□2025-04-06 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書8:31-32
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(33)「捨てられ、殺され、よみがえる」
□説教者 山田誠路牧師
導入 -テキストの概要―
今日はキリスト教の一丁目一番地の話をしたいと思います。前回は、「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」とのイエス様の問いに対して、ペテロが「あなたはキリストです」と見事に信仰告白したところを学びました。そして、そのことは、マルコの福音書全体の転換点であり、前半のクライマックスだと申し上げました。ここを境にして、ガリラヤを巡り歩く旅から、エルサレムへ向かう旅に変わること、奇跡物語から受難物語へと変わることなどをお話しました。
今日の所は、それに続くところです。ペテロの信仰告白の直後に続きくものは何でしょうか。それは、イエス様ご自身の受難予告です。正確に言うと、受難と復活の予告です。
今日のテキストは、短くに二ヶ節だけとしました。その中でも特に31節の一文目に注目し、喜多見チャペルとしてはじめての聖餐式の備えとさせていただきたいと思います。
ポイントとしては、
1. 罪の本質
2. 救いの本質
の大きく二つです。
Ⅰ. 罪の本質
今読んだ箇所には、特に「罪」という言葉は出て来ておりません。いきなり、何で「罪」?と思われたかもしれません。「文脈を無視して強引に罪、罪っていうのはやめた方がいいよ、牧師さん」というアドバイスが聞えて来るかもしれません。しかし、私は、このところに、聖書が問題としている罪ということがよくわかる形で表れていると思います。二つのことがあります。
1. ズレ
一つ目は、ズレということです。ズレに更に二つあります。
- 神の国のイメージ
先ほども申しましたように、この受難予告はペテロの信仰告白の直後にあります。ペテロの信仰告白はペテロ個人というよりも、ペテロが代表している形になっていますが、弟子たちの信仰告白でしょう。この信仰告白と受難予告が隣り合っているのは、何を意味しているのでしょうか。
弟子たちは、イエスがメシアだということを告白し、それをイエス様が否定なされず、むしろ褒めてくださった。その頭には、何があったかと言うと、イエス様がエルサレムに入って行って、ユダヤ人の王となり、ローマ帝国の圧政からイスラエスを解放し、かつてのダビデやソロモンの時代のような繁栄が神の選びの民である自分たちに訪れる、そのようにして神の国が実現する、というイメージを持っていました。そこには、イエス様が殺されることと、死からよみがえることは含まれていません。そんなまどろっこしいプロセスは不要です。メシアなら、対抗勢力を蹴散らせばいいだけです。それができる力を持っているのがメシアです。
しかし、イエス様の口から出て来たことは、それとはまったく正反対の「殺される」ということでした。イエス様が実現しようとされていた神の国は、十字架による死と三日目の復活を経なければ実現しないものでした。ここに、大きなズレがあります。
罪の本質の一つ目はこのズレにあります。すなわち、私たち罪ある者たちには、本当に私たちを幸せにするプロセスも目指すべきものも、神様が与えようとしておられることも正しくイメージすることができないのです。私たちが、こういうプロセスでこういう状態にたどり着いたらそこに幸せがある、というそのイメージが実は本当は私たちに幸せをもたらすことのないフェイクなのです。私たちはガセネタを掴まされているのです。
2. ネジレ
二つめは、ネジレです。31節のイエス様が殺さるという予告で一番文字数を使っているのは、誰に殺されるかという部分です。若干、複雑な構造になっていますが、イエス様を死に追いやるのは、「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」という3点セットです。一言で言うと、当時のユダヤ教の宗教指導者たちです。彼らこそ、誰よりも熱心にメシアを待望し、神の国の到来を待ち望み、そのために神のみこころに沿うために神の与えた律法に忠実に生きることを実践しているという自負を持っていた人たちでした。しかし、その熱心は、熱心であるほど、彼らのメシア・イメージにあわない人物を排斥する方向に働きます。
ここからわかることは、罪ある私たち人間は、自分では自分のことを救えない、ということです。神に従っているという自負をもって、熱心に追及すればするほど、真理を否定する方向に行ってしまうのです。私たちはこのネジレの中に取り込まれているのです。
Ⅱ. 救いの本質
それでは次に大きな二つ目のポイント、「救いの本質」に進みたいと思います。ここでは三つにわけてお話しようと思います。
1. 罪の最大限の力が発揮されることによる救い
メシアが殺されるということは、メシアの敗北、逆に、罪・悪の勢力・サタンの勝利を意味すると考えるのが普通です。しかし、真実はその逆だったのです。死は歴史上すべての人を飲み込んで倒してきました。アレキサンダー大王も、ジンギスカンもナポレオンも世界制覇の野望の途中で死に飲み込まれて去って行きました。プーチンも習近平も金正恩もトランプもみな死んでいきます。そして、死は、彼らから持っているものをすべて奪いつくします。この世を去る時には、権力も、富みも、領土もみな死に奪い取られて、置いて行かなければなりません。死は最強です。
しかし、死はイエス様からは何も奪うことはできませんでした。「そんなことを続けると殺すぞ」と脅すと大抵の人は、自分の身を守るために節操を曲げます。しかし、イエス様は、殺される道をまっしぐらに進みながら、人々を愛することをやめず、平安の失わず、真実を尽くすことを貫かれたのです。そして、復活されることによって、逆に死の持つ力のすべてを奪ったのです。敵の持つ最大限の力を発揮させ、それをすべてまともに受けて、それがすべて自分の身に効いて、死んで、しかしそれで終わらなかった。そこからよみがえることによって、罪の支配を終わらせたのです。
イエス様の実現される神の国は、ですから、どうしても、十字架上の死とその後の復活を経なければならないものなのです。私たちの救いは、そのようにしてもたらされた、尊い、価高きものなのです。
2. 御子の苦しみによって
救いの本質の二つ目のことに進んでいきます。それは、「御子の苦しみによって」ということです。さきほど31節の多くの部分は、イエス様が誰によって殺されるかということに触れていると言いましたが、その前に「人の子は多くの苦しみを受け」という言葉があります。
「死」は、生命活動の停止という、線を越えるという変化、結果、状態ですが、「苦しみ」というのはプロセスです。ギロチンにしろ絞首刑にしろ死はほぼ一瞬で訪れますが、恐怖は無限の長さがあるでしょう。私は経験していないので、想像に過ぎませんが。死刑を宣告されてから執行されるまでの日は、一日一日が永遠に続く恐怖との闘いでしょう。最後に断頭台の階段を上る時も、その一足一足が永遠に続く苦しみのように感じられることでしょう。
まず、押さえておきたいことは、イエス様にとっても、十字架に掛けられて死ぬことは苦しみだったということです。へーちゃらのことだったのではないのです。鍛え抜かれたプロボクサーのお腹に、私が思いっきりパンチを打ち込んでも、痛くも痒くもないでしょう。イエス様は死に至るまでの苦しみを実際に、苦しみ抜かれたのです。
「多くの苦しみ」という表現は少し気になるところです。英語で言うと”many things”ということですが、それは必ずしも、ユダに裏切られ、ペテロに裏切られ、ばかにされ、ツバキを掛けられ、鞭うたれというような種類や数が沢山ある、ということでは必ずしもないと思います。イエス様がお受けになったお苦しみが生半可のもの、通りいっぺんのもの、誰でも経験するようなものではなく、徹底した苦しみだったということを表現しているのだと思います。
私たちが一人一人罪を持つゆえに苦しまなければならい、その苦しみ、不幸、痛み、悲しみ、といったもののすべてをイエス様が代わって身に負ってくださったということが、この「多くの苦しみ」で言い表されているのでしょう。
ですから、「イエス様は、私たちの代わりに死んで下った。その身代わりの死によって私たちに救いをもたらした」という言い方もその通り正しいですが、同時に「イエス様は、私たちの代わりに苦しんでくださったことによって私たちに救いをもたらした」ということも同じくらい大切な真理なのです。
1516年にグリューネヴァルトというドイツの画家が描いた「イーゼンバウムの祭壇画」という作品があり、その中に十字架に付けられたキリスト像があります。イエス・キリストの十字架上での苦しみをもっともリアルに描いた作品として有名です。ウィキペディアの説明では、「第1面の中央パネルに描かれた十字架上のキリスト像は、キリストの肉体に理想化を施さない、凄惨で生々しい描写が特色である。十字架上のキリストの肉体はやせ衰え、首をがっくりとうなだれ、苦痛に指先がひきつっている。」と解説されています。私がこの絵を見たとき、一番引きつけられたのは、口をポアーンと横長に開き、瞼を閉じ、首を斜めに垂れているイエス様の表上です。私には、言葉でそれを表現する能力がありませんが、「苦しみ抜いた」というのが一言でいう印象です。この絵を見るならば、たちどころにその人の持つどんな深い悲しみも、傷も、苦しみもたちどころに、イエス様の苦しみに吸い込まれて、癒され、慰めを与えられような、そんな絵です。
イエス様は「多くの苦しみを受け」ることによって、私たち苦しむものに救いを与えてくださったのです。
3. 神のご計画-愛-によって
最後に、31節に書かれている内容のもう一つの要素に注目したいと思います。それは、「なければならない」というところです。イエス様が殺されるということは、この時点で、「そうならなければならないこと」としてイエス様当人に認識されていました。
イエス様が殺されたのは、すでに申しましたように、エルサレムの宗教指導者たちがそうしたのです。しかし、イエス様と宗教指導者たちの力関係で決まった、成り行きでもないのです。それだけではないのです。そこには、深い神のご計画があったのです。人の体をもった御子イエス・キリストが殺されなければならないと定められたのは、父なる神ご自身なのです。そこには、はじめとおわりがある人間の歴史の枠をはみ出た神の時間軸で言う永遠の昔から定められた神様の不退転の意思があるのです。それは、どんな犠牲をはなってでも私たち人間、一人一人を、一人残らずを罪から解放し、幸せにしようというご意思です。
その覚悟の中に、御子が苦しみこと、死にいたるまで痛めつけられ、これ以上みじめで無様で不名誉な死に方はない、十字架死に至るまで辱められることが含まれていたのです。そして、その覚悟こそが、私たち一人一人に向かう神様の本気の愛なのです。私たちクリスチャンはその神様のご愛の中に自分があることを確認するために、また私たち逸れやすい者たちが、自らをもう一度神様の愛の中に留まることを意識するために、聖餐式を持つのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、前回のペテロの信仰告白に続く受難と復活の予告のところから学びました。次の日曜日は棕櫚聖日でその日から今年の受難週が始まります。受難週を前にした今週も、主の味わわれた多くの苦しみが私の罪を身代わりに担うためであっとことを聖霊によって深く味わい、それが私たちの喜びとなるまでにその真理を受け止める者としてください。ミャンマーでの大地震で苦しんでいる方々をお助けください。ウクライナとガザで血が流さることが一日もはやく終わるように、お働きください。新年度が始まって参りますが、緊張と希望の中にあるお一人お一人をお守りください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
