- 2025-09-07 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ11:1-11
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(48)「イエスはそれに乗られた」
- 説教者 山田誠路牧師
序
A. 本日のテキストの展開
⒈ いよいよエルサレムに到着
いよいよイエス様と一行はエルサレムに到着するという場面に今日差しかかりました。前回はエリコという町が舞台で、エリコはエルサレムから24,5kmまだ離れているところでした。今日のところには2つの町の名前が出てきます。ベテパゲとベタニアとですけれども、ベテパゲという方はですね、いろんな聖書地図を見てみますと、ちょっとクエスチョンマークがついていて、今のこの辺だったっていうことがちょっと特定するのが難しいようです。ベタニアの方はエルサレムから3.8kmぐらい、日本流で言うと一里ですね。簡単に行き来ができる本当の隣町というところです。そこにさしかかるちょっと手前に、イエス様は2人の弟子を遣わしました。多分「この向こうの村」っていうのはベタニアのことではないかと思います。そこに子ろばが繋がれているから、それを解いてきて、自分のところに連れてきなさいという指示を出されました。他人の子ろばですね。まあ、今で言うと、鍵のついた車が車庫に入ってるから、それをちょっとここまで乗って来なさいというようなもんですね。普通はそんなことはしちゃいけない、そんなことはできないはずなんですけども、「主がお入り用です」と言えば許してくれるからということで、ま、その通りになったという、不思議な展開です。
⒉ ベタニアという町
その子ろばが繋がれていただろうベタニアという町なんですけれども、皆様よくご存知のマルタとマリアという話がありますね。それから、その姉妹の兄弟であるラザロ、死んで4日経って臭くなっていたのに蘇ったというラザロ。この兄弟姉妹が住んでいた町がベタニアという町です。イエス様はこのマルタ、マリア、ラザロとはかなり親しかったようなので、このベタニアの町には今回よりも前に何度もか何度かお泊まりになっていたに違いないということが推測できます。
マタイ、マルコ、ルカという3つの福音書を読むと、イエス様は成人して公生涯に入った後、最初のうちガリラヤを回っていて、それからある時、エルサレムに向かって一直線に旅を続けて、エルサレムに到着して十字架で殺されるという、そういうストーリーになっています。公生涯に入った後1回しかエルサレムに登ってきていないように読めますし、それ以外のことは書かれていません。ところが、ヨハネの福音書を読むと少なくとも、公生涯に入った後3回いろんな祭りのためにエルサレムに登ってきているということが書かれております。このヨハネのその記述を元にしてイエス様の公生涯ってのが3年半だったという風に普通言われるんですね。ヨハネのことを度外視しちゃうとイエス様の公生涯は、1年ぐらいてことになってしまいます。少なくとも3回イエス様がエルサレムに登ってこられる。そこでその旅ごとにベタニアを通り、ベタニアで宿を取り、その時マルタ、マリア、ラザロの家にお世話になっていたんではないかという推測がつきます。
⒊ 子ろばの持ち主が許したことに関する二つの説
そしてこの、子ろばをですね、「主がお入り用なのです」と言ったら、「あ、そうか、じゃあ持ってっていいよ」って言ってくれたというこの不思議なやり取りの解釈が二通りあります。今回私初めて注解書をいろいろ調べて、あ、そういうのもあるのかと思ったんですけども、一つは今言いましたようにベタニアとイエス様は、ちょっと親しい関係にあったので、名前は出てきませんけども、この子ろばの所有者と前回イエス様がその町にベタニアに来た時に、何らかのやり取りがあって、「今度来た時にはあなたのとこの子ろばを使わせてね」っていうそういうやり取りがあったんではないか。その時に、弟子たちはそこに居合わせなかったか何かで、弟子たちは知らなかったけれども、イエス様とその子ろばの持ち主の間にそういうやり取りがあったということを想定するという解釈で。もう一つは、イエス様は神様だから、予知能力があったと言いますか、普通なら驚いて人のものを勝手に取っていくなというところ、「主がいるようなのです」と言えば、その人が、許してくれるという予知能力があったという解釈です。私は今回、どうもその事前交渉説の方に魅力を若干感じまして、もしかしたらそういうやり取りがあったのかなという風にも思いました。いずれにしろ、この福音書に記されている最後のエルサレム入城の一番の特徴は何かと言うと、イエス様が何に乗って入場してこられたか、子ろばに乗ってきたというところに、今日私も注目してみたいと思っております。
Ⅰ 子ろばに乗って
⒈ 人物と乗り物
人がどんな乗り物に乗るかということは、その人物を表す時にとっても重要なファクターとなります。それは自分でどのような人物だと見せたいかという点でもそうですし、歴史的な人物を歴史家が絵にしたり文書にしたりする時にも、「誰々は何に乗ってた」っていうところを絵にしたりっていうところでも重要です。
①アレクサンダー大王
例えばアレクサンダー大王は馬にまたがって勇敢にし、神、進軍してるという、床モザイクの絵というがとっても有名ですね。相手はペルシャのダレイオス3世だそうなんですけども、馬にまたがった非常に勇敢な姿。それがアレクサンダー大王の一番有名な特徴的な絵となっております。
②ナポレオン
だいぶ時代が下って近世、近代のナポレオン。ナポレオンの一番有名な絵は白馬にまたがってアルプス越えをしているという絵です。実はですね、本当はナポレオンはアルプス越えをする時には馬ではなくてラバにまたがって進んだそうです。馬よりもラバの方がアルプスを越えるのには適していたそうですね。普段は、ナポレオンは馬に乗っていたそうなんですが、アルプス越えということとナポレオン、それを忠実にラバに乗ってるよりは白馬に乗ってる方が絵になるということで、そういう絵にしたそうです。
③金正恩
北朝鮮のキム・ジョンウンも2019年に白頭山という金一家にとっては非常に神聖な山なんですけども、そこに雪が降り積もってるところに白馬にまたがったキム・ジョンウンの写真があります。今でも簡単にネット上に出てきます。数日前日、抗日戦勝80周年記念パレードが北京で開かれて、プーチン、習近平、キム・ジョンウンが集まりましたけども、キム・ジョンウンは電車で行けるところは飛行機ではなく電車で行く、特別列車に乗っていく。あれがどれほどお金のかかったものであり、あれを動かすためにどれほどの人力が使われるか。権威の象徴でもありますし、また身の安全を守るためにはそれほどのものを仕立てなければいけない。
④アメリカ大統領
アメリカ大統領はですね、専用機エアフォースワンというので移動しますし、地上は数百メートル先に行くのにも、「ビースト」という特別リムジンに乗っていくそうですね。そのリムジンは1台重さ9トンもする、ま、どんな攻撃受けてもビクともしないような車に乗って移動するということですね。
⑤若い商社マンの話
ちょっと話は変わりますけども、私が大学を出て新入社員で会社勤めをしてほんの3年ぐらい経った時ですかね、やっと少し戦力になりかけていた時。私の仕事の相手に三菱商事に勤めている高橋君っていう人がいました。やっぱり2年目か3年目だったと思うんですけど、無理してフェアレディーZか何かを買ったっていうんですね。当時の三菱商事の社員の人たちはほとんど寝る時間もないぐらいに働き通しに働いていたんですけども、大見えを張って借金をして、ボーナスははたいてフェアレディーZを買った。しかも結構都心に住んでいて、駐車場がものすごく狭くて、駐車場から出すのに1ミリ、2ミリの切り返しを何回もしてやっと出すっていう話だったんです。日本人にとっては、どんな車に乗ってるかっていうのは、大見えを張るところでですね、車は動く見栄であるという言い方があります。
⑥ウルグアイのホセ・ムイカ大統領
一方、世界一貧しい大統領として有名になって、もう亡くなりましたけど、ウルグアイのホセ大統領っていう人がいらっしゃいます。その人は、おんぼろのフォルクスワーゲンビートルに乗っていました。超大衆車ですね。日本の昭和で言うと「カローラに乗っている大統領」というような感じです。
⑦イエス様は?!
さて今日のところでは、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入ってこられたということなんです。
⒉ ゼカリヤ書の預言の成就
イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入って来られたということには、どのような意味があるか、大きく2つあるかと思います。1つ目は、これは予言の成就だったという意味です。旧約聖書の後ろの方にゼカリア書という書があります。読ませていただきます。ゼカリア書9章9節から10節まで。
「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なるもので勝利を得、柔和なものでロバに乗って、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、ユーフラテス川から地の果てにまで至る。」
イエス様ご在世当時からすると約500年前に書かれたであろうこのゼカリア書の預言の通りに雌ろばの子のろばに乗ってイエス様は入って来られたです。イエス様という方の生涯の特徴の一つに、生まれてから息を引き取るまで預言の成就として生涯を過ごされたということがあります。今私たちがずっと学んでおりますこのマルコの福音書というのは他の福音書と比べるとイエス様の生涯を預言の成就として描くという要素は四つの中で一番低いと言えるかと思うんです。それでもマルコの福音書の出だしは、1章1節「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という表題があって、2節「預言者イザヤの書にこう書いてある」と始まって、洗礼者ヨハネの誕生がイザヤの預言通りであるというところから始まっているんですね。マルコでも、イエス様の生まれがその生まれの序の段階から預言の成就だったという書き方。そしてイエス様の十字架上で、死ぬまであと数時間数十分と迫ったところでの有名な「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びの言葉があります。あれもただ苦しくて叫んだのではなく、詩篇22編の1節のお言葉を口から出されたということなんですね。
私はこのイエス様のご生涯の大げさに言うと一挙手一投足が旧約聖書の予言通りに進んでいくということについて、今回特に思い巡らして見ました。今回思い巡らす以前、どういう印象を大雑把に持っていたかと言うと、なんとなく窮屈だったんではないかというイメージが無くもなかったんですね。なんか型にはめられる。あるいは役者と台本とでも言うんでしょうか、台本がセリフの事細かなところまで決まっていて、役者はその通りに演じる。旧約聖書が台本、セリフで、イエス様はその通りに演じているというような、イメージが若干なくはなかったんですね。「もっと自由にやればいいのに」ということを思わないでもなかったんです。けれども、今回改めてこの預言の成就ということとイエス様の生涯を考えてみた時に、もっと違う捉え方が可能かなということを思いました。
それはどういうことかと言うと、イエス様は神が人となった存在ですね。まことに神であり、まことに人である。全き神であり、全き人である。その人となった神の子っていうのはどういう意味か。それにはいろんな説明の方法があって、神がもうそれほどに人間を愛しておられる。神が人間を愛して愛して愛して愛し抜いたゆえに人間になっちゃった。そういう言い方もあれば、私たち人間のあるあらゆる弱さ、脆さ、そういったものをイエス様も肉体を取って実感して同情するために、私たちを理解し、徹底的に寄り添うために人となったという言われ方もあります。十字架で神の子羊となって私たちの罪を担うためには私たちと同じ肉体を取らなければいけなかった。この罪の身代わりとなるために肉体を取ったという説明の仕方もあります。
けれども、今回私はそれとはまた別に、真の人間を表している、それがイエス様が肉体を取り、その肉体を取ったイエス様が予言の成就通りに歩んでいるという意味ではないか教えられました。どういうことかと言うと、真の人間というのは神の御心に全く沿って歩むという存在なんだということです。私たちは、「そうなの?真の人間は神の御心に1から10まで全部沿うって、なんかロボットみたいで自由がない」と思うかもしれません。けれども、そこが間違いです。神の御心に1から10まで100%従っている時に真の自由があり、真の喜びがあるのです。そのことをイエス様が示しておられる。
実にそれは、アダムが失ってしまった真の人間の姿を預言の成就通りに歩んでいる地上のイエス様の生涯が取り戻してくださったという意味があるのではないか、ということです。
⒊ 平和の君としての入城
ちょっと話を進めたいと思います。では、イエス様以外の弟子たち、人々はどういう風に行動したかっていうことちょっとだけ見てみたいと思います。弟子たちは、上着をそのロバの子の上に載せて鞍の代わりにして、「ま、ここに載ってください」と。私たちは馬もロバもラバも乗りませんのでよく分かりませんけども、大昔の人間は鞍なしに乗っていましたが鞍をつけてその上に乗るってことは人類史上のその三大発明のうちの一つと言われるぐらいとっても重要なことなんだそうです。今回、鞍がないので代わりに自分たちの上着を敷いて「この上に乗ってください」っていうことだったのです。
それは、旧約聖書の中に一つ例がありまして、北イスラエル王国にエフーというクーデターで王様になった人物がいます。ものすごくこのハチャメチャなタイプの人間で、多くの人の血を流した「ブラッディ・エフー」という感じの人物なんです。このエフーがクーデターに成功した後、部下の人たちが階段に上着を敷いてそこを登って即位した。
それから、弟子たちも含めたかもしれませんけど、周りの人々は何をしたかと言うと、葉っぱのついた枝を道に敷いて、「ホサナ、ホサナ」と言ってイエス様を歓迎しました。葉っぱのついた枝を道に敷いたというのは、その時代のさらに150年前に、イスラエルの人たちが独立を勝ち取った時期があったんです。ユダヤ民族というのはバビロン捕囚になった以降、ずっといろいろな勢力の支配に置かれていたんです。しかし、イエス様がお生まれになる160年ぐらい前でしょうか、ハスモン朝が独立を勝ち取った時期があったんです。そのハスモン朝のシモンという人が、セレウコス朝シリアの王様、統治者を追い出してエルサレムに入場する時に、葉っぱのついた枝を敷いたということがあったそうです。
ですから人々の反応っていうのは、面白いことに「ホサナ」という大歓声を上げてフィーバーしている。それは感情とか期待を表しているんですけれども、同時に前例主義ですね。「あのエフーの時にはこうした。あ、あの、マカベア家のシモンの時にはこうした」と、ちゃんと前例を踏襲して行動しているのです。人間っていうのは不思議なもので、この大フィーバーの中にもどこか頭の中に前例を踏襲するっていうものがうまく混ぜ合わせられるんです。
その中にイエス様は子ろばの、子ろばに乗って入ってくるんですけども、ゼカリアの預言何を言ってるかと言うと、来るべきメシアがエルサレムに入ってくる時には、決して支配し、抑圧し、制圧する勝利者の王として入ってくるのではない。もしそうであるならば馬に乗って入ってくるわけなんですけども、そうではなく、もう戦いの弓も無くなる、軍馬も無くなる、平和の君として入ってくる。その象徴がロバの子にまたがって入場する王ということなんです。
ここに数回私が強調しておりますように、イエス様の目指しておられること、イエス様のイメージしていること、イエス様が描いていることと、弟子たちが描いてること、民衆が描いてることとのギャップが、またここで、このエルサレム入場という場面で大きく開いてきます。それがマックスになるのは、十字架復活です。今までも大きなギャップがあったんですけど、エルサレム入場でガーっと開くという場面になります。
Ⅱ どのように平和を実現させるのか
⒈ 殺される/負けることによって
次に、ではどのように平和を実現させるというということだったのかということに触れて締めくりに進んでいきたいと思います。端的に言うと、殺されることによって、負けることによって平和を実現するというプランを神様は持って、それを実現なさったのです。
良い例になるかどうか分かりませんけども、第二次世界大戦の戦勝国の多くは第二次に勝った後も戦争を続けています。アメリカはベトナム戦争をし、イラク戦争をし、対テロ戦争をしという風に決して戦いをやめることができません。なぜならば勝ったからです。ソ連、ロシアもそうですね。勝ち続けると戦いを辞めることができません。あまり浅薄に言うことはできませんけども、負けて焼け野原となった日本は負けたがために、80年間戦争をしない時代を過ごせているのかもしれません。
神様は蹴散らして制圧して平和を実現するというプランではなく、負けて、そして平和を実現する。例えて言うならば、高圧洗浄機でものすごい圧力で水をかけて、ビーっとやってあらゆる汚れを落とすのではなく、足拭きマットのように、どんな汚れも自分の上で、自分の顔に踏みつける人を、踏みつけられながら、自分の顔が踏みつけられ、自分の顔に泥を塗られることによってその人の足の底をきれいにしていくという平和です。
⒉ その平和の福音は人間によって伝えられる
しかし、その神の負けて死んで殺されて平和を実現するというプランも、もう一つの要素があります。イエス様がお一人でそれだけのことやって終わり、実現っという風にはならないんですね。もう一つの要素は何かと言うと、やはり弟子たちが人間がそれを理解して、その福音を生きて伝えていって初めて、その福音は広まっていく、その平和が実現していく、人間によって伝えられていくという要素があります。そこまでが神のプランの中に入っています。そのために弟子たちは、ずっといっしょにいるんです。
野球でもサッカーでもアメリカンフットボールでもスポーツ名監督というのは、自分のチームの各選手が、命じてられている役割を果たした時に初めて大きなプランが成功して試合に勝つということが実現します。けれども、イエス様が福音チームの総監督だとすると、イエス様のチームの各プレイヤーは、監督イエス様の作戦を全く理解せず、自分勝手にやって失敗ばかりしているようなもんですね。ですから普通に言うとその監督は、勝利しようがない、そのチームは敗戦するしかないんですけれども、ところがですね、イエス様は、総監督の作戦を理解せずに失敗ばっかりする、それを全部利用して、それを全部収めて、それを全部その通り受け止めて、そして最高の平和の実現のプランを進めておられるというようなもsんです。
自分が真っ先に十字架について、弟子たちは絶望して、そして復活して、弟子たちはそれも最初には理解しません。しかし弟子たちは、その十字架復活の大きなストーリーを自分の失敗、自分の回復という個人のストーリーで全部消化して体験して、それを持って出ていって初めて一つ一つ進んでいくプランを今イエス様はこの歴史、21世紀の歴史においても実行中なのです。
本当は、子ろばは荷物をちょっと乗せて仕事をするというものです。けれども、なんと栄光のイエス様をお乗せしてイエス様を運んでいく子ろばに、あなたが今日ならないか?!という風に1人1人が今日イエス様に呼ばれている。それが今日の9月7日の日曜日だということを私たちは受け止めさせていただきたいと思います。
一言お祈りをいたします。天の父なる神様、今日はイエス様がとうと最後にエルサレムに到着された場面を学びました。雌ろばの子のろばに乗って平和の君として。けれども周りで大フィーバーをして上着を敷いたり枝を敷いたりして、とうとうイエス様が王として入場されると思っていた人々を描いている。その勝利の絵と、イエス様が深く深く描いておられた勝利の絵は全く別物でありました。けれども、別の絵しか描けない弟子たちを、やがてイエス様は本当に獲得して、そのようなあなたたちでしかできない平和の使いとして世に遣わしたいんだと、その願いは21世紀に生きる私たちにも今日及んでいることを本当に私たちも勇気を持って信仰を持って受け止めて、この主とそれぞれの持ち場立場で歩んでいくことができるように主が励ましてください。イエス・キリストの尊い皆によってこの祈りを見舞いいたします。アーメン。
