□2025-02-16 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書7:24-30
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(28)「イエスの足もと」
□説教者 山田誠路牧師
導入
A. 前回からの流れ
先ず、前回、前々回からの流れを確認しておきたいと思います。この7章は、パリサイ人・律法学者たちから、イエス様のお弟子さんたちが洗わない手で食べている、という難癖をつけられるところから始まりました。それに対してイエス様は、彼らのこだわっている点について、「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と厳しい言葉を返されました。そして、「コルバン」という当時の悪しき風習を一つ例として取り上げて、彼らの偽善を鋭く突かれました。そして次に14節で、群衆を呼び寄せて「外から入って人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出るものが、人を汚すのです。」と語られました。群衆を集めたのですから、それは屋外でのことだったのでしょう。
そして、17節で「イエスは群衆を離れて家に入られると」という言葉があります。どこのだれの家かを特定することはできませんが、その家の中でイエス様は弟子たちにその続きを話されました。それは、「すべての食物はきよい。人の内から出て来るものこそが、人を汚すのだ。」という極めて衝撃的な内容で、それによって、パリサイ人・律法学者の本末転倒を、痛快にパッサリとひっくり返して、神様の視点を語られました。
今日のところは、その家をたって、ツロ地方に行かれたときのお話です。7章に入って、これまでパリサイ人・律法学者たちから投げつけられた非難がテーマとして続いていましたが、ここでは、地理的にもガリラヤを離れて、ギリシャ人たちが住んでいるところに出て行かれ、ギリシャ人で、しかも女性が主人公として登場します。これまでのところとはかなり対照的な状況であることを頭に入れておきたいと思います。
それでは、本題に入って行きたいと思います。本日のポイントは、
1. ことばの問題
2. 声の調子
3. イエス様の御顔
この3点です。
さて、今日の聖書箇所は、なかなか難解なところです。娘が悪霊に取り憑かれている外国人のお母さん、という弱くて困っている人の代表のような人を、邪険に扱うようなことを言って、イエス様がとても意地悪に思えてしまいます。おまけに外国人の女の人に言い返されると、前言を翻して筋を曲げてしまわれる、という失態まで演じている、とも見方によっては取れそうなところです。
Ⅰことばの問題
先に手の内を明らかにしますと、今日の私の読み方は、ウェリアム・バークレーの本を土台にしています。まず、犬という言葉は、聖書では相手を見下げるときに使われる言葉です。例えば、ピリピの3:2では、「犬どもに気をつけなさい。悪い働きの人たちに気をつけなさい。」という言葉があります。ヨハネ黙示録22:15では、「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」とあります。
イエス様ご自身も、山上の説教の中でも一か所犬という言葉を使われているのを思い起こされますでしょうか。マタイ7:6で「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」とおっしゃりました。豚に真珠は有名ですが、同じところに、真に価値あるものを理解できないものの象徴として犬が引き合いで出されているのです。このように、「犬」という言葉が以下に見下す意味で使われていたかがわかります。
しかし、バークレーは注釈を加えます。このマタイ7:6に出てくる犬はギリシャ語で「クオーン」という言葉だが、今日の聖書箇所でイエス様が「子犬に与えるのはよくない」と言われた時の「子犬」は、「クナリオン」という言葉。「小さい〇〇」という意味を表す「アリオン」という接尾辞が添えられている。
Ⅱ. 声の調子
そして、バークレーは、イエス様が犬ではなく、子犬という言葉を選んで使った時点で、「棘を抜いて」言葉を使われたと説明しています。
更に、続いてもう一つ興味深い注解を加えています。イエス様に「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われてしまったこの女性が「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と食い下がることが出来た理由についての分析です。普通、ここは、この女の人の謙った姿勢に焦点をあてることが多いと思いますが、バークレーは別の視点を提供しています。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言った時のイエス様の声の調子が軽蔑を投げかけるような冷たいものではなく、愛情あふれる調子だったに違いない、と言うのです。
たとえば、「このいたずらめ」ということばを恐い顔できつくしかりつけるように言うのと、自分の小さなこどもか、孫に鼻の頭をチョンとつつきながら満面の笑みで「このいたずらめが」というのでは、まったく違う意味になるようにです。バークレーは、ここでイエス様は、その声の調子によってその言葉から「毒気」を抜いたのだ、と書いています。それゆえに、この女性は、このように食い下がることができたのではないか、という推測です。あくまで推測であった、聖書にはっきりと書いてあるわけではありません。しかし、示唆に富んだ推測だと思いました。
さて、私は、今回の説教には「イエスの足もと」という題を付けました。それは、25節に出て来る「ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。」というところから取りました。バークレーは、イエス様が「犬」に「小犬」の「小」を付けたことと、愛情にあふれた声の調子でこのことばを言ったという推測をしたのですが、私はそれを手がかりに、もう一つ思考を進めたいと思います。
Ⅲ. イエス様の御顔
この女の人は、今日のところに登場するとほぼ同時にイエス様の足もとにひれ伏したのです。そして、まず、自分の方から「私の娘から悪霊を追い出してください。」と願い出ました。お願いをするときは、日本人的には頭を下げる、と言いますから、イエス様の足もとに自分の額をすり付けるようにして、拝み倒すようにしてお願いしたかもしれません。
それに対して、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」というイエス様の声が聞こえてきたときはどうだったでしょうか。お沙汰を待っている時は、怖くて顔を上げられなかったかもしれません。しかし、バークレーの推測が正しければ、文字として読むと厳しいように思えても、棘が抜かれ毒気が抜かれ、愛情に満ちたイエス様の声が聞こえてきたときに、彼女の顔は自然とイエス様のお顔を見上げたのではないか、というのが私の推測です。
イエス様が文字情報としては一見冷たく感じられるイエス様の言葉を、イエス様の足もとからイエス様のお顔を見上げながら聞いたはずです。
イエス様が「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。」と仰ったのは、意地悪からではありません。救いの業の完成のためには、順序があって、まず、ユダヤ人に救いが宣べ伝えられてから、異邦人に、という秩序は崩すことはできません。人類が罪に落ちて以来、神様が私たち人類を救うご計画は綿密に計画され、実行されてきました。アブラハムが選ばれて以来、神様は、ご自分がどんな神であるのか、人間がどんな者であるのか、人はどのようにして神様と繋がるべきなのか、あるいは繋がれるのか。そういったことを、神様は、一つの民族ユダヤ人の歴史を通して、あるいはユダヤ人と神様の関係の歴史を通じて、私たちに示すと定められたのです。
ユダヤ人の歴史とは旧約聖書のことです。そこには、神様が聖であるので私たちの聖でなければならない、ということが一貫して書かれています。それは、こうあるべし、という規範的なことですが、実際の歴史は規範通りには全く行きません。ユダヤ人の歴史は、神様に逆らい、神様を裏切り続ける歴史です。そして、神様は、そのようなイスラエルの民たちとずっと接していく中で、ご自身が聖であると同時に、赦しと恵みに満ちた愛の方であるということをお示しになったのです。
この地上に、救い主が人となって現れたというのは、長い時間をかけて神様が進めて来られた救いの核心的な部分が十字架の上で完成されるのを目前に控えているタイミングにもう差し掛かっているのです。イエス様がこの地上に現れ、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出している以上、神の国はすでに始まっているのです、という福音は、どうしてもまず、イスラエルの民に先に伝えられなければならなかったのです。それは、受け入れるにしても、拒否するにしても、イスラエルの人たちは、長い歴史を通してそれだけの準備がなされてきたからです。
ですから、「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。」という言葉は、歴史的重みを持った真理なのです。しかし、この真理は決して冷たい真理ではありません。ユーモアと暖かさがある真理なのです。それが、一番たくさんの情報量をもって総合的に現れるのが、イエス様のお顔の表情だと思います。
先日、私は三人いる息子の一人と会ってゆっくり話す機会がありました。日頃から、LINEや電話でのやりとりはありますが、また、顔を合わせるときがあってもホンの一瞬で言葉も交わすか交わさないかくらいの感じが、普通の状態です。しかし、一緒にいて、顔と顔を合わして、一緒に食事をし、話をするというたった二時間くらいのことですが、LINEや電話などのツールを通してのコミュニケーションと、顔と顔を合わせて話をするという、いわゆるFace to Faceのコミュニケーションでの伝わって来る情報量の違いを圧倒的に感じました。しゃべるスピード、表情、注文するまでの判断、肌の様子、歩く姿勢や速さ、いろいろな角度からものすごい情報量をキャッチすることができました。付け加えて言うと、私はそれらの大容量の情報をほぼ瞬時に処理して、ざっくり「大丈夫そうだな!」という印象を持ちました。こちらが受け止めたことも、文字にしてしまえばたった7文字程度で終わってしまいますが、大容量の文字にならない様々な印象が私の心と頭の中にはしまわれました。
今学んでいるマルコの福音書は、他の福音書と比べると極端なほどに、イエス様が語られた言葉はほんの少ししか記されていません。文字情報としては、大変少ないのです。しかし、その短い発言の内容の奥にある大容量のイエス様のお心を、現代というイエス様の時代から2000年も後の、文化的にも何もかも違う私たちが少しでも感じ取り、汲み取るには、イエス様の表情を読み取ることに掛かっていると言ってよいでしょう。イエス様のお顔は、私たちの目の前に物理的に表れることはありません。
イエス様の御顔は、私たちの心の中に結ばれます。そこにどんなイエス様の表情が現れて来るでしょうか?それは、カメラの画素数のようなものだと思います。質の悪いカメラだと、大体のことしか映りません。しかし、画素数の高い高級なカメラだと、細かいひだまで、微妙な色の違いまではっきりと映し出されます。そして、もう一つ、画素数に加えるべきは、明るさですね。光が差し込んで明るいところでは、解像度が上がるのです。
今回、私は、このツロの女の人の姿からイエス様のお言葉を、聖書のお言葉を、今私と一緒に歩んでいてくださるイエス様の御顔をよーく見ながら聞くことの大切さを共に学びたいと思います。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、悪霊に取りつかれた幼い娘を持って困り果てていたツロのギリシャ人の女の人が、イエス様に食い下がったお話からあなたのことを学ばせていただきました。私たち一人ひとりが、日頃からあなたとの深い交わりの中で、あなたの御顔から、文字にならない、文字以前の多くのことを語っていただくような歩みができますように、心からお願いいたします。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
