□2025-03-09 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書8:1-21
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(30)「パン種とパン裂き」
□説教者 山田誠路牧師
導入 -テキストの概要―
今日は、通常よりも長い目にテキストを選びました。大まかにまとめると、①8章1節から10節までのいわゆる4000人の給食の記事。②次の11節から13節までのパリサイ人たちがイエス様に「しるし」を要求したこと。③そして14節から16節までの弟子たちとイエス様とのパン種をめぐるやり取り。④17節から21節までのイエス様が弟子たちの理解の鈍さを指摘される。この4つに分けられます。
幾つかの出来事が込み入って繋がっているので、今日は、まず始めにざっと今日のテキスト全体の流れを追って行きたいと思います。そのあと、ポイントを絞ってお話する形にします。
Ⅰ.話の流れ
1. 4000人の給食
まず、8章の1節から10節までのところに展開する話は、普通4千人の給食と言われるものです。「給食」というのは、仕事を休む方ではなくて、「学校給食」の方ですね。7つのパンと少しの小魚をイエス様が感謝の祈りを捧げてから裂いて、弟子たちの手を通して配られると4000人の群衆が満腹し、余りのパン切れを集めると7つのかごになった、という奇跡の出来事です。
これと大枠はまったく同じでいろいろな数字がちょっとずつ違うもう一つの話がすでに6章32節からのところに出てきています。こちらは、「パンを食べたのは男が5000人であった」と書いてあることから「5000人の給食」と言われています。こちらの方は、もとになったのは、パンが5つと魚が2匹、余ったパン切れと魚の残りを集めたら12のかご一杯になった、と書かれていました。
押さえておきたいことは、ほぼ同じかなり大掛かりの奇跡が二度あったということです。ロケーションが異なるので群衆はほとんどダブっていなかったのではないかと思いますが、いつもイエス様と行動を共にしていた弟子たちは、二度ともこれらの奇跡を現場で体験しているのです。
2. デカポリス地方からダルマヌタ地方への移動
6章の5000人の給食の後も同じなのですが、イエス様はこの手の奇跡の後は余韻に浸ることなく、すぐに移動されるのです。今回は、この4000人の給食の奇跡が起きたデカポリス地方から舟に乗って、ダルマヌタ地方に行かれたとあります。ダルマヌタという地名は、マタイの福音書ではマガダン地方と、別の名前になっています。そしてこれらは、聖書地図で見つけられる名前で言うと、マグダラのことだと考えられています。マグダラは、ガリラヤ湖の西側でカペナウムから10kmくらい離れたところになります。一行はガリラヤ湖の上の方で東から西に横切って移動したことになります。
3. パリサイ人たちが「しるし」を要求する
ダルマヌタ地方に到着すると、パリサイ人たちがやって来てイエス様に詰め寄ります。「天からのしるしを見せてください。」これをもう少し盛って言い換えるとこんな感じになるかと思います。
「あなたは最近、いろいろなところを回って、今まで聞いたこともないような話をし、病人を癒したり、悪霊を追い出したりしているようだな。それで、あなたが行くとこと行くところ大勢の人が集まるようになっている。その中には、もしかしたらあなたが来るべきメシアなのではないかと思い始めている者もいる。ところで、私たちにはあなたが本当に神から遣わされたメシアなのかどうかをはっきりさせる責任がある。そこで、誰もが納得できるしるしを今、目の前で見せてくれ。これまであなたがしてきたような思わせぶりのようなことではなくて、これならメシアにしかできないという決定的なものをやってくれ。」
こんな感じではないでしょうか。それに対するイエス様の反応は、きわめて薄いものでした。まずは、「心の中で深くため息をついて」とあります。平たく言うと、がっくり来たということでしょうね。「今更、そんなことを言うのか。わたしがこれまで語って来たこと、なしてきたことで十分ではないか。」口には出されませんでしたが、イエス様の内心はこんな感じだったでしょうか。
そして「まことに、あなたがたに言います。」というハッキリとした宣言をするときの定番の語り出しから「今の時代には、どんなしるしも与えられません。」と言って、13節の冒頭には、「イエスは彼らから離れ」とあるように、イエス様はそれ以上パリサイ人の相手をされませんでした。
4. 再び舟に乗る
イエス様は、ここでまた舟に乗られるのです。ちょっと、今日は舟に乗り過ぎではないかと思うほど、何かあるとそのあとすぐにイエス様は舟に乗るのですね。今いるところは、ガリラヤ湖の西岸のマグダラ地方ですが、そこから舟に乗って、次に行ったところはベツサイダという町です。それは8章22節に書いてあります。ガリラヤ湖は、お菓子の柿の種ではなく、本物の果物の柿の中に入っている柿の種のような形をしているのですが、ベツサイダは一番上の少し東よりのところです。マグダラからベツサイダへの移動は、真東というより北東に斜めにガリラヤ湖の上の方を短く横切る感じです。
5. 舟上でのパン種についての警告
イエス様は、この舟の中で弟子たちに少しいきなり感のある話をされました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」ダルマヌタ地方でパリサイ人たちに「しるしを見せてくれ」と言われたことが、相当イエス様には尾を引いていたように感じます。
4000人の給食の出来事の次にパリサイ人の頑なさに接し、「パリサイ人のパン種」というフレーズがイエス様の頭に浮かんだのでしょう。そして、それに触発されてもう一つ「ヘロデのパン種」ということばがイエス様の口から続きます。ヘロデについては、マルコの福音書では、6章にバプテスマのヨハネの首をはねた人物として登場しますが、イエス様が直接かかわったわけではありませんが、ご自分の親戚筋に当たり道備えをしてくれたバプテスマのヨハネの死は、イエス様の心に重く留まっていたのでしょう。
ここで簡単にパリサイ人のパン種とヘロデのパン種について解説しておきたいと思います。
①パン種
まず二種類のパン種それぞれについてお話する前に「パン種」について押さえておきたいと思います。パン種とは、パンを焼くときに小麦粉に少量まぜるイースト菌のことです。パン種を入れないで焼くと、かたくてペシャンコなパンになってしまいますが、パン種を適量入れると粉全体が何倍にも膨れ上がり、柔らかくて美味しいパンに焼きあがります。私たちの食生活の中ではパン種は、まったく悪いものではなく、むしろパンを美味しくしてくれる重宝なものです。しかし、聖書では、パン種はよい意味では使われません。それは、悪い方法で、影響力を増大させ、大きくなった悪い影響力を行使させるそのような原理として登場します。
②パリサイ人のパン種
さて、パリサイ人のパン種とは一体どんなものなのでしょうか。マタイの福音書でははっきり偽善と書かれているのですが、マルコでは文脈上、「頑なさ」と受け止めるのが自然だと思います。イエス様が権威ある教えを口にされ、病人を癒し、悪霊を追い出し、少しのパンと魚で多くの人の飢えをしのがせたという、力ある業をなしておられたのに、どうして、あくまでイエス様の権威に挑戦し、いちゃもんをつけ、イエス様を否定しようとするのでしょうか。
その根底にあるのは、「こいつが本物のはずはない」という揺るがぬ前提です。そして、どうしてその前提が確固として横たわっているのかといえば、「こいつが本物であっては困る」という自己都合があるからです。そしてその自己都合はどうしてあるかというと、すでに持てる者となっているからです。彼らは厳しい戒律を大きな犠牲を払って人一倍熱心に守っている宗教熱心な人に表面上は見えますが、その一番深いところには、すでに宗教的権威を持って、人々の尊敬を集め、人々を教える立場を得ているからです。失いたくないものをすでに持っている人は、真に開かれた心で真理を追究することが難しいのです。これは、自分自身のこととしてよくよく警戒したいことです。
③ペロデのパン種
次にペロデのパン種です。これは、政治的権力です。武力をもって他人に自分の言うことを聞かせる力です。あるいは武力には限らないかもしれません。今はハラスメントに社会が敏感になり過ぎている感がないではありませんが、あらゆる種類のパワハラ、セクハラ、モラハラなどはヘロデのパン種の亜種だと言えるでしょう。この点においても私たちは自分が加害者とならないように十分に警戒したいと思います。
6. まだ悟らないのですか。
そして最後に、8章17節以降、イエス様が弟子たちの鈍さを指摘する場面が続きます。舟の中でイエス様がパリサイ人のパン種とヘロデのパン種にはくれぐれも気を付けるように言われましたのに、それを受けて、というか受け流して、弟子たちが舟にパンを一つしか持ってきていないことについて議論し始めたのがきっかけとなりました。
イエス様は弟子たちにかなり厳しい言葉を使われました。17節「まだ、分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。」21節ダメ押し的に、もう一度「まだ悟らないのですか。」
Ⅱ. 弟子たちの鈍さのツボ
1. 「持っていないこと」を議論
さて、ここから二つのポイントを立てて短くお話していきたいと思います。一つ目は、「弟子たちの鈍さのツボ」についてです。マグダラ地方からベツサイダに向かうために舟に乗ったときに、パンを一つしか持ってこなかったと14節に書いてあります。その弟子たちが、今見ましたように二つのパン種にはくれぐれも気をつけなさい、とイエス様から注意を喚起された直後に、「オレたちパンを持ってくるの忘れたね」という会話をすることがそれほど悪いことなのでしょうか。こんなに呆れられるほどいけないことなのでしょうか。
私は、今回の準備をしながらはじめそのことがなかなかピンときませんでした。しかし、準備を進めていくうちに一つのことを教えられました。ここがツボだなっと。それは、16節「すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。」そして17節「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。』」
弟子たちが議論していたのは「持っていない」ということについてだったのです。彼らの関心は、「持っていないこと」「一つしかないこと」に向けられていたのです。
しかし、みなさん、よくよく考えてみていただきたいと思います。その船にはだれが一緒に乗っておられたのでしょうか。イエス様です。ただ一人の真のいのちのパンであるイエス様が一緒におられるのです。この方が一緒におられるならば、群衆が何千人、何万人いて、元手がパン5つと魚匹でも十分であったことを弟子たちはすでに二度も体験しているのです。その彼らが「ああ、わたしたちには何もない。」「十分にない。」「一つしかない。」「よい者が十分にない。」と議論しているのです。すでに与えられているあまりにも尊いパンの尊さがわからないでいるのです。
これは、弟子たちだけの愚かさではありません。私たちすべての者に共通する愚かさです。
2. 二つの増やし方
もう一つ、弟子たちが理解していなかったことがあります。こちらは、本当に全くかすりもせずに理解していないことです。それは、いのちのパンの増やし方についてです。
今日のところには、パンを増やす二つの方法が出てきます。一つはパン種を使って膨らませる方法です。一昨日調べたら、食パンを焼くときには、水を計算に入れないでおくと、焼き上がりのパンのカサは元の粉のカサと比べると約8倍に膨れ上がります。そうして増えたものをまた元手にするとドンドンと増やしていくことが可能でしょう。しかし、気をつけておかなきゃならないことは、それらは膨らませてあるということです。実質はいつもその8分の一程度のものなのです。
しかし、ここにもう一つの増やし方があります。それは、最初に出て来た4000人の給食の増やし方です。それは、イエス様が感謝の祈りを捧げて、すなわち神に捧げられて神の祝福を願い求めてから裂くという方法によってです。
5000人の給食の記事を学んだ時も申し上げましたが、裂かれるパンはイエス様のお体を象徴しています。イエス様という真のいのちのパンはパン種によって膨らませて、見栄えを良くして、ふんわりさせて、口当たりよくして食べてもらうパンではないのです。裂かれることによって増えていく不思議なパンなのです。私たちが知っているこの世のパンは裂くと半分になります。もう一回裂くと4分の1になります。折り紙を折っていくように小さくなっていきます。
しかし、イエス様が十字架の上でお自分のお体を裂いてくださったことによる救いは、分ければ分けるほど増えていくのです。薄まらずに増えていくのです。小さくなるおとなく、増えていくのです。そしてそれは、「私たちには〇〇がない」「私たちには〇〇しかない」と言わないいのちです。私たちには「イエス様がいてくださるのですべてをすでに持っている」と告白するいのちなのです。
【メーベル・フランシス宣教師の例話】
最後に戦前、戦中、戦後を通して長く日本で働かれた女性宣教師のことを紹介して締めくくりたいと思います。その方は、メーベル・フランシスという方です。アライアンスというグループの宣教師で主に四国の松山で働いた方です。1909年に来日し、1960年まで51年の長きにわたって日本に仕えられました。その間に第一次世界大戦、世界恐慌、第二次大戦などがあり、大変な激動の生涯でした。この方の晩年だと思うのですが、よく集会でお話しになる言葉があったそうです。それは、「イエス様がいてくだされば、十分でしょ。」という言葉です。おばあちゃんになったしわしわの顔に満面の笑みを浮かべて、このフレーズを話さるのを聞きに多くの方々が集会に集ったと聞いています。
今回、メーベル・フランスについて調べていたらある短い動画が出てきました。そしてそこに、こういうことが紹介されていました。
「一粒の麦は死ぬことによって実を結ぶのです。私は昔、実を結ぶのは働くことだと思って懸命に働きました。しかし真理はそうではありません。まず、死ぬことで100倍、1000倍の身を結ぶのです。十字架に葬ってしまう。苦しくても死にましょう。キリストが内に住んでくださいます。」
裂かれることとは死ぬことです。イエス様はすべてを捨てて十字架の上で死ぬことによって、その透徹した愛のゆえに、復活のキリストとして聖霊によって私たちの内に住んでくださるのです。これが、真のいのちのパンの増え方なのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、少し長い箇所を学ばせていただきました。パリサイ人たちの頑なさ。弟子たちの鈍さ、愚かさについて心を留めました。しかし、それらのことは決して他人事ではありません。まさに、わたしこそがそのようなパン種に大きな影響を受けやすい者です。どうぞ、常に、我が目を開かれて、イエス様をいただいていることの大きさ、喜びをかみしめながら生きる者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
