてやろうじゃないか。」イエス様が実際にどうお感じになったかは、私たち人間には想像すらできません。しかし、聖書を読んでいく中で、この場面が、誘惑する者の側にしてみれば、最後のチャンスに総力を挙げての総攻撃を仕掛けて来たと理解するのは、無理のない解釈だと思います。

  • エデンの園での誘惑

3つ目、最後の誘惑の例はエデンの園での誘惑です。エデンのそので、「園にあるどの木から取って食べてもいい。」と言われ不自由の全くない楽園にいた人類にさえ、一発で、不足感と束縛感を抱かせることに成功した誘惑です。「どうして食べないのですか。食べても死にません。いや、食べると目が開かれるのですよ。」この誘惑の言葉を自分の内に入れてしまうと、神は自分を制限している、自分は被害者だ、神によって制限されている外側にもっと素晴らしい自由と幸せがあるに違いない。そしてそれは、手を伸ばせば届くところにある。

この誘惑に人類は負け続けてきたのです。しかし、我らの主は、ペテロに脇に連れていいかれて「そんなことがあってはなりません。」といさめられた時、「下がれ、サタン」と言って、この誘惑に勝利されたのです。

Ⅱ. 繰り返される招き

今日の大きな2つ目のポイントに移っていきたいと思います。今日の聖書箇所で繰り返される2つ目のことは招きです。それは、今日のところの34節に記されています。「だれでもわたしに従って来たければ、わたしに従ってきなさい。」という招きです。イエス様は、強引に押し込む方でもなく、一度掴んだら放さず引きずり込む方でもなく、招く方です。では、どのようにこの招きは繰り返されているでしょうか。

1. 初対面のとき

ペテロを例に取ると、ペテロは兄弟アンデレと共にガリラヤ湖畔で網を打っていた時にそこを通りかがったイエス様に声を掛けられました。それが、初対面の時でした。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ペテロとアンデレはこの招きに応えて「すぐに網を捨てて、イエスに従った」のでした。続いて少し先で網を繕っていたヤコブとヨハネの兄弟にも同じように声を掛けてイエス様に従ってくるように招かれました。するとヤコブとヨハネも「父ゼベダイを雇人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った」のです。

この最初の直弟子たちの初対面での記事を読むと、彼らはその時、彼らの過去も、現在も、未来もすべて捧げてついて行ったように感じます。すなわち彼らには、もう捧げるために取ってあるものは何もないように感じます。別の言い方をすると、もう、再び招かれることはないほど、完璧に招きに応じているように感じます。しかし、実際には招きは繰り返されるものなのです。イエス様は、何度も招くお方なのです。

2. 受難・復活予告の直後

今日、ご一緒に読んでいる初めての受難・復活予告の直後にこの招きがあります。34節には、「自分を捨て、自分の十字架を負って」というとても印象的な言葉があります。弟子たちは、すでに網を捨ててきました。家族も捨ててきました。経済的基盤を捨ててきました。しかし、なお、捨てるべきものがあったのです。それは、自分自身でした。そして、逆に、それまで負っていなかったものを新たに負い始めるように言われたものがあります。それっが自分の十字架です。十字架は、自分がそこに付けられて殺される死刑の道具です。それを負ってついて行く、ということはどういうことでしょうか。それは、肉体の死と違って、ここで言われている自我の死は、①一回こっきりで方が付く代物ではなく、生涯、死に続けていく種類のものであることがわかります。また、十字架の前に「自分の」という短い言葉がついていることから、②人が負うべき十字架は人それぞれに違うことが意味されていると思われます。

ただし、このイエス様の招きに与った人たちが、本当の意味で「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従っていく」ことの意味が分かるようになったのは、この時ではありません。わからないままイエス様についていき、さらに理解できない出来事が起こり、絶望のドン底に叩き込まれ、すべてが終わってしまったというところまで行き着いたその先に、この時イエス様に招かれた道に歩み始めるのです。

2. ペテロの裏切りの後

もう一つ、マルコの福音書からイエス様がペテロを招いておられるというエピソードを紹介したいと思います。それは、ペテロが、イエス様を3度知らないと裏切ってしまった直後のことです。

よく知られているとおり、ペテロは最後の晩餐の席でイエス様から「あなたは鶏が2度鳴く前に3度私を知らないと言います」という予告をされます。そして大祭司官邸のなかでイエス様の裁判が行われている様子を遠巻きに伺っていたペテロが召使の女の人に「あなたもイエスと一緒にいましたね。」と言われて「何を言っているのか分からない」と一回目の白を切った直後に、鶏が一回目に泣きました。それに対するペテロの反応は書かれていません。そして、予告どおり、3度目にやはり「その人を知らない」と言ってしまった直後、鶏がもう一度泣きました。その鶏の鳴き声はペテロの心を刺し貫きました。「イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」と書かれています。

私は自分自身鶏を飼っている環境で暮らしたことがなかったので、鶏のことをよくしりませんでした。この聖書の箇所でイエス様が、鶏が「2度鳴く前に」と仰って、2度鳴いたからそれっきりだろう、ってずっと思っていました。最近、ある方の説教を聞いていたらそうでない、という話をしておられました。鶏は早朝に泣き始めると、夕方近くまで断続的に鳴き続けるのだそうです。また、1世紀のエルサレムでは、養鶏がなされていたということが考古学的にわかっているそうです。ですから、この日ペテロは、エルサレムのどこに身を隠していたとしても、何度も何度も繰り返して鶏の鳴き声を聞いたはずだというのです。

そうだとすると、イエス様はなかなか残酷な方で、ペテロは何度も何度も自分が攻められていたたまれなかっただろうという想像もできますが、私はちょっと違うと思うのですね。イエス様がわざわざ最後の晩餐の席でペテロの裏切りを鶏の鳴き声と絡めて予告されたのは、ペテロを苦しめるのが目的ではなかったと思うからです。

「あなたは、自分ではたとえだれがつまずいても自分はつまずきません。たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」とまで言い張ったけど、やっぱり「知らない」と3度も言ってしまったね。

私がガリラヤ湖で初めてあなたに声をかけたとき、あなたがそんなに弱い人間だと私が知らなかったと思うのか。

あなたが、もっと気骨あるブレない男だと見込んだから声を掛けたと思うのか。

あの、最初に受難と復活の予告をしたとき、改めて「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従って来なさい」と再び招いたとき、お前が潔く自分を捨てられる人間だと見込んで声を掛けたとでも思っているのか。

もし、そうであるならば、私はわざわざ十字架に架かる必要などなかったではないか。

サタンの誘惑通り、十字架の道を裂けて通ればよかったではないか。

そして、あなたの強さをもって、しっかりと私についてきてもらえばよかったじゃないか。

しかし、それができないからこそ、私は十字架についてです。

私は失敗しなかったあなたではなく、むしろ失敗したあなたに付いてきてもらいたい。

あの大見え切って強がって、ものの見事に裏切ってこけてしまったペテロが、今は、あの十字架は弱い自分のためだったんだと受け取って喜んでついてきている、とわかればどんな人でもわたしについて来れるではないか。」

何度も何度も耳に入って来る鶏の声は、そのようにペテロに聞こえるようにやがてなっていったのではないでしょうか。もし、その日のうちにその変化が訪れなかったとしても、その日ペテロの耳に心に残って鶏の鳴き声は、復活の日を越え、ペンテコステの日を越えていくにつれて、後付けでそのように聞こえるようなっていったのではないでしょうか。

Ⅱ. 誘惑と招きの遭うところ

 これまで、「繰り返される誘惑」と「繰り返される招き」ということをお話してきました。けれども、今のところ「誘惑」と「招き」がバラバラになっているように感じます。最後にこの2つのことに関連を持たせてお話を締めくくりたいと思います。

最初のポイント「繰り返される誘惑」のところでは、イエス様が受けれた誘惑という観点で見てきましたが、私たちも日々同じような誘惑にさられています。それは、歩むべき道を踏み外させようとする誘惑です。ペテロに代表されるように、私たち人間はみな弱いものです。普段は威勢の良いことを言っていても、都合が悪くなると、雲隠れしたり、ごまかしたり、しょうがないと行って見たり、言い逃れの天才のような者たちです。

そして、今日の聖書箇所から具体的に私たちの弱さを考えるとすれば、34節にある、「自分を捨て、自分の十字架を負って」という部分ではないかと思います。これが簡単にできる人はいません。これを完璧にできる人もいません。

「だれでもわたしについて来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなし。」という一句に、誘惑と招きが混在していると思います。「自分を捨て、自分の十字架を負って」というイエス様の難易度の高い条件付け対して、いつでも、「そんなことはだれもできていない」「そんな苦しい道は通らなくてよい」「そんなことを言うのは理想にすぎない」「偽善的だ」いろいろと、この条件付きの招きから逸らそうとする声が聞こえてくると思います。

私は、この「逸らそうとする誘惑」と「わたしに従って来なさいとの招き」の両立のカギは最初の部分にあるのではないかと思います。すなわち「だれでもわたしについて来たければ」の部分です。昔よく歌った子供讃美歌に「だれでもわたしについて来たいと思うなら…」というのがありました。大好きな讃美歌です。その歌詞でいうならば、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」ということです。

イエス様が「だれでも」と仰るときには、本当に「だれでも」なのです。どんな失敗をしてきた人でも、どんなに自分にあきれ返っているひとでも、どんなに自分の弱さに打ちのめされている人でも、まさに例外なく「だれでも」なのです。そしてその「だれでも」が「わたしについて来たいと思うなら」というのは、「イエス様についていきたいと思っていい」ということです。サタン呼ばわりされてしまったペテロも、三度「知らない」と裏切ってしまったペテロでも、そう思ってよいと招かれているのです。人間社会はデータを出してきて、あなたはダメですと言います。しかし、イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら」これだけだよ、と仰るのです。こう思い続けるところにのみ、「自分を捨て、自分の十字架を負う」道が開かれていくのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、暦の上では、棕櫚聖日、イエス様が最後の1週間を過ごすためにエルサレムにお入りになったことを記念する日曜日でした。私たちは、連続してマルコの福音書から学びました。繰り返される誘惑と繰り返される招きについて学びました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら」という呼びかけは私たちへの希望の言葉です。どうぞ、「こんな私ですけれども、イエス様あなたに付いていきたいです」という幼子のような願いを持ち続ける者としてください。トランプ関税で激震が走っている世界、ウクライナ、ガザで戦争がなかなか終わらない世界を憐み導いてください。今日から始まる受難週の歩みを1日1日お導きください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。