「マルコの福音書を学ぶ」(46)

  • 2025-08-17 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ10:42-45
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(46)「贖いの代価」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

⒈ 本日のテキストの展開

今日の聖書の個所は、まさにマルコの福音書全体の“おへそ”にあたる部分です。昔から多くの人々によって、マルコ福音書の鍵聖句と言われてきた45節を含んでいるからです。

今日は、これまでの流れを省略のして、いきなり本題に入っていきたいと考えています。42節から45節までの短い4ヶ節の中から、三つのキーワードを選んで、お話ししていきたいと思います。

一つ目は、「仕えるしもべ」です。そのままの形では出て来ませんが、42節の「仕える者」と43節の「しもべ」をドッキングさせた言葉です。これは、マルコの福音書を一貫して流れる「イエスとは誰か?」というテーマに対する一つの答えです。

二つ目は、「贖いの代価」という45節に出て来ることばです。これは、「イエス様の死が何であったのか?」という問いに対する答えです。

三つめは、「~たいと思う者は」です。43節と44節から取っています。これは、私たちの願いについて光を当てている言葉です。

それでは、この三つの言葉を一つ一つ見ていきたいと思います。

Ⅰ 仕えるしもべ

A 反面教師の提示

先週扱いましたヤコブとヨハネ兄弟による他の弟子たちを出し抜いてのポスト要求に対して、他の弟子たちは腹を立てました。42節は、その展開を受けてのイエス様の反応が記されています。

イエス様は、まず、ご自分に従って来る者たちがそうあってはならない、反面教師を示すところから始めます。それは、異邦人の支配者の姿です。彼らは横柄にふるまい、権力をふるっているのです。

そして43節でイエス様は、「あなたがたの間では、そうであってはなりません。」と明確にこのような生き方を否定されました。そして、その代わりに、「こういう人になりなさい」という姿を43節と44節でほぼ同じことを繰り返しておっしゃいました。それだけ、重要だということを印象付けたいのでしょう。

B イエスとは何者か

43節では、「皆に仕える者になりなさい。」44節では、「皆のしもべになりなさい。」です。この二つを組み合わせた「仕えるしもべ」は、マルコが描き出すイエス様の姿の本質です。マルコには系図がありません。クリスマスの物語もありません。系図や誕生物語は、王には相応しいでしょうが、「仕えるしもべ」には必要ありません。マルコには、マタイやヨハネにある人の心に強烈な印象を残す説教はありません。ルカにある美しいたとえ話もありません。仕えるしもべは、情緒に訴えることも似つかわしくはないのです。

マルコが描くイエス様は、ひたすら必要のあるところに飛び歩き、病をいやし、悪霊を追い出し、「神の国は近づいた」という福音を語る、仕えるイエス、働くイエス、奉仕するイエスです。

C 私たちへの挑戦

そして、これまで繰り返し、何度も見てきていますが、側近の12人のお弟子さんたちでさえ、そのようなイエス様のお心を、少なくともこの時点では全く理解していないのです。いや、むしろ、正反対の思惑をもってイエス様についてきているのです。そして、もうすぐ、エルサレムに到着してしまうのです。人生ゲームに例えるならば、イエス様は、ゴールが目前なのに家族も増えていない、お金も無一文状態といった感じです。

現在世界には約80億の人間が住んでいます。様々な宗教や民族や国家や同盟があり、それらが覇権争いをしています。宗教は違っても、民族は違っても、国家は違っても、80億に共通していることがあります。それは、マウントを取りたいという願望です。それに失敗して他人にマウントを取られてしまうと、ごく少数の勝ち組に仕えるみじめなしもべに成り下がってしまうから、という考えで共通しています。

しかし、イエス・キリストはそのような21世紀を生きるすべての人々に大きな挑戦をなげかけます。「仕えるしもべ」になりなさい。そんなことをしたら負け組になってしまう、と多くの人が反対するでしょう。しかし、イエス・キリストは、「仕えるしもべ」となる道ここそが、真の祝福の道であると言われるのです。そして、私たちは、みな、この真理のみことばに招かれているのです。

Ⅱ 贖いの代価

次に、「贖いの代価」ということばに注目したいと思います。

A ことばの問題

まず、このことばの原語と訳語について少し触れておきたいと思います。原語のギリシャ語は「リュトゥロン」ということばです。これは、このマルコ10:45とそのマタイの並行箇所の20:28の二か所にしか新約聖書の中では使われておりません。このギリシャ語の一般的な意味は、戦争捕虜や奴隷の自由を買い戻すための身代金を現わします。

日本語の他の約では、新共同訳や聖書協会共同訳は「身代金」、文語訳やフランシスコ会約は「あがない」、塚本虎二訳は「あがない金」となっております。

ここで大切なことがいくつかあります。

B このことばの重要性

一つは、序でも少し触れましたが、このところで初めて、イエス様は、ご自分の死の意味、あるいは目的について語られた、ということです。ここまでのところで3回、イエス様は、ご自分が殺されることと、死んだ後三日目に甦るということを予告されました。しかし、そのどれにも、なぜ殺されるのか、なぜ死ぬのか、死ななければならないのか、ということには触れてこられませんでした。ここで、はじめて、そのことを明らかにされたのです。

マルコによる福音書は、現存する最初に書かれた福音書だと言われています。そのマルコで、ここで初めてこの奥義が開陳されたのですから、これは、驚くべき記念の聖句なのです。マルコがここに、そのことを書き記したことによって、後の人類は、どんなに時代が流れても、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から開放してくださるために、ご自分のいのちを贖いの代価として、身代金としてお捧げになった、ということを読んで知ることができるようになったのです。これは、人類が知るべきあらゆる知識の中で、最も大切なことです。

C 旧約聖書でのモチーフ

二つ目に、「贖いの代価」「身代金」ということばが、旧約聖書ではどのように使われてきたかを簡単に確認しておきたいと思います。三つあります。

⒈ 出エジプト記 ―身代わりの小羊-

一つ目は、出エジプトに関係するモチーフです。エジプト大帝国の中で奴隷としてこき使われていた弱小民族であったイスラエルが、エジプトに降った10の災いの後、モーセに率いられて紅海を渡って大脱出を果たします。この時、最後の10個目の災いとしてエジプトに下ったのは、人間から家畜に至るまで初子として生まれたものが皆、御使いによって打たれて殺される、というものでした。しかし、イスラエスの民たちは、事前に与えらえていた指示に従って、家族ごとに一匹の小羊を屠り、その血を、家の二本の柱と鴨井に塗り付けてておくと、御使いがやってきたときにその血を見て、その家には入っていかず過越したのです。イスラエル人の各家庭の初子が打たれる身代わりに、小羊が血を流した。その血に免じてイスラエル人は打たれなかった。小羊の犠牲のゆえに、イスラエルが助けられたのです。これは、身代わりのモチーフです。

第一ペテロ3章18節にこうありあます。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」イエス様が身代わりの小羊となるためにエルサレムに向かって行かれます。

⒉ ルツ記 ―土地の買い戻し金-

二つ目は、ルツ記に出て来るモチーフです。人手に渡ってしまった土地を、近親者がお金を払って買い戻す、という土地に関するシステムに関係しています。血筋的に一番近い者に買い戻しの権利があり、その人がそれを放棄すると二番目に近い人にその権利が譲渡されます。一旦、他人の所有となってしまったものを相当のお金を支払って、もう一度自分のものとして取り戻す。それを自力ではできないので、近親者が払ってくれる、という性質のお金のことです。

私たちはもともと神の子として自由を享受する存在であったのに、罪の縄目に縛られた奴隷に成り下がってしまいました。イエス様は、ご自身のいのちという買い戻し金で私たちを、もう一度神の子に、自由の子にしてくださるのです。

⒊ ホセア書 ―人を解放する身受け金-

三つめは、ホセア書に出て来る遊女の身受け金のモチーフです。預言者ホセアの妻ごメルは、たびたび自ら身を持ち崩し遊女になり下がりますが、主はホセアに対してその妻を買い戻すように命じます。

ホセア書3章を1節から3節までお読みします。旧約聖書1537頁です。

は私に言われた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、が愛しているように。』」それで私は、銀15シェケルと大麦1ホメルと大麦1レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまりなさい。私も、あなたにとどまろう。』

1節の2行目にある「夫に愛されていながら姦通している女」とは、直接的にはホセアの妻ゴメルのことを指していますが、本当は私たちのことを言っています。続いて、「ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子ら」という表現が出てきますが、これも、エデンの園でのアダムとエバのように神様の警告を無視し、自分の見たいものを見、食べたいものを食べると幸せになれると思って生きている私たち罪人の姿です。

 神様は、預言者ホセアにその姦淫の妻ゴメルをもう一度自由の身にするために、身受け金として銀15シェケルと大麦1ホメルと大麦1レテクをもって、買い取るように命じました。これは、当時の奴隷一人分の値段だっただろうと言われております。

 イエス様はイスカリオテのユダによって、銀貨30枚というやはり奴隷一人分の値段で売り渡されましたが、イエス様が流された血、イエス様がお捧げになった神の独り子の罪のない尊い命によって、全時代の全人類の身代金がすでに払われたとマルコの10:45は述べているのです。これこそが福音です。良い知らせです。

 ここまで、旧約聖書から3つの「贖いの代価」を見てきましたが、イエス様は、この3つのすべての意味を兼ね備えた贖い主でおられます。この3つを足し合わせても、掛け合わせてもまったく、及びもつかないほど素晴らしい私たちの罪からの贖い主です。

Ⅲ ~たいと思う者は

A 玉石混淆の願い

大きな3つ目として取り上げたいのは「~たいと思う者は」という言葉です。これは少し取り扱いが厄介です。なぜなら、たとえばマルコで言うと8章24節にある「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」のように、良いことを願っていると言い切れないからです。「偉くなりたい」「先頭にたちたい」という思い、願いは、「仕える者になりなさい」「しもべになりなさい」とは、方向性が逆です。

しかし、少なくともイエス様は、「そんなこと考えるからダメなんだ。」「まず、その考えを捨てて出直して来い!」と、頭ごなしに否定されることはありませんでした。

偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」「先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」と、これらの願いを受け入れておられます。

もし、「動機まで含めて、願いに正しくない要素が入っているから弟子にしません」という方針をイエス様が取っていたなら、そもそも誰一人弟子になることはできなかったでしょう。網も、家族も、舟も、雇人も、過去も現在も未来もすべて捨ててイエス様に従ってきたと自覚している人々の心の中にさえ、実は「他人より偉くなりたい」「他人より先頭に立ちたい」という動機が混入していたわけです。

B 願いをきよめる主 -ダビデの例-

イエス様は、玉石混淆の願いを受け止めて、それを神様から見て更によい願いにきよめてくださる方です。旧約聖書から一つの例を引きましょう。ダビデは、自分で主の宮を建てたいというより願いを持っていました。しかし、それを神様に打ち明けたところ、神様は、「あなたがわたしのために家を建てるのではない。わたしがあなたのために一つの家を建てる。そして、あなたの息子の一人がわたしのために一つの家を建てる。そしてわたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」とおっしゃいました。

 それを聞いてダビデは腐りませんでした。「僕チンの良い願いをどうして遂げさせてくれないのですか。どうして私ではなく、私の息子なのですか?」と言って膨れなかったのです。むしろ、謙って、「神、主よ、私は何者なのでしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたがここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さいことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はやか先のことまで告げてくださいました。」といって、神様に感謝しました。

ダビデは、自分の良い願いがそのまま神に受けれられなかったことによって、むしろその願いがもっと良きものへときよめられたのです。神様は、私の願いを受け取って、しかし、そのままではなく、神のみこころを示して、私たちの願いが更に良いものへときよめれるように導かれるお方です。

この主に、今週もお従いして参りましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、マルコの福音書の一番大切な鍵聖句と呼ばれるところを学びました。イエス様は、ご自分のいのちを私たちが罪から開放されるための贖いの代価として与えてくださいました。その永遠の事実のゆえに、私たちは父なる神からは罪赦されたた者として扱われ、悪魔からは、その奴隷のくびきつないでおく力が及ばない者とされました。それは、イエス様が示されたように、「仕えるしもべ」となるためでした。そして、「仕えるしもべ」となることを本当に願う幸いへと私たちの祈りと願いをきよめてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。