- 2025-08-24 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ10:46-52
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(47)「躍り上がってイエスのところに」
- 説教者 山田誠路牧師
序
A. 本日のテキストの展開
⒈ 大きなセクションの締めくくり
今日の聖書の個所は、8章27節でイエス様が弟子たちを伴ってピリポ・カイサリア地方に旅に出たところから始まる、一連の弟子訓練に重きを置いたセクションの締めくくりの部分になります。今お読みしました10章の最後に至るまでの2.5章分くらいのセクションには幾つかの特徴があります。それ以前のセクションがガリラヤ周辺一帯の病いに苦しむ人々、悪霊につかれた人々、貧しい人々などに向けて、ものすごい勢いで神の国の福音を伝え、癒しの業をしまくる、といったトーンから、今度は身近に置いているお弟子さんたちの訓練にイエス様の勢力を傾けてるというトーンに変化している、ということができます。そして、その中で、ペテロに代表される弟子たちからはイエス様をメシアだとする信仰告白、イエス様の側からは3度にわたる受難と復活の予告という大切なことが出てきます。
⒉ 弟子たちの不理解とまとめ役
しかしながら、というか残念なことに、この大きなセクションを通して弟子たちの霊的な目はまだ閉ざされたままになっています。その弟子たちに対して、イエス様は、わからないのを承知で、仕える者となること、小さき者たちの大切さ、後の者が先に、先の者が後になるという神の国の原則などを、イエス様は繰り返し語って来られました。
今日のところは、その大きなセクションの締めくくりを一人の目の見えない物乞いの姿を通して一気にまとめ上げる、という役割を果たしています。
3. エリコのロケーション
場所はエリコの町を出てすぐの道端です。エリコはエルサレムまであと24~25キロのところにあります。ガリラヤはエルサレムより北ですから、イエス様は都であるエルサレムに向かって南下しているわけですね。江戸時代の日本に置き直すと、今の国道4号線に当たる奥州街道で江戸に向かっているとすると、エリコまで来たということは、だいたい草加あたりまで近づいたという感じです。
⒋ バルティマイの位置付け
マルコの福音書には登場しませんが、ルカの19章に出て来るあのザアカイが取税人の頭をしていた町がエリコです。あの富める青年が「永遠のいのちを得るためには何をすればよいのでしょうか」とイエス様に尋ねたとき、イエス様は「全財産を売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そしてわたしに従ってきなさい。」とおっしゃいました。それを聞いた人たちはみな驚き、イエス様は「人にはできない。しかし、神にはどんなことでもできる。」と言われました。その「人にはできないことが神にはできる」ということをリアルに示しているのが、ルカの福音書ではザアカイなのです。守銭奴であったザアカイが、「財産の半分を貧しい人に施し、後の半分でだまし取った人々に償います」と自分から宣言した、まさに奇跡が起こったのです。
しかし、不思議なことに、あれほど感動的なザアカイ物語りをマルコは全く載せていません。その代わりに、あの感動的なザアカイ物語りのマルコ版が、今日、ご一緒にみておりますバルティマイのお話なのです。
すぐお分かりになることですが、ザアカイとバルティマイでは、かなり境遇が異なっております。ですから、その出来事の意味もだいぶ違ってきます。ザアカイは、お金持ちでした。知恵もあり機転が利く自分でなんでもできると思っている人物でした。しかし、バルティマイはその正反対です。彼は、目が見えない物乞いでした。彼にできる唯一のことは、道端に座って、エルサレムに詣でる人々からお恵みを垂れてもらうことでした。捨てるものはもともと何も持っていません。
B. 本日のポイント
ここまでを序としまして、本題に入っていきたいと思います。今日は、バルティマイについて聖書が記述していることから三つのポイントを立てました。
Ⅰ バルティマイが使ったもの
Ⅱ バルティマイの求めを昇華させたもの
Ⅲ バルティマイの足
この三つのポイントでお話ししていきます。
Ⅰ バルティマイが使ったもの
まず、バルティマイが使ったものを見ていきたいと思います。先ほど、わたしは、バルティマイは、ザアカイと違って何も持っていなかった、と申し上げました。確かに財産について言えばそうでした。しかし、実はそれでも持っているものはあったのです。そしてそれが彼の救いにつながったのです。彼が持っていて使ったものは、彼の耳と口でした。目は閉ざされていましたが、耳と口は開かれていたのです。それを彼は最大限に使いました。私たちも自分には何もない、と言いがちですが、実は、与えれられているもの、持っているものを十分に使っていないだけかもしれません。
A. 耳
まず、耳ですが、彼はきっと耳は日ごろからよく使っていたでしょう。エルサレムに上る巡礼者が通る道に毎日座り込んで、人々の憐れみにすがっていたので、エルサレムでの動きには、いつでも聞き耳をたてていたでしょう。私はかつて東京都杉並区の久我山というところに住んでいました。そこの商店街に小さなお団子屋さんがありました。そのお店の御主人が言ってましたが、国学院久我山で保護者会がある日には、お団子の売り上げが跳ね上がるんだよ、と。学校からお団子屋さんにわざわざ保護者会の日程の連絡は来ていなかったと思いますが、ご主人は聞き耳を立てて、次の保護者会の日をキャッチし、事前の仕込みを怠らなかったのです。
バルティマイが一番注意深く聞いていたのは、人々のうわさ話だったでしょう。もちろん、ガセネタもたくさんあるでしょうけれども、昔も今も人々の噂話によって世の中は流れが作られていくのです。そんな中で重要な噂話が彼の耳に入ってきました。
「ナザレのイエスが今度の過越しの祭りを過ごすためにエルサレムに向けて登ってきているんだとさ。」
「その人はだれも聞いたことがないような話をするんだとさ。貧しい人は幸いだとか。そんなら俺も幸いだってことになるけどな。」
「ガリラヤじゃ、病人が数えきれないほど癒されたそうだ。ベツサイダでは目の見えない人の目も開かれたそうだ。」
「この人は昔から預言者が伝えてきたダビデの子孫として世に来るメシアかも知れねーな。おれはもう半分以上信じてんだけどよ。」
バルティマイは、道端に座りながらここ二三日、とみにこんな会話をよく聞くようになっていました。そして、決定的な瞬間がやってきました。なんだかエリコの町が賑やかになっていると思っていたら突然「イエス様だ!イエス様がここをお通りになるぞ!」
この言葉がバルティマイの耳に入るやいなやバルティマイのからだにはアドレナリンが一気に大量放出されました。そして、バルティマイが持っている二つ目のものが開かれました。
A. 口
「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫んだのです。しかも聖書をよく見るとただ叫んだとは書いていないのです。「叫び始めた」と書いてあります。一回ではこの叫びは終わらなかったのです。多くの人が黙らせようとしても、何度も何度も叫び続けたのです。彼の目は閉ざされていました。しかし、彼の耳と口は開かれていました。その耳と口を開いて主イエス様に向かった時、彼に救いが訪れたのです。
Ⅱ バルティマイの求めを昇華させたもの
A. イエス様の一言
⒈ 最初の求め
次に、バルティマイの求めについてしばらく考えていきたいと思います。まず、バルティマイの求めの変化ついて見たいと思います。バルティマイの最初の求めは、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」でした。
これには二つの特徴があります。
一つは、彼はイエス様をはじめから「ダビデの子のイエス様」と呼びかけていることです。「ダビデの子」は、来るべきメシアを呼ぶ称号です。バルティマイはイエス様のことを救い主だと信じて呼びかけているのです。
しかし、同時にその求めはまだ的が絞り切れていない漠然として求めでした。「私をあわれんでください。」と。
⒉ イエス様の一言
この漠然として求めが、もう一段階、踏み込んだ、そこに信仰の力が働くようなシャープ求めに昇華される必要がありました。そこに導いたのイエス様の一言でした。イエス様は、「わたしに何をしてほしいのですか。」とバルティマイに尋ねたのです。その問いかけに答えるために、バルティマイは、「目が見えるようになることです。」という求めをはっきりと自分の口に出したのです。
⒊ 昇華された求め
物乞いの彼にとっては、道行く人が、今日自分が食べていくのに十分なだけの施しを投げ入れてくれるかどうかが毎日の問題でした。ですから、毎日ここにきて物乞いをしなくて済むように、一生分の、それが無理だったら一年分の、いや一か月、一週間分でもいいです、たくさん恵んでいってください。そのレベルの求めをするということもあり得たでしょう。
しかし、バルティマイはもっと、深い、根本的なレベルでの求めをしたのです。「施しをください」ではなく「私の目が見えるようにしてください。」と一番根本的な解決を大胆にも求めたのです。
この求めをはっきりと外に向かって表明するには、勇気と信仰が必要です。その勇気と信仰をイエス様の「わたしに何をしてほしいのですか。」という一言が引き出したのです。
⒋ 実は見えていないのは
ここには比喩があります。目が見えていないのは、本当はお弟子さんたちです。ここまでイエス様と行動を共にし、あらゆる奇跡を目にし、あらゆる説教をイエス様の口から直接聞き、信仰告白もし、受難・復活予告も三度も聞いてきた弟子たちです。しかし、彼らの関心は依然として、誰が一番偉いのか、というところに縛られているのです。そして、彼らの一番の問題は、自分たちの目が見えていないことを悟っていないところにあります。それを悟っていない人の口からは、「目が見えるようにしてください。」の叫び声はどうひっくりかえっても出て来ようがないのです。
B. 周囲から入る邪魔
⒈ 黙らせようとする人々
バルティマイの求めを昇華させたもう一つの要素があります。それは、周りから入る邪魔です。この叫びを上げ始めたバルティマイには、立ちはだかる人々が現れます。48節には、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とあります。ひたすらに叫び求めるバルティマイに立ちふさがる者たちが現れたのです。私たちはたいてい、邪魔は入らない方がいいと考えます。計画したことは、計画通りに最短時間に達成されることを願います。
2. 教習所の例話
先日、教習所に大学生の息子さんが通っているというお母さんがこんな話をされていました。「うちの息子は仮免にもう3回も落ちて、今月中に仮免通らないと、最初に収めた30万円がパーになるんです。祈ってください。」ということでした。仮免は一発で合格する方が望ましいです。一度収めた30万円がパーにならないことが望ましいです。
しかし、私たちの人生には、しばしば、思い通りにいかないこと、邪魔が入ることがあります。しかし、それがかえって、自分では望めない神様からの最高のお取り計らいだ、ということがあります。
⒊ 喜多見チャペルの例話
私たちも、イエス様に叫び求めるときに、たいていのことは一筋縄ではいかないことになっているのです。
この喜多見チャペルもそうです。はじめる前は、正直言うと、もっと簡単に私は考えていました。私が話せば人は集まる、くらいに高慢にも思い上がっていました。しかし、現実は厳しいです。
しかし、これでよかったのだと思います。私の願いと祈りもこの一年半で昇華されつつあると思います。
Ⅲ バルティマイの足
最初のポイントで何も持っていないバルティマイも耳と口を持っていて、それを最大限使ったというお話をしましたが、バルティマイが持っていたものが実はあと二つ、この記事に出て来ます。皆様何だと思われますか。
A. 上着
一つ目は上着です。物乞いにとっての上着は、ただの服ではなく夜の寒さを防ぐ“家”にも等しかったと言われています。また、出来るだけ道行く人の憐みの情を引き出すために、思いっ切りみすぼらしい、みじめな上着でなければならなかったでしょう。そのみじめさは、自分のプライドを傷付けると同時に自分の生き方を最低限のところで支える切り札でもあるという、複雑に自分自身のアイデンティティーと切り離せない最後の一物だったのです。
バルティマイは、イエス様に呼ばれていると聞いた瞬間、その上着を脱ぎ捨てました。とても象徴的です。彼は、古い自分を惜しげもなく脱ぎ捨てたのです。イエス様に呼ばれた以上、自分がもう一度ここに戻ってきて座り込んで、この上着を着て物乞いをすることはない、ときっぱり古い自分と“さようなら”をしたのです。
B. 足
⒈ 古い自分を捨てた
もう一つ、バルティマイが持っていたのは、足です。もう一度、50節をご覧ください。「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」とあります。彼は、躍り上がったのです。彼はそれまで来る日も来る日も道端に座り込んでいたのです。足は、ついていますが、折りたたまれて、通常ほとんど使われていませんでした。イエス様が自分のことを呼んでおられると聞いて、ドーパミンが大量分泌されたのでしょう、彼は一気に躍り上がったのです。そして、イエスのところに来ました。
⒉ その時は一気に来る
私たちも座り込んでいたところから立ち上がる瞬間は案外、一気にやって来るのではないかと思います。立ち上がるための筋力をつけるというよりも、一気に喜びが体中を駆け巡り、それまで自分の内になかった力が一気に、自分のからだを駆け巡るのです。イエス様に呼ばれるというのは、それほどダイナミックな喜びをもたらすことなのです。
そして、次にバルティマイの足が登場するのは52節です。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」とイエス様が言われると、すぐにバルティマイの目は見えるようになりました。そして、その次です。「彼は見えるようになり、道を進むイエスについて言った。」とあります。毎日、道端に座り込んで物乞いをしていたバルティマイが、今や、イエス様について道を歩く人になったのです。
ここに、後の者が先になる、という絵が完成したのです。人にはできないことを神はしてくださる、ということが実証されたのです。
(実際の説教では、これ以降は割愛しました。)
締めくくりの例話 -ナアマン-
最後に旧約聖書から一つのお話を紹介して締めくくりたいと思います。イスラエルが北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていたころの話です。北イスラエルの隣国にアラムという国がありました。アラムとイスラエルは戦争をしてアラムが勝利し、イスラエルから捕虜がたくさん連れて行かれました。アラム軍にナアマンという、これまでいくつもの武勲を上げてきた将軍がいました。今回のイスラエルとの闘いにも功績があり、イスラエルの若い娘を一人捉えて妻に仕えさせていました。
ところが、ナアマン将軍には一つ大きな問題がありました。それは、彼は、勇士ではありましたが、ツァラアト、すなわち新共同訳では「重い皮膚病」という病に侵されていたのです。ある時、捕虜として連れてきたイスラエル出身の娘が女主人に言うのです。「イスラエルにはご主人様の病気を治すことができる預言者がいます。」
そこで、ナアマンは敵国の将軍でありながら、おみやげをたくさん持ち、おつきの人もたくさん従えて、預言者エリシャに会いに行きます。ナアマンはエリシャが自分のからだに手を置いて恭しく癒しの祈りを捧げてくれるものだと思っていたら、なんと、エリシャは家の中にいたまま使いの者を遣わして「ヨルダン川に行って7回身を洗いなさい。そうすればあなたは直ります。」と伝えます。
ナアマンは激怒します。「なんどと。だいたいどうして、エリシャはワシに挨拶もしないのか。無礼者だ。それに、ヨルダン川に身を浸して治るくらいなら、アラムの国にはヨルダン川より立派な川がいくらでもあるわ。けしからん。帰るぞ!」
しかし、そこに賢い部下が提言します。「もっと難しいことを要求されたら、あなたは喜んでそれをしたことでしょう。言われたことは簡単なことではないですか。」
ナアマンはその部下の言葉を入れて、ヨルダン川に下っていきました。そして裸になってヨルダン川に身を浸しました。もはやナアマンが身にまとっているのは勲章ではなく、ツァラアトの患部だけです。その醜い、ありのままの自分の姿をさらけ出して、7回、身をヨルダン川に浸して上がったときに、彼のからだは元通りになり、幼子のからだのようになり、きよくなった、と聖書には記されています。
預言者エリシャと将軍ナアマンのやり取りは、「わたしに何をしてほしいのですか」「目が見えるようにしてください。」のイエス様とバルティマイのやり取りと重なります。軍服を脱ぐことによって、「自分の問題は全身がツァラアトに侵されていることです。このツァラアトから私を清めてください!」という叫びを上げた時にいやされたのです。自分は目が見えないのです。見えるようにしてください、との叫びを上げた人だけが、見えるようになるのです。見えていると思っている弟子たちを一気に抜き去って、今の今まで。目が見えず道端に座り込んで物乞いをしていたバルティマイが神の国に進む道の先に立ったのです。なんと痛快な真理でしょうか。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、マルコの福音書の一つの大きなセクションの締めくくりの部分を学びました。一人の目が見えない物乞いの話でしたが、そこにどれほどダイナミックな神の国の真理が隠されていることでしょうか。今日、学ぶことができたのは、そのほんの一部に過ぎません。どうぞ、聖霊なる神が私たち一人一人に、引き続き、この「人にはできない、しかし、神にはできる。」「先の者が後に、後の者が先になる」という真理をもっと深く教えてくださり、謙ってその祝福に預かる者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
