□2025-03-16 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書8:22-26
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(31)「何か見えますか」
□説教者 山田誠路牧師
導入 -テキストの概要―
先週の最後の場面は、ガリラヤ湖の西岸、ダルマヌタ地方、地図ではマグダラと書かれているところから北東にあたるベツサイダというガリラヤ湖畔の町に向けてイエス様と弟子たち一行が舟で移動中でした。その船の上で、「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」とイエス様が弟子たちの理解の鈍さをお叱りになったという話でした。
さて、今朝はその船がベツサイダに着いた直後のところです。一人の目の見えない人をイエス様がお癒しになったという奇跡の出来事です。
序論として大きく捉えておくべきことが二つあります。
1. メシアの要件
一つ目は、前々回にもお話しましたが、耳の聞こえない人、口のきけない人、そして今回のように目の見えない人を癒す奇跡を行なうことは、イザヤ書に預言されているメシアの特徴なのです。後の時代にメシアが現れ、そのようなことをすると預言されていたのです。逆に言うと、ユダヤ人は何か影響力のある人物が出現すると、その人がその手の奇跡を行なうかどうかで、その人物をメシアと思ってよいかどうかの重要な判断材料とされていたのです。
マルコの福音書は、特に前半は奇跡オンパレードという感じで、いろいろな種類の癒しを中心として奇跡が綴られていますが、その中にこの三種類を記すことによって、マルコはあえて説明は加えなくても、自分が描いているイエスという人が、旧約聖書に預言されてきたメシアの要件を正式に満たしているのだ、ということを描いているのです。
2. 弟子たちの鈍さとのコントラスト
二つめは、この癒しの記事は、先週の中心的なトピックであったお弟子さんたちの理解の鈍さとのコントラストを意識して書かれているということです。お弟子さんたちは、何もかも捨ててイエス様に従ってきた人たちです。そして、四六時中イエス様と行動を共にして、イエス様の言動をつぶさに3年間、親しく見てきた人たちです。しかし、その彼らの理解が鈍くて、イエス様は「まだ、分からないのですか。」と厳しい言葉を弟子たちに向けたのです。
実は、マルコの福音書ではほぼ一貫して、弟子たちは褒められません。下手をすると、というか正式に認められているマルコの福音書の最後の節を読み終えてもまだ、弟子たちの理解は鈍くて開かれないままなのです。それに対して、マルコの福音書において信仰を働かせて、イエス様のお褒めに与ったり、癒されたり、救いを得たりしている人たちというのは、異邦人であったり、悪霊に取りつかれた人々であったり、いろいろな病を抱えて社会から疎外されて打ちひしがれて自分では自分をどうすることもできないような人たちです。
マルコはそのコントラストを描きながら、来週お話するとことで、ついに弟子たちの目もやっと開かれるという一つの頂点に向かっていくのです。でっすから、今日のところは、クライマックスのシーンとなる直前の重要な場面だと認識してください。
今日は、これから本論として
Ⅰ. 問いかけることによる癒し
Ⅱ. 二段階のいやし
という二つのポイントからお話していきます。
Ⅰ. 問いかけることによる癒し
1. 多くの奇跡はイエスの宣言によって起こる
イエス様がなされた癒しの記事を数えてみると四つの福音書トータルで28あります。それぞれに微妙な違いや特徴がありますが、押しなべて言うと、癒しの奇跡はイエスの何らかの宣言で起こる、というパターンが多いです。例えばツァラアト、すなわち重い皮膚病を患っていた人には「わたしの心だ、清くなれ」と宣言されました。片手の萎えた人には「手を伸ばしなさい」と命令されました。前々回に学んだ耳が聞えず、口がきけなかった人には「エパタ」すなわち「開け」と宣言されました。
この一番の基本形にあるのは、天地創造での神の第一声「光よ、あれ」「すると、光があった」です。私たちはこれを普通、神の言葉には力がある。神がその御口から言葉を発せられたならば、それは必ず実現する。神の言葉が発せられたのにその実現を阻むことが出来るものはこの世に一つもない、と解釈します。北朝鮮では、金正恩が口にしたことばは一つも虚しく地に落ちることはなく、すべて実現するでしょう。
しかし、今回の癒しの場面では、イエス様は宣言や命令ではなく、「何か見えますか」という問いかけをされています。このことも、今回の奇跡の大きな特徴と言ってよいと思います。今回もイエス様は「エパタ」「開け」と命令して、いっぺんにこの人の目を開くこともおできになったはずです。しかし、今回はそのようにはなさらなかったのです。
2. 問いかけは、神が人間に対する基本形
実は、先程から私は、イエス様の癒しの奇跡は、主にイエス様の宣言によってなされると申し上げましたが、そのことはもう少し深く考えてみる必要があります。創世記の初めの方を見ると、確かに神は「光、あれ」で光を無から呼び出されましたが、それは、神の言葉を受け止める主体が存在していないので、宣言以外にはあり得なかったのです。ガリラヤ湖の嵐を沈める時も、相手が波であるならば、宣言とか命令しかありえません。
しかし、神が言葉を発する相手が人間である場合には、聖書は、本当は宣言や命令を基本にはしていないのです。それが、一番端的に表れているのは、創世記3章でアダムとエバが禁断の木の実を食べてしまったあとの場面です。あの時、神は人に対してどんな言葉を向けられたでしょうか。「あなたはどこにいるのか。」「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならないとわたしが命じた木から食べたのか。」「あなたは何ということをしたのか」これらは、どれも命令でも宣言でもなく、すべて問いかけです。
聖書全巻を通して記されている神の最も大きな特徴の一つは「問いかける神」ということです。人間に問いかけて来られる神、それが私たちが聖書から知ることのできる神様の本質なのです。
そして、それは同時に私たち人間の本質をも規定します。私たち人間は、なにが他のすべての生きとし生けるものと違う特徴なのでしょうか。火を使うことでしょうか。ことばを使うことでしょうか。直立二足歩行をすることでしょうか。それらもそうかもしれません。しかし、もっと決定的なのは、創造主である神様が、私たちが神に何らかの反応をすることを期待して問いかけて来られほどに尊い存在なのだということです。
Ⅱ. 二段階のいやし
それでは次に大きな二つ目のポイントに進みたいと思います。先程も言いましたが、福音書には28の癒しの記事がありますが、その中で、一発で完治せず、段階を踏んでツーステップで完治したという唯一のケースが今日とりあげているこのベツサイダでの目の見えない人の癒しなのです。私は、この28分の1という一つの例外がイエス様の生涯の中にあったことの意義は大きいと思います。
1. いろいろなケースがある
もし、イエス様の癒しの事例にこの例外がなければ、癒しというものはいつでも一発で完全によくなるものだ、という固定概念が生まれます。そして、それに合わない事例は、不完全だとか、なまぬい、などの負の烙印が押されることになります。しかし、私たちの人生はいろいろなことが複雑に絡み合っています。そして、むしろ簡単に解決できそうなことでさえ、時間がかかったり、一筋縄ではいかなかったり、いっぺんに解決するなどと言うケースの方がまれだ、というのが私たちの現実です。
私は長年教師をしています。担任の経験はあまり多くはないのですが、あるとき珍しくも岡で始まる人が4人(岡田、岡野、岡部、岡本)連続しているクラスがありました。学校のクラスですから、皆同い年ですし、同じ制服ですし、髪形もほぼ同じです。4月の頭に初めて対面したときには、この4人をいつになったらちゃんと間違えずに呼べるようになるだろうと気が重くなりました。
しかし毎日顔を合わせているとだんだんそれぞれの顔の区別がハッキリしてきます。そして、AさんはいつでもAさん。BさんはいつでもBさん。というように、一人一人には個性があって、それは変わらないことがわかってきました。
私たち一人一人もどんなんに似た者同士でも別人人格です。その人に一番良いことは、別の人には一番良いとは限らない、ということを覚えておきたいと思います。受験の世界には、どんな分野の試験でも合格体験記というものがあります。「わたしはこのように勉強して合格を勝ち取りました」というやつですね。私はある時ある人がこう言っているのを聞いてハっとしたことがあります。
「本当は合格体験記は役に立たなんだ。だって、一番いい勉強の方法は人それぞれだから。でも、本当は不合格体験記の方が役に立つんだ。こうやったら失敗しました、と言う例は多分だれにでも当てはまるから。」
自分にとって良かったことの押し売りはなるべく控えめにして、逆に人が良かったことの例は、それまでの自分の物差しに合わない場合でも試してみる余裕を持ちたいものだと思います。
2. 一発でうまくいかない方がよいことある。
この目が見えなかった人の目が二段階ではっきり見えるようになったということから学びたいことがもう一つあります。それは、私たちが問題・課題を抱えているときには、それがなるべく早く一挙に解決されることを誰でも願います。しかし、問題・課題は一挙に解決することがベストとは限らないということです。時間をかけて、段階を踏んで解決していくことの方が、一挙に解決するよりも断然よい、ということがあると思います。
ちょっと外れた例になってしまうかもしれませんが、スポーツの世界を考えてみましょう。昨日も、大谷がドジャースと巨人のプレシーズン戦でホームランを打って大いに盛り上がったようですが、野球の話、しかも古い野球の話を少しさせていただきます。
大谷も甲子園には出ていますがさほど目立った活躍は見せませんでした。甲子園で特別なヒーローとなった選手がプロ野球でもスーパースターであり続けるのは、極めて例外的です。もちろん、甲子園で並外れた活躍をした選手は、プロでもそこそこの活躍をすることは珍しくありません。しかし、私見にはなりますが、甲子園史上最高のピッチャーである江川にしても、最高のバッター清原にしても、もっと活躍するはずだったのにこの程度かという選手で終わってしまいました。
高校時代の江川は、バットーが江川の球にかすっただけで甲子園中がどよめいたほどの圧倒的なピッチャーでした。高校卒業後素直にプロ入りしていれば300勝はしていただろうと言われる素質をもっていながら、プロ実働8年間で結局たったの135勝利どまりです。歴代44位の記録です。
清原は、甲子園での本塁打数が通算13本で二位に倍以上の差をつけてぶっちぎりでナンバーワンです。高卒プロ入り一年目の成績は打率304、ホームラン31本と歴代高卒新人の最高記録。公式戦最終試合には4番打者となり、そのまま日本シリーズでも四番で活躍し、日本一になりました。この時点では、王を超えるのは清原しかいない、と清原の余りにも輝かしい活躍にみな羨望の眼差しを向けていました。ちなみに王の高卒一年目の成績は、打率161、ホームラン7本。しかし、清原は23年のプロ生活で結局一回も何のタイトルも取れずに終わりました。しかも、江川も、清原も引退後はコーチも監督もしていません。
逆に本当のスーパースターとなり、球界の最高峰の選手として息長く活躍し、引退後も監督としても功績を残している人たちの中には、本当に花開くまでに苦労があり、時間がかかった選手が多いです。野村はテスト生から出発です、落合は高校も大学も野球部の入退部を繰り返し野球に打ち込んだ青春時代を持っていないくらいです。王貞治のプロ生活の出だしも決して順調ではありませんでした。甲子園優勝ピッチャーとして入団したのに、ピッチャーは3日で首になり、最初の三年は全く打てつずに「王、王、三振王」とやじられ、左利きなのでファーストの守備以外は出来ないので、ファーストを首になったらもう辞めるしかないというところまで追い詰められたところからのスタートでした。
私たちの人生に対して、私たちは自分自身でこうなればいいのにという計画を持っています。その通りに事が進めば私たちは成功と思います。しかもそれが失敗なしに、挫折なしに、一発でうまくいけば「大成功!」と大喜びします。しかし、神様は私たちよりも、もっともっと大きい方です。私たちが大成功と思うことを遥かに上回る良いご計画を私たちに対してお持ちです。そして、そのためには、一直線にそこに到達するのではなく、私たちにとっては、失敗、挫折、停滞、頓挫、中止などマイナスとしか思えないことを経験するというプロセスが入っていることがよくあります。
私たちは目の前のことしか見えず、せっかちで、弱い者なので、マイナスと思えることまで含めた高い次元のプラスを自分自身に対して計画することはできません。しかし、神様はいつでも私たちの思いを遥かに超えた神様のベストをもって私たちに臨んでいてくださるのです。
3. ありのままを口にする大切さ
今回の癒しの記事を一度見てみましょう。イエス様が「何か見えますか」とお尋ねになると、この男の人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と答えました
ここで大切なことは、ありのままのことを神様の前に自分の言葉で自分の口で話すことです。私たちが半分神様のことがわかったようで、もう半分ではおぼろでかすんでしか見えない。とういう状態をありのまま神様に告げるのです。そうすると、神様はやさしくもう一度両手で目に触れてくださって、私たちの目がハッキリと開かれていくのです。
4. 弟子たちの開眼の姿
そして、この目が二段階で開かれていく姿というのは、実は、また弟子たちの開眼のことを象徴しているとも言えます。ペテロを例に取ってみると、ペテロはガリラヤ湖で網を打っているとき、「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われて、即座に何もかも捨ててイエスについて行きました。その最初の出会いにペテロの第一の開眼があります。自分の過去、現在のすべてを捨てて、自分の未来のすべてをこの人にかけてみようと思えるほど、イエス様の魅力に目が開かれたのです。しかし、その時ペテロの心の目が捕らえたイエス像は、まだ本やりとしたものでした。それが、来週、学ぶところでハッキリとイエスが何者であるかを告白するに至るのです。それがペテロの第二の開眼です。
しかし、本当は、これですべてが見えるようになったかというとそうではないのです。イエスが十字架につけられて殺されていまい、自分は3度も知らないと言って裏切ってしまった、という絶望。そしてその絶望の中で復活の主に出会うという大どんでん返しの希望。これらを通ってまた初めて実現する第三の開眼があるのです。その後のペテロの働きについて読んでいくと、更に第四の大きな開眼もあるのです。
肉体のこの目の視力の回復は、二段階でこれ以上ない、というレベルまで回復することが可能でしょう。視力はよくて1.5や2.0どまりです。しかし、私たちの心の目の視力の回復には、もっと奥深いものがあるのです。そして、それは、その都度、その時点での自分への深い失望や、挫折、失敗、限界、行き詰りなどをバネにしてしかステップ・アップしていかないようになっているのです。そこに、神の知恵があるのです。それは、自分でプログラムして自動的に上がっていくことはできない世界なのです。神様にどうしてもふれていただき、その時点で自分の口で、自分の言葉で、ありのままの自分を神様の前に申し上げるとき、神様の優しい手が私たちの霊の眼にそっと触れられて、開かれていくのです。そんなやさしい神様の手に期待しながら今週も進ませていただきましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ベツサイダの目が見えなかった人の癒しの記事を学びました。珍しく、イエス様は、今回は、二段階で癒したこと、命令・宣言ではなく語り掛けることによって癒したことに心を留めました。そして、私たちが今の自分のありのままを言い表すことの大切さにも心を向けました。どうぞ、この一週間、私たちが神様とともに正直な歩みをし、心の目が更に開かれて行きますように、お導きください。混迷を深める、世界と日本にも等しく、見えていない目にあなたたが触れて、自分が相手が歩むべき道が見えるようにお助けください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
