「マルコの福音書を学ぶ」(51)

  • 2025-10-05 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ11:27-33
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(51)「何の権威によって」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 権威

⒈ 聖書と権威

聖書全体、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録に至るまでをずっと読んでいくときに、そこを貫いて流れている重要な要素を感じ取ることができます。例えば、「愛」とか「正義」とかいうのもその一つでしょう。しかし、もう一つ、「権威」というキーワードで聖書を読んでいくことも可能ではないかと思います。

天地創造は、神様の口からでることばの権威が強く描かれています。エデンの園での罪は、神の権威に対する人間の反逆ととらえることができます。そして、それ以降の神様が人類を救う贖いの歴史は、人間が真に神の権威のもとに変えることを目的としていると捉えることもできると思います。

⒉ イエス様と権威

また、イエス様の生涯を見ますと、私たち普通の人間とは違う点がいくつも見られます。例えば、山上の説教のような高い倫理観、99匹を残して1匹を探しに行くその価値観など私たちが思いつくことができない世界からイエス様は語られます。しかし、もう一つ、権威ということにおいても、イエス様は私たち常人とはまったく違うところに立っていらっしゃることが今日のところからもわかってくると思います。

 B. 今日のテキスト

 今日のテキストは、通常「論争の火曜日」と呼ばれる、神殿の中で一連の論争や問答をユダヤ人指導者たちと展開した最初の出来事です。ここ何回かの説教を簡単に復習すると、イエス様は、日曜日にエルサレムに子ろばに乗って到着、翌月曜日の朝、途中でいちじくの木を呪い、エルサレムに入り神殿で宮清めをされました。今日は、その翌日の火曜日、もう一度ベタニアの方からエルサレムに向かう途中でいちじくの木が枯れているのをご覧になり、そのまま進んで宮に入られた後の場面です。

すると、イエス様のところに祭司長、律法学者、長老たちがやってきました。イエス様に論争を挑んできます。「あなたは一体何の権威によって、これらのことをしているのですか。」と。

ここでいう「これらのこと」というのは、狭く考えると前回お話ししました宮清めと呼ばれる、前日、月曜日のイエス様の行為ということになります。「売り買いしている者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し」「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。おまえたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」と語られた出来事です。

もう少し、広く解釈すると公生涯に入られてからのイエス様の言動のすべてをさしていたということもできます。彼らは、イエス様の言動を自分たちの宗教的権威への挑戦、あるいは否定として捉え、イエス様を封じ込めようとしたのです。そこで持ち出したのが、「権威」ということでした。

C. 本日のポイント

ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。

本日のポイントとしては、

Ⅰ ユダヤ教指導者と権威

Ⅱ イエス様の対応

Ⅲ イエス様と権威

この3つです。

Ⅰ ユダヤ教指導者と権威

さっそく第一のポイントに入っていきます。

⒈ 持っていると思っている

まず、指摘したいのは、彼らユダヤ教の指導者たちは、自分たちは権威を持っている、という自覚を持っていたということです。現代のように権力分立の考え方などない時代です。ユダヤ教のトップである大祭司は、宗教的権威はもとより、政治的、司法的権威も持っていました。もちろん彼らの上にローマ帝国がいましたから、制限された範囲内での自治のような形でしたが、一般民衆に対しては絶大な権威を持っていました。

⒉ 守ろうとする

そして、この世で権威を持っていると思う人は、必ず、それを守ろうとします。自分たちの権威を脅かす者が出て来ると、必ず自分たちが持っている権威をもって新興勢力をつぶしにかかります。

彼らの質問は、「その権威をどこから得たのか」ということですが、彼らとしては、少なくとも宮についての権威、或いは宗教的な権威については独占しているはずですから、自分たちが許可していない以上、その他どこからも権威は出て来ることはないのです。権威を独占しているグループが一丸となって、締め出せばそれで終わるはずなのです。

Ⅱ イエス様の対応

次にイエス様の対応を見ていきます。イエス様は、この質問に対して、質問で返されました。そして、この「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」という問いには、大きく二つの要素があると思います。

A. 箴言26:4-5に沿った対応

一つ目は、箴言26章4節、5節に沿った対応をされた、ということです。そこには、こう記されています。「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼には、自分を知恵のある者と思わないだろう。」

何かを聞かれたら胡麻化さずに、話題をそらさずに、正面から誠実に答える義務があると思います。しかし、その質問が純粋に質問ではなく、罠である場合、こちらにも知恵が必要になってきます。箴言は、「愚か者には答えるな」と言った直ぐ後に、今度は「愚か者に答えよ」と続きます。いったい、どっちなのかと我々は戸惑います。しかし、よく考えてみると、イエス様は、ユダヤ教指導者たちが向き合うべき問いに向き合わせることに成功しているのです。

B. テーマははずしていない

そして次に、イエス様は質問に対して質問で返すという「ズラし」戦略に出ておられるように見受けられますが、テーマについてはキチッと維持されています。イエス様の切り替えしの質問の中に「権威」という言葉は直接は出て来ませんが、言い直せば「バプテスマのヨハネの権威は、神からなのか人からなのか」ということです。

ユダヤ教指導者たちのイエス様に対する質問は、「何の権威によって?」すなわち「あなたがこんなことをする権威はどこから来ているのか?」と問いましたが、イエス様は「バプテスマのヨハネの権威は天からか人からか?」と問い返しました。

宗教的な権威は神から来るものです。そして彼らはそれを持っているという前提に疑いはありませんでした。しかし、イエス様は彼らが持っていると思っている権威がホンモノなのか?!という、彼らが決して自問してこなかった問題を突き付けたのです。そして彼らは考えれば考えるほど、何も言えなくなったのです。権威は彼らが持っていたのではなく、神様にのみ属するものなのです。

Ⅲ イエス様と権威

A. イエス様は権威に従っておられた

 次にイエス様と権威の関係を考えてみたいと思います。この点についてまず心に留めたいことは、「イエス様ご自身は、権威にとても忠実に従われている存在だ」ということです。それは、二つの面から言えると思います。

⒈ 父なる神に

まずは、イエス様は、父なる神の権威に忠実に服する態度を貫いておられました。父なる神と人となられた御子イエス様との関係については、ヨハネの福音書に一番詳しく書かれていますが、今はマルコの福音書を学んでいますので、マルコに限定して二ヵ所引用してみたいと思います。

一つ目は、13章32節です。「 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。」その日とは「終わりの日」のことですが、父のみが御存じで、子なるイエス様も知らない、ということがあることをイエス様は受け入れておられたのです。

もう一つは、14章36節です。「 そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」

自分が何を望むか、ということは一番他人に左右されたくない、自分の沽券にかかわる部分、権威にかかわる部分だと思います。イエス様はその領域において、父の権威に服しておられました。しかも、この祈りは十字架の死を受け入れるための祈りです。何が食べたいとか、どこへ行きたいとか、何がしたいとかのレベルではなく、生きるか死ぬかのレベルにおいて、イエス様は父なる神様の権威にまったく従っておられたことがわかります。

⒉ 旧約聖書に

そして、二つ目にイエス様が従っておられた権威は、旧約聖書の預言です。それは、イエス様の切り替えしの質問がバプテスマのヨハネの権威についてだったことから言えます。バプテスマのヨハネは新約聖書に出て来る人物ですが、旧約聖書に予言されていた人物です。雪道を歩くときに、先に通った人の足跡に自分の靴を一歩一歩当てはめて歩いて行くように、イエス様の地上生涯は、旧約聖書の預言の一つ一つが成就するように、ご自分の歩みを当てはめて行かれたという面があります。

旧約聖書の預言とは、何かを考えると、それは、神が人類にどうかかわってきたかの歴史です。そこには、人間の現実というか、現実の人間というかのリアリティーと神のリアリティーが激突してきた記録です。

それを尊重しながらイエス様が歩まれたということは、やはり、この旧約聖書の権威に服するということの中にも、父なる神様の権威への服従が見て取れるということができると思います。旧約聖書の預言を無視して、そこから自由になって、自分の思うようにこの地上をイエス様が歩まれたとしたならば、これまで御父が人類と関わって来られたことへの尊重がない、ということになります。また、人類への愛もないということになります。そうではなく、イエス様の地上生涯は、旧約聖書の権威に服しておられたのです。

B. 行使しないと言う最高の行使

⒈ 十字架までの歩み

①「権威」ということば

イエス様と権威ということについて、最後にもう一つ考えてみたいことがあります。それは、イエス様はどのように権威を示されたか、という問題です。

新約聖書の中での「権威」という言葉の使われ方を少し調べてみました。ギリシャ語では「エクスーシア」という言葉です。全体では、93回ほど使われていて、マルコの福音書では10回ほど使われています。①イエスの教えに権威があった、②罪を赦す権威、③12弟子を御そばに置くときの目的として、悪霊を追い出す権威を持たせるため、④弟子たちを派遣するときに悪霊を制する権威をお授けになった、ここまでは前半に出て来ますが、だいぶ飛んで次は、今日のこの11章のところに出て来ます。

教え、罪、悪霊追い出し、宮清めなどのことに関しては、イエス様は積極的にご自分の権威を示してこられたということができるでしょう。しかし、イエス様と権威との関係を考えるときには、もう少し先まで行く必要があります。

②ヨハネ10:18

ここで、マルコからは離れますが、ヨハネの福音書の10章18節を引用して読ませていただきます。「だれもわたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、私の父から受けたのです。」

③マタイ26:47-54

もう一か所これと関連して読みたいところがあります。少し長いですが、マタイの福音書の26章47節から54節までお読みします。ここは、最後の晩餐の後、イエス様がユダに率いられた男たちに逮捕されるところです。

「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」

ここに出てきたイエス様に諫められた「イエスと一緒にいた者たちの一人」とは、ヨハネの福音書によるとぺテロと実名が出ております。ついでに危機を切り落とされた方の男もマルコスとヨハネの方では実名で書かれています。イエス様はペテロに剣を鞘に収めなさい、と言われ、続いて大変興味深いことを言われました。「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」ここには、「エクスーシア(権威)」という言葉は出て来ませんが、イエス様はご自分の権威で逮捕を免れることは、いとも簡単にできる。しかし、あえて、それをやらないで逮捕されるのだ、ということをはっきりと言われたのです。

先程のヨハネの10章で見たところと合わせて考えると、イエス様は、ご自身の持っておられたエクスーシア(権威)をあえて封印して、あたかもそんなモノはは持っていらっしゃらないかのようにして逮捕され、十字架に掛けれていったいうことが明らかになってきます。ここが大変大切なところです。

あえて逆説的な言い方をすると、イエス様は、ご自分は権威を持っておられないかのように振る舞うことによって、ご自分の権威を最高に示されたのです。普通は、誰からも傷つけられないこと、誰からも損害を受けないことを保証するのが権威です。しかし、イエス様だけは、あえてご自分の方からご自分のいのちを私たち罪人の身代わりに差し出すことによって、すべての権威の上に立つ権威を確立されたのです。

⒉ 復活が最終勝利

そのことを述べて詳しく述べている聖書の箇所がありますので、読ませていただきます。ピリピ人への手紙2章6節から11節です。

「キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、

天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が

「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。」

普通は、誰にも奪われないのが権威ですが、イエス様の権威は、自ら進んでご自分のすべてを失う権威、また、そのことのゆえにはじめて生じる権威なのです。

そして、このイエス様の権威は、このようにして最終的には復活をもって最高度に現わされたのです。私たちが、毎週、礼拝に集うのは、そのイエス様のお捨てになったがゆえに最高に得られた権威に私たちも与かるためになのです。この権威に私たちが属しているとき、「私が道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃったイエス・キリストを知る幸いを味わうのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、権威ということを学ばせていただきました。イエス様はご自分のいのちをお捨てになる権威と、それを再び得る権威の両方をいかんなく発揮されました。あれから2000年経ちますが、今この21世紀の世界も、日本も、このイエス様の贖いの事実ゆえに、その権威の下に置かれているのです。私たちはそのことをほとんど忘れて、それと無関係に右往左往しながら近視眼的に生きています。どうぞ、私たちの霊の目を開いてくださって、そのことを信仰の目でよく捉えることができますようにお導きください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。