- 2025-09-14 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ11:14-15,20-25
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(49)「そのとおりになります」
- 説教者 山田誠路牧師
序
A. 本日のテキストの展開
⒈ 最後の一週間の二日目と三日目
前回ご一緒に見たところで、いよいよイエス様と一行はエルサレムに到着されました。先週はそこまで詳しく触れませんでしたが、その到着の日は日曜日でした。到着後イエス様は、宮に入られ、すべてを見て回った後、ベタニアに出ていかれた、と11節にあります。最後の一週間、イエス様は、エルサレムの町の中ではなく、夜は必ずベタニアに退いて、そこで宿を取ったのです。たぶん、マルタとマリアのところに厄介になったのでしょう。
今日のところは、翌月曜日の朝とその翌日の火曜日の朝の出来事です。まず、序として申し上げたいことは、今日の聖書箇所は、読み解くのがとても難しいということです。その難しさを二つ申し上げます。
⒉ イエス様のイメージと合わない
一つ目の難しさは、このいちじくの木を呪って枯らした、という出来事がイエス様のイメージとも、物事の道理にも合わない、ということです。
12節をご覧ください。「翌日、(これは月曜日ですね)、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。」朝とは、書いていないので、午前中いろいろあって、お昼近くだったかもしれません。イエス様が空腹の状態でエルサレムへ移動されること自体は特に問題ではありません。ヨハネの福音書の4章に、イエス様が旅の疲れを覚えて井戸の傍らの座っておられ、のども乾いていたのでサマリアの女性に「水を飲ませてください」と頼まれた記事があります。同じように、この時はイエス様、お腹がすいたのだなあ、で何の問題もありません。
しかし、次に13節から見てます。「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれてが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったのである。」とあります。これは、ずいぶん不思議な描写です。
この場面の季節は過越しの祭りの直前で、4月の半ば頃です。一方いちじくの木に実がなるのは、早くて5月の終わりだそうです。「見にいかれたが、…来てみると、…何も見つからなかった」と書いてあるので、イエス様はいちじくの実がいつなるかということをご存じなく、本当にその時の空腹を満たすために、いちじくの実を食べるために遠くにあった木まで近づいていかれた、というように読めます。大工の息子として育たれたイエス様ですが、畑のことも、魚をとることも、鳥や花などの自然界のことも、パンなど日常生活のこともよくご存じでさまざまなたとえ話を語られ、初対面のザアカイの名前を知っておられたイエス様が、いちじくの実のなる季節が頭に入っていなかった、というのが解せない感じがします。
まっ、それは、イエス様がそこまで普通の人間になり、全知全能を制限しておられたと解釈することでクリアできるかもしれません。しかし、次がもっと問題です。14節「するとイエスは、その木に向かって言われた。『今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。』」それで、20節を見ると、「それは根本から枯れていた」ということになるのです。これはあまりの話ではないでしょうか。いちじくの立場に立つと「ボク、何も悪いことしていない。まだ季節じゃないので、今、実がなっていないのは当たり前です。それなのに、いきなりボクを呪って、根本から枯らすなんて、重大なる人権侵害です!」と言ってもおかしくありません。イエス様がなぜ、こんなことをされたのでしょうか。
⒊ 前半と後半のつながりの悪さ
もう一つ、この聖書の箇所には難しさがあります。便宜的に12節から14節までの月曜日の朝の、いちじくの木にイエス様が呪いのことばを掛けた場面を前半とします。そして、20節以降の良く火曜日の朝早く、ベタニアの町を出てエルサレムに向かう途中でこのところを通られたときの話を後半と呼ぶことにします。後半、久ぶりにペテロが弟子たちの先頭を切って、しゃべります。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」ここまではいいです。しかし、ここからイエス様は、このペテロの言葉に答える形で祈りについての教えを二つ述べられます。
簡潔に言うと、①疑わず信じて祈りなさい。そうすればどんなことでもそのとおりになります。②祈る前に誰かを恨んでいることがあったら、まず赦しなさい。そうすればあなたも赦されます。という二つです。皆さん、「あれっ」と思われませんか。イエス様が、いちじくの木を呪ったら、翌日の朝には根元から枯れていた、ということは、まず、祈りだったの?山に命じて海に移れ、と命じるような、祈って実現させることとしては難易度が高いことをイエス様はピュアな信仰で実現させた、という話なの?いちじくの話と、祈る人の動機として恨みの感情を持っていた場合の処理とどういう関係があるの?まったく、関係ないんじゃないの?!少なくとも、すぐに直感的に、このような違和感を覚えるかと思います。
B. 本日のポイント
ここまで、この箇所の難しさを大きく二つ指摘して皆様を落ち着かない精神状態に置き去りにしたまま、本題に入っていきたいと思います。
本日のポイントとしては、
Ⅰ そのとおりになる
Ⅱ 呪いはイエス様の身に
この二つです。
Ⅰ そのとおりになる
さっそく第一のポイントに入っていきます。序において、今日の聖書箇所を読み解く難しさについて触れましたが、それでも一つ、前半と後半を貫いていることがあります。それは、23節と24節に出て来る「そのとおりになります」ということです。本日は、このことばをそのまま説教題につけさせていただきました。
前半のいちじくの木が枯れた、ということと後半の「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」ということは、たった一つ「口から発せられたことばがそのとおりに実現する」ということにおいて共通点があり、一貫しています。
そして、ここで先週の説教を少し思い出していただきたいと思います。先週、私は、イエス様の地上生涯の特徴の一つは、旧約聖書の預言のとおりに生きられた、ということを申し上げました。先週は、イエス様の生涯が父なる神のおことばどおりだったという点を強調しましたが、今日のところではそれがある意味逆になっています。イエス様の口からですことばがそのまま成就する、という形になっているのです。この両方を通して、聖書は神のことばの権威を裏からも表からも伝えているのです。神のことばには権威があるのです。武力によるのでもなく、経済力によるのでもなく、数の力によるのでもなく、権威によって実現させるのです。
Ⅱ 呪いはイエス様の身に
続いて二つ目の大項目に進みます。まず押さえておきたいことがいくつかあります。
A. いちじくはイスラエスのこと
一つ目は、今日の話に出て来る「いちじく」というのは、イスラエル民族のことを指しているということです。旧約聖書エレミヤ書8章13節にこういうおことばあります。
「わたしは彼らを刈り入れたい。-主のことば- しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。」
もう一つミカ書7章1節も読みます。
「ああ、なんと悲しいことだ。私は夏の果物を集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を 取り入れる時のようになった。食べられる房は一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」
エレミヤ書もミカ書もぶどうといちじくが両方でてきますが、両方ともイスラエルで取れる代表的な果物です。そして、その果物が期待に反して実をつけていない。それは、イスラエル民族の姿が神様の目から見て、期待から大きく外れている悲しい状態だ、ということをこの旧約の二ヵ所は言っているのです。ですから、イエス様の今回の行動は、やはり、先週と同じように、旧約聖書の預言どおりのことをされた、言われた、という面があります。
B. 神の愛は忍耐深い
次に押さえておきたいことは、神の愛は忍耐深いといういうことです。反対側から言うと、神の愛は、期待していたものが期待通りになっていないからといって、簡単に切り捨ててることはしない、ということです。
⒈ 実のならないいちじくのたとえ(ルカ13:6-9)
ここで紹介したいイエス様のたとえ話があります。ルカの福音書13章の6節から9節にあるお話です。お読みします。
「イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
イエス様が伝えらえた父なる神の愛、神の国とは、「もう一年、期待してやってください」と忍耐深く食い下がる番人の心に現わされています。
⒉ ルカの福音書15章の3つのたとえ
もう少し、他の聖書の箇所を見てみたいと思います。同じルカの福音書の15章には、有名なたとえが3つ連続して出て来ます。失われた羊、失われた銀貨、失われた銀貨のたとえです。100匹の羊のうちのたった1匹がいなくなっても羊飼いは「見つけるまで捜し歩かないだろうか。」10枚の銀貨のうちの1枚がなくなったら、「見つけるまで注意深く探さないでしょうか。」二人の息子の内の独りが帰ってきたなら、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」と書いてあります。
決してあきらめないで、探し続ける。決してあきらめないで待ち続ける。それが神の愛として描かれています。
そうだとすると、余計に、今回、イエス様の行動には違和感を強く感じていまします。イエス様は、ここで、このいちじくにもっとやさしく接するべきだったのではないでしょうか。
「おっと、ごめん。今はまだ、いちじくの木が実のつける季節ではなかったね。夏にはおいしい実をならせてね。それまで待っているよ。」と声をかけるべきだったのでしゃないでしょうか。
⒊ 避けられない結末
しかし、お分かりのように、イエス様にはそのいちじくを夏まで待ってあげる時間の余裕はありませんでした。この時が火曜日ですから、金曜日まであと4日間しかなかったのです。
さきほど紹介した「実のならないいちじくのたとえ」は、普通、神様の忍耐深い愛を象徴するものとして話されます。私も先ほど、そうしました。しかし、実は、厄介な節が最後に一言あったのにお気づきでしたでしょうか。ルカの福音書13章9節の最後の最後に「それでもだめなら、切り倒してください。」という件があるのです。「この部分、ない方がいいのにな。」「この部分いらん。」と思わないでもありません。しかし、聖書のことばを私たちが勝手に削除することはできません。
神の忍耐深い愛というのは、決して、誰の責任も問われないという形の、ただただ赦すというものではないのです。期待され、愛が注がれたのにも関わらず、実を結ばないという期待外れ、愛の無駄遣い、愛に向き合わない罪は、必ずその責任を問われるのです。そうでなければ、神は正義の神ではなくなってしまいます。
C. イスラエルの救い
結論に行く前に、もう一つ別の聖書の箇所を引用します。ローマ人への手紙の11章25節から29節までです。少し長いですがお読みいたします。
「兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。
「救い出す者がシオンから現れ、
ヤコブから不敬虔を除き去る。
これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、
すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」
と書いてあるとおりです。
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」
この聖書の箇所は非常にスケールの大きな、そして微妙なことを論じているところです。パウロは、イエス様をメシアとして受け入れないイスラエル民族は、一旦捨てられるような運命をたどるけれども、最終的にはみな救われるのだ、というとても大胆な主張をしています。その道筋は、イスラエルが福音を拒んだがために、福音は異邦人に伝えられ異邦人が救いに与かる。しかしそのことがイスラエルに妬みを起こさせ、その妬みが最終的にはイスラエルをメシアに帰らせる、という壮大なストーリーです。
D. 呪いはイエス様の身に
それでは、まとめてみましょう。いちじくはイスラエルを示しています。より具体的に言えば、今日は飛ばして来週見るところとなります15節から19節に描かれているように神殿が商売人によって強盗に巣にされているエルサレムの姿を象徴しています。イエス様には持ち時間があと4日しかないのに、このいちじくには実がついていません。神様の歴史を通しての長い長い忍耐の甲斐もなく、期待外れの姿です。
そして、イエス様は、これまでご自身がいろいろなたとえばなしをもって語った来られた、最後の一匹まで探し求める、死んだ息子が帰ってくるのを今日か今日かと待ちつづけ、待ち焦がれる愛に満ちているお方です。
そのイエス様が、いちじくを呪い、翌朝には根元から枯れていました。これは、何を意味しているのでしょうか。空腹時の嫌がらせでは決してありません。これは、イエス様が、ご自分の身の上に、イスラエルが受けるべき呪いを受けるというあと四日後に起きる十字架の出来事に向かう覚悟をこめた言葉なのではないでしょうか。
さきほど紹介した「実のならないいちじくのたとえ」が書かれているルカの福音書の13章のもう少し先にこういうおことばがあります。
「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」
また、エレミヤ書31章20節には、
「わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようにる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」
とあります。
エルサレム到着の翌日の月曜日に、ベタニアからエルサレムに向かう途中でいちじくの木に近づいて行ったとき、この旧約聖書おことばが、イエス様の身の上に成就したのではないでしょうか。
私たちの毎日は、こんなに激しい神様の愛で取り囲まれているのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様が最後にエルサレムに到着された翌月曜日と次の火曜日の朝の不思議な場面からあなたのことを学ばせていただきました。実がついているはずもないいちじくの木に対して呪いのことばを発せられたときのあなたのお心には、どれほど熱いエルサレムへの、イスラエルへのはらわたが震えるほどの愛がほとばしっていたことでしょうか。その同じ愛は、少しも冷めずに、今、21世紀の日本に生きる私たちに臨んでいることを、どうぞ、あなたが私たち一人一人に注がれる聖霊によって悟り、喜びに踊るものとしてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
