「マルコの福音書を学ぶ」(29)

□2025-03-02 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書7:31-37

□説教題 マルコの福音書を学ぶ(29)「イエスの口止め」

□説教者 山田誠路牧師

導入

A. 前回からの流れ

前回は、イエス様が通常の活動範囲から外れてガリラヤ湖の北西に当たるツロ地方に行かれた時の話でした。シリア・フェニキア生まれのギリシャ人の女性が、表面的にはイエス様から冷たい言葉を掛けられたのに、身を低くしてイエス様に食い下がったように思える話の展開でした。

今日のところは、そのツロ地方からイエス様は移動されて再びガリラヤ湖周辺に戻ってこられて、耳が聞えず口が聞えない人を癒した記事です。

ポイントとしては、本日も三つ用意してきました。

1. この旅について

2. この口止めについて

3. 癒しの奇跡と救いについて

この3点です。

1.この旅について

ここでは三つの不思議についてお話します。

1. 不思議なルート

 前回のお話の場面はツロ地方でのことでした。ツロはイエス様の活動の拠点であるガリラヤ湖畔の町カペナウムから直線距離で北西56kmくらいのところです。日本に置き直してみると、この辺りからですと北西にそれ位離れたところというと秩父辺りということになります。

イエス様はそのツロから更に地中海沿いに北上してシドンというところに行かれました。ちなみにシドンという地域は四つの福音書に記されているイエス様の活動範囲の北限です。ツロとシドンの距離は直線距離で36kmほどです。方角的に少し不正確になりますが、分かりやすい地名でいうと、秩父からすると高崎あたりということになります。

このツロからシドンに行き、そこからデカポリス地方経由ガリラヤ湖畔に戻って来たというルートは非常に不思議なルートです。秩父から狛江に戻ってくるのに、一旦、高崎まで北上してから日本橋回って帰ってきた、みたいな感じです。昨日、いろいろ調べて見たのですが、当時の徒歩の旅でだいたい一週間くらいの日数がかかったのではないかと思われます。

2. 不思議な沈黙

その間、なぜシドンにいったのか、そこでどんなことがあったか、その旅の間に弟子たちとどんなことを話したのか、なども不思議なことにまったく何も書かれていないのです。7章の18節で「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。」と言われてしまった弟子たちも、しばらく福音書の記述からスーッと姿を消しています。それでも、前回のシリア・フェニキアの女性の出来事のときも、今日のところのこの不思議なルートの旅の間も、それから、今日これから見ていく耳が聞えず口がきけない人の癒しの出来事の時も、弟子たちはイエス様とずーっと一緒にいて、何から何までを見て、聞いていたことは間違いないことです。

3. 不思議なことば「エパタ」

その推測をサポートする一つの証拠は、今日のテキストのところでイエス様がおっしゃった「エパタ」という言葉です。「エパタ」はアラム語という言語で、イエス様や弟子たちが実際に使っていた原語です。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、マルコの福音書では、4箇所だけアラム語の文が出てきます。エパタはそのうちの一つです。マルコは使徒ペテロの証言に基づいてマルコが書いたと考えられています。マルコの福音書が書かれたのは、短く見積もってもイエス様がなくなってから30年くらいたってからのことですが、その長い間ペテロの耳に、イエス様の口から実際に発せられた「エパタ」という言葉の響きが強い印象と共に残っていたからだと考えられます。ペテロはそこにいたのです。

話を戻しますが、このしばらくの弟子たちについての記述がない期間、弟子たちには静かな変化、表に現れない、イエス様がどういうお方なのかということについての理解の変化が少しずつ進展していっていたのかな、と想像します。

Ⅱ. この口止めについて

これまでもマルコの福音書には、病を負っている人の癒しの記事はたくさんでてきています。しかし、今日のところに出て来る癒しの記事には、大きく二つの特徴があります。

1. イザヤ書におけるメシア預言との関係

一つ目は、今回の病が「耳が聞えず口のきけない」ということであったという点です。これまで、いくつかの悪霊追い出しの他に、具体的に病気の種類が書かれていたものとしては、熱病、ツァラアト、中風、萎えた手、長血などがありました。今回は、「耳が聞えず口のきけない」という症状です。これは、マルコでははじめての例となります。そして、少し先取りして言うと、次の8章では22節からのところに「目の見えない人」が癒される話が出てきます。

この耳が聞えない人の耳が開かれる、口がきけない人の口が開かれる、目の見えない人の目が開かれる、というのは、イザヤ書に度々預言されている来るべきメシアのしるしなのです。具体的には、今はお開きしませんが、イザヤ書の29章18節、35章5,6節、42章7節などです。

他の病気、他の障がいが癒されるということにもまして、目、口、耳が閉じていたのが開かれるという癒しの奇跡は、旧約の預言の成就という意味がありました。それは、イエス様の側からすれば、どうしてもしなければならないことですし、人々の方からすれば、それらの奇跡が行われるならば、イエス様のことをそれまで以上にメシアとして意識するということになるのです。そして、これらの二つの癒しの記事で、マルコの福音書前半の癒しも記事の締めくくりに向かって行く感じがいたします。

2. メシアの秘密との関係

二つ目のことは、イエス様がこの癒しのことを口止めされたこととの関係です。癒しの出来事を誰にも言ってはならない、と口止めされたということは、今回初めて出てきたことではありません。すでに1:43-44, 5:43, そして、追い出されて悪霊にも1:25, 34, 3:12でやはり口止をしています。むしろ、癒しにはこの口止めがセットでついていると言えるほどです。

しかし、この口止が、今回ほど大きなインパクトを持つ癒しの記事は他にありません。それがどうしてか、お気付きでしょうか。

それは、今回の癒しは、耳が聞えず、そのため口もきけなかった人の、舌のもつれが解け、はっきり話せるようになった直後の口止めだからです。

この人は長いあいだ、ずーとこの悩みを抱えて苦しい生涯をここまで辿って来たのだと容易に想像ができます。その人が生まれて初めてはっきりと話せるようになったのですから、その口をもって、心の底から叫びたいことはなんでしょうか。それは、

みなさん、聞いてください。私はこのようにはっきりとしゃべることができるようになりました。耳も聞こえます。みなさんの声も、鳥の声も、風の音も、小川のせせらぎも、ガリラヤ湖の波の音も。世界がこんなに美しいとはしりませんでした。世界が全く新しくなりました。そして、皆さんに知ってほしいのです。私がこのように癒されたのは、あのイエスという人のおかげです。イエスという人は本当に素晴らしいヒトです。」

この叫びではないでしょうか。

こんな素晴らしい、こんなに自然な、感謝と喜びの証しの声。生まれて初めて言葉をしゃべる口にこれほどふさわしい言葉はないのではないか、と思われるその言葉さえ口にすることをイエス様は禁じられたのです。

Ⅲ. 癒しの奇跡と救いについて

1. 病の癒しの奇跡はメシアの証明

この問題は、幾つかの階層で考えることができると思います。最初の階層は、この地上で病に苦しんでいる人を癒すことは、メシアとしてふさわしいことであり、イエス様が本当のメシアであることの証明でもあるのです。

マルコの福音書は1章の15節で「時が満ち、神の国は近づいた。」と宣言してイエス様は宣教を開始されました。そしてこの「神の国が近づいた」は、まさしくマルコの福音書の前半に繰り返し記される病の癒し、あるいは悪霊の追い出しという奇跡を通して実現しているという書き方になっています。

2. 病の癒しの奇跡はメシアとしての道の妨げ

二つ目の階層は、しかし、そのメシアの証明でもある、イエス様に癒しの業を行う力があるということが広ろく知られることがかえって邪魔になるということです。癒しを行うのがメシアとして当然なのだけれども、そのことを実行するとメシアとしての使命に支障が起きるという、ある種のダブルバインドの中にイエス様は歩まれたということです。

3. メシアとしての使命のど真ん中は?

三つ目の階層は、それでは、癒しの奇跡までもが邪魔になるというイエス様のメシアとしての使命のど真ん中が何なのか、ということです。

正直、マルコの福音書をここまで読んできても、そのことについてはまだ書かれています。これからの展開の中でそれが明らかにされていきます。しかし、今日はそれを先走って言ってしましたいと思います。それは、十字架の死とその三日後の復活による救いの完成です。

今病に苦しんでいる人の病が癒されるということは、イエス様がメシアとして私たちにもたらされる救いの象徴ではあっても、本体そのものではない、ということです。

病の癒しは、苦しんでいる私たちから病というものが取り去られることによる救いです。言ってみれば、私たちのおでこに大きなこぶがついていたのが、そのこぶが取り去られて、きれいな正常な顔に戻ったというようなものです。

私たちは、多くの場合自分のことをそのように考えていないでしょうか。私のあれがなかったなら、私はもっと幸せなのに。私に、あの人にあるあれがあればもっと幸せなのに。私でいうならば、もっと背が高ければ、もっと髪の毛があれば、もっと強気な性格であれば、もっと用意周到で詰めがあまくなければ、私の人生もっと、もっとうまくいっていたはずなのになあ。

仮にイエス様が、アラジンの魔法のランプから出て来るように、ここにドローンと現れて、ご主人様どんな願い事をかなえて差し上げましょうか、と言ったとします。そして、私が、少し欲張りだけと、背があと15センチ高くして、髪の毛をふさふさの白髪にして、性格のこことここを直して、と注文したとします。するとイエス様が、お安い御用で、といって、その私の願いをぜんぶかなえてくれたとします。すると、私は、なんの問題もなく、新たの問題の種を抱えるだけでしょう。身長は15センチでは足りなかった、性格はやっぱもっと“ゆるキャラ”がいいとか、とめどなく。

しかし、イエス様が十字架について、その血を流され、命を落とされ、父なる神様から見捨てられ、葬られ、読みにまで下り、そこから死を征服して甦ることによって私たちにもたらされる本当の救いはまったく次元が異なるものです。私に関する外側の条件を変えるということではないのです。私が私である一番深いところを造り変える救いなのです。

それは、私たちと神様との関係が正され、罪赦され、神の子とされた確信と喜びを持って歩むことです。それはお手軽なものではないのです。イエス様といえども、十字架と復活なくしては成し得ない救いなのです。

4. メシアとしての道

そして、そのことを、このマルコの福音書では、この7章の最後に至るまで、弟子たちも、群衆も、パリサイ人たちもだれもまったく理解していないのです。イエス様は、ダブルバインドの中を、誰にも理解されずに十字架を目指して歩んでおられるのです。イエス様にとってさえ、うまい方法はないのです。イエス様は、無駄や邪魔のない効率の良い道を歩まれなかったのです。ある意味、無駄、邪魔がない効率のよい道はウソの道なのです。

私たちの目から見れば、「それ無駄だから、邪魔だからよけて、なくして」と言いたいことも、神様の目から見る時に、かえってその無駄や邪魔があることのゆえに最高の道であると見えているのではないかと思うのです。

私たちはイエス様からどんな救いをいただこうとしているでしょうか。私という存在には基本的に何の本質的変化も起きず、ただ何か自分にマイナスなことをもたらすものを私から排除してもらう、というようなお手軽な救いでしょうか。

それとも、イエス様でさえ、十字架でいのちを落とされるという、これ以上失うことができないというところまで全部失ってくださったことにより初めて可能となった本物の救いを得ようとしているでしょうか。

今日、私たちは、この生まれて初めてはっきり話すことができるようになった男の口からイエス様の癒しの証しがなされることさえ、イエス様が口止めされたということから翻って、どれほどの尊い救いが私たちのために用意されているのかを理解したいと思います。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、耳が聞えず、口がきけなかった人がイエス様によって、たちどころに癒されたという記事を学びました。その人はどんなに嬉しかったでしょう。どれほど叫びたかったでしょう。どれほどイエス様のことを伝えて回りたかったでしょう。その生まれて初めてしゃべれるようになった口を使って。しかし、イエス様はそのことさえお赦しになりませんでした。それほどまでに。イエス様が向かっておられた十字架の道が尊いものであるかを少しでもわきまえ知る者としtください。イエス様がどれほどの犠牲を払ってくださったかを知る者としてください。イエス様がどれほど私たちを愛し、大切に思っていてくさるかを、もっともっと良く知るものとしてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。