「マルコの福音書を学ぶ」(27)

□2025-02-09 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書7:14-23

□説教題 マルコの福音書を学ぶ(27)「外からか、内からか」

□説教者 山田誠路牧師

導入

A. 前回からの流れ

本日は、3週間ぶりにマルコの福音書を学ぶシリーズに戻ります。少し、前回の復習と今日の所に繋がる流れを見ておきたいと思います。前回は、7章1節~13節がテキストでした。そこから、「人間の言い伝えか神の戒めか」という説教題でお話をいたしました。食事の席でイエス様のお弟子さんたちが洗っていない手でパンを食べているのを、エルサレムから来ていたパリサイ人と律法学者たちが見とがめて、「どうしてあなたのお弟子さんたちは昔の人の言い伝えを守らないのですか!」と詰問してきました。それに対して、イエス様は「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と言ってパリサイ人・律法学者たちの倒錯を一刀両断されました。

そして、イエス様はご自分の方から二つの例を引かれます。一つ目が、当時のコルバンという習慣でした。それは、自分の財産に対して、「神への捧げもの」を意味する「コルバン」という言葉を宣言すると、それを親のために使わなくてよくなる、ということでした。イエス様は、それに対して「自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無視している」と言われました。

二つ目の例が、14節からのところで今日のテキストに当たります。14節は、「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。みな、わたしの言うことをよく聞いて、悟りなさい。」という言葉で始まります。もしかしたら、パリサイ人・律法学者たちは、先ほどのイエス様の言葉によって、捨て台詞の一つでも吐いて退散したのかもしれませんね。イエス様は、群衆を呼び寄せて語られたとなっています。ちなみに、「呼び寄せて言われた」という表現は、これからイエス様が重要なことを語られるということのサインのようなものです。

これまで問題になっていたことは、食事の席で洗わない手で食べたということでした。前回も申し上げたように、彼らが問題にしたのは、不衛生ということではなく、儀式的な汚れでした。それは、食事の食べ方、作法に関することでした。それに対して、今回、イエス様が取り上げているのは、食事は食事でももっと本質的な、何を食べるかという問題です。

旧約聖書レビ記11章には詳細な食物規定があります。食べてよい清い生き物と、食べてはいけない汚れた生き物がハッキリと書かれています。イスラム教では豚肉、ヒンズー教では牛肉が食べてはいけない物とされているは有名です。同じように、旧約聖書の時代のユダヤ人、そして現在でも厳格なユダヤ教徒はこの食物規定を守って生活しています。トランプ大統領の娘さんのイヴァンカさんの旦那さんで、大統領上級顧問を務めたクシュナーさんは、ホロコーストを生き延びた厳格なユダヤ人家庭で育った人です。イヴァンカさんも結婚と同時にユダヤ教に改宗し、クシュナーさんはイヴァンカさんとともに、ホワイトハウスでも厳格にこの食物規定を守って生活していたそうです。

しかし、結論から先に申し上げると、イエス様はこの食物規定を廃棄され、19節にあるように「すべての食物をきよい」とされました。これは、革命的な宣言でした。その場にいて、イエス様の口から直接この言葉を聞いた人々は天地がひっくり返るほどびっくりしたことでしょう。

この場面からずーと後の、十字架も、復活も、ペンテコステも通り過ぎて、使徒たちが活躍する時代になった使徒の働きの10章を思い出してください。コルネリウスの記事に出てくるペテロは、その時点でまだ固く食物規定を守っていました。更に、ただ習慣として守っていたという以上に、その考え方の根本において食物規定の外に出るという発想すらペテロにはなかったのです。そう考えると、このイエス様の発言の凄さがわかります。

B. 本日のポイント

 それでは、残る時間、今日のテキストから以下の三つのポイントでお話していきます。

1. 何が汚すのか

2. 心に入るもの

3. では、どうすれば?

この3点です。

Ⅰ.  何が汚すのか

A. すべての食物はきよい

 では、早速最初のポイント「何が汚すのか」に入って行きます。まず、少し本日のテキストに目を留めましょう。18節の途中からイエス様はこう言っています。「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」ひとつ前の訳では「かわやにだされてしまうのです。」となっていました。

これを受けて、すでに言及しましたイエス様の爆弾宣言、「すべての食物はきよい」が続きます。そして、更にイエス様は続けます。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

B. 「外からVS 内から」でよいのか?

これらのリストは、口から入ってお腹から出るものに対して、「心の中から出てくるもの」です。私はこれまでこの箇所を読むたびに、「外から人間の内に入るもの」VS「人間の内から外のでるもの」という構造で読んでいました。「外から入って来るものが人間を汚すのではない。むしろ、人間の内から外に向かって出ていくものが人を汚すのだ。」という割ときれいな対比ですね。「そんなことは誰も考えない。イエス様はさすがやな!」っていう感じで受け取っていました。

しかし、なんとかく割り切れない感覚や疑問がありました。たとえば、「人を汚すのです」の「人」とは自分のことなのか、他人のことなのか?出て来るものが汚す、と言うけれども、出て来る前にすでに内側にある時点で汚しているのではないか?これらの心の内にあるこれらの悪はいったいどこから来るのか?外から入って来るのか、それとも心の内側から湧いて出て来るものなのか?などといった点です。

しかし、今回私は、また、これまで気にならなかった小さいところに心が留まりました。それは、19節の「心に入らず」というところです。はっきり書かれていませんが、「心の内から出る」前に、「心に入る」ということが想定されていると言えます。頭とお尻をつなげて言うと、「心に入って、心の内側から出て来るもの、それが人を汚すのです」ということになります。

Ⅱ.  心に入るもの

A. ヨハネの手紙第一 2章16節から

そこで次に、どんなものが人の心の中に入って来るのか、ということを他の聖書の箇所を参考にして考えてみたいと思います。そのために、ヨハネの手紙第一2章16節をお読みいたします。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」

ここに三つのもの①肉の欲、②目の欲、③暮らし向きの自慢という三点セットが出てきます。これらのことについてしばらく考えてみたいと思います。

①世にあり、世から出るもの

一つ目は、これらの三つの特徴は、「世にあり、世から出るもの」だということです。そして、人の心に入って来るのです。ここでわかることが一つあります。これらの悪には、出どころがあります。やはりどうも、人の内側がその発祥地というよりは、さらにその前に源泉があるようです。それは、「世」と言われるものです。「世」とは、ヨハネ文書に繰り返し出て来る言葉です。一言で言うと、神から離れた人間の世界です。神に敵対し、神なしでやっていこう、或いは、神なしでやっていけるとする世界です。実は、悪のすべての源泉はここにあるのです。

②欲

二つ目は、「欲」ということです。三つのうち、最初の二つには「欲」という言葉が付いています。「欲」とは「もっと欲しい」という思いです。或いは、「正当に要求してよい限度を超えて欲っする」ことです。その裏側には、現状に対する不足感、不満、被害者意識があります。

③自慢

三つめは自慢です。C.S.ルイスは「キリスト教の神髄」という本の中で、プライドについて次のように書いています。「キリスト教の教えによれば、根本的な悪徳、最大の邪悪はプライドである。不貞や怒り、貪欲、酩酊などは、それに比べれば取るに足らない小さなものにすぎない。悪魔が悪魔になったのもプライドのせいである。プライドはあらゆる他の悪徳へと導く。それはまさに『反神的な心の状態』である。」

ルイスによれば、あらゆる悪徳の親玉はプライドである。そして、プライドさえあれば、後の悪徳はプライドからいくらでも出て来るというのです。肉の欲、目の欲は、私たちの五感を通して私たちの外から私たちの心の内側に入って来るでしょう。しかし、プライドとう悪徳はもっと本源的な悪徳なのです。

B. 創世記3章から

創世記3章に記されている堕罪の記事も、これまでのところとよく通じ合います。「神は本当に言われたのですか?」という誘惑の声が耳から入ってきました。「見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしれくれそうで好ましかった。」と目からも誘惑が入ってきます。そして、禁断の木の実をエバとアダムは食べてしまします。

しかし、その木の実という食べ物がアダムとエバの体の中に入って来たから、彼らが汚れたのではありません。その禁断の木の実もやはり、アダムとエバのお腹に入り、お腹から出て行ったでしょう。しかし、本当に何が人の心の中に入って人を汚したかと言うと、サタンの本質であるプライドです。そして、そのプライドの特徴は、「神から離れる」「神なしでやっていける」「神はいらない」「神にはいないでほしい」という「世」の本質と同じなのです。

Ⅲ.  では、どうすれば?

それでは、三つ目のポイントに移って、私たちは「では、どうすれば?」よいのか、ということを考えていきたいと思います。

A. キリストを心に受け入れる

「世」という原理、「プライド」という原理、すなわちそれからどんな悪徳も派生して出て来るものを心に抱えてしまっている私たちには何ができるのでしょうか?

臭いものに蓋をするように心の中にある悪がそこに出て来ないように封じ込めることでしょうか?自分で心の掃除をすることでしょうか?悪徳のリストの正反対の美徳のリストとしてガラテヤ書5章に載っている愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を心に注入することでしょうか。

それではなく、聖書が語るメッセージは、「イエス・キリストを心に受け入れなさい」ということです。プライドがすべての他の悪徳の親玉であったように、イエス・キリストを受け入れる時に、内にいるキリストが私たちをまったく新しい物にしてくさるのです。

B. キリストを心に住まわせる

しかし、キリストと心に受け入れるだけでは十分ではありません。次に、キリストに私たちの心に住んでいただきましょう。ザアカイは、木から急いで降りて来て、自分の内にイエス様をお迎えしました。「財産の半分を貧しい人に施し、だまし取っていた分は4倍にして返します」と素晴らしい宣言をしました。そのこと自体はとても素晴らしい出来事です。しかし、もし、イエス様がザアカイの家を後にして、エリコの町を出て行かれた後も、末永くザアカイの心にイエス・キリストが住み続けるということがなければ、ザアカイのあの素晴らしい回心の出来事は、時間と共に風化してしまうこともあり得たでしょう。

私たちには、一回限りの素晴らしい決断や、経験だけでは十分ではありません。イエス・キリストを心に住まわせることが大切です。一緒に住むということは、いい時も、悪い時も、雨の日も、風の日も、病気の時も、失敗して気落ちしている時も、絶望の沼に足を取られいる時も、どんな時でもありのままの自分を逃げないで見ていただき続けることです。

C. キリストに治めてもらう

 更に言うと、キリストに住んでいただくだけでも十分ではありません。イエス様を自分の心の家のお客さんとして住まわせているという状態を聖書は良しとしないのです。イエス様の呼称は何種類もありますが、私の感覚では日本基督教団、あるいはその中でも東京神学大学系の方は、「主イエス」という言い方を好まれます。「参考人イエス」「メンター イエス」「ヒーロー イエス」と付き合っている場合があるかもしれません。しかし、イエス様を「主」とすることは、今日問題になっていることのすべてに対する解決策なのです。汚れの問題に対して、心の中から悪が出て来ることに対して、プライドに対して、世に対して、イエス様がわたしの心の「主」となっていることが、すべての解決策なのです。その時、私たちの内側に、いのちの泉、喜びの泉があることを見出すのです。

 ヨハネの福音書7章37節、38節を読んで締めくくります。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」この聖句は普通あり得ない、不思議なことを言っています。水を飲むと、心の奥底に泉がわいて、その人の心から川が流れ出るようになる。イエス・キリストを信じて心の中に迎え入れ、住んでいただき、主として治めていただくとき、なんとわたしの内から出て来るはずのない、いのちの水がしょぼしょぼではなく、ちょろちょろではなく、川となって流れ出すのです。しかも、この川は複数形の川です。英語訳ではstreams,あるいはriversとなっています。このイエス様のお言葉に信頼しましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、私たちの心から出て来るもの、私たちの心に入って来るものについて学びました。私たちは自分で自分の心をきよめることはできません。しかし、イエス・キリストを受け入れ、住んでいただき、主となっていただくときに、私たちのこの汚れの問題の最終的な解決を得ることができます。どうぞ、この一週間、あなたが私たち一人一人の主であってください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。