- 2025-08-10 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ10:31-41
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(45)「先立って行くイエス」
- 説教者 山田誠路牧師
序
⒈ 本日のテキストの展開
今日選びました聖書の箇所は、イエス様と弟子たち一行の旅程ついて短くコメントするところから始まります。32節に「さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。」とあります。振り返りますと、9章27節でイエス様は、ガリラヤを離れてピリポ・カイサリア地方への旅に弟子たちを伴って出かけられました。その途中で弟子たちを代表するペテロの口から「あなたはキリストです」という信仰告白を引き出します。その言葉を待って初めてイエス様は弟子たちに「自分は殺される、しかし、三日後によみがえらなければならない。」と、受難と復活の予告をされました。
続いて10章2節から、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネの内弟子三人だけを連れて高い山に登られました。伝統的にはこの山は万年雪をたたえた、ヨルダン川の水源地であるヘルモン山だと言われています。その山の上で、衣が非常に白く輝いたという「変貌山」の出来事があり、公生涯のスタートの時に洗礼者ヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けた際に聞いた「これはわたしの愛する子。」という天からの声が、ここで再びありました。
マラソンで言うと、ここが折返し地点です。これ以降、イエス様の行く先はエルサレムに定められます。それは度重なる受難・復活予告によって明らかです。
前回まで続いていた「金持ちの青年」の本編と続編にようやくけりがついて、一路、エルサレムを目指してイエス様は進んでいかれます。もうガリラヤに、カペナウムに戻ることはありません。
今日はこのところから、わが心定まれり、というイエス様と、まだ大切なことを悟らず頓珍漢なことしかできない弟子たちの様子を比較対照しながら私たちが汲み取るべき大切なことを学んでいきたいと願っております。
本日のポイントとしては、
Ⅰ 弟子たちの揺れる心
Ⅱ イエス様の委ねた心
この2点でお話をしていきたいと思います。
それでは、さっそく、最初のポイントに入っていきます。
Ⅰ 弟子たちの揺れる心
A 驚きと恐れ
⒈ 感情とそれを抱いた人々
先週の締めくくりに出てきた非常に印象的なことばを覚えていらっしゃるでしょうか。「先の者が後になり、後の者が先になる」というお言葉でした。今日のところでは、32節の二文目に「イエスは弟子たちの先に立って行かれた。」という、これまたとても印象的な表現があります。イエス様は殺されるために、すなわち自分が一番失う最後の者となるために、先頭を切って進んで行かれるのです。このイエス様のお姿、あるいは表情を見て弟子たちは、「驚いた」と書いてあります。
日本語の訳では、「弟子たちは驚き」というのと、その次に「ついて行く人たちは恐れを覚えた」と分けて書いてあります。より身近な弟子たちは「驚き」という感情をいだき、その他のもっと大勢の取り巻きたちは「恐れ」という感情を抱いたというような、イエス様との距離によって「より近い人たちは驚き」、「さほど近くない人たちは恐れ」というような解釈が可能に思えます。しかし、原語では、最初の方に特に「弟子たち」という主語は明記されていません。動詞の変化形から主語がtheyだとわかるだけです。ですから、私は、ここはひとくくりにして、直弟子も、その他の一行に含まれる取り巻きの人々も、区別なく、「驚き」と「恐れ」の感情を抱いたのだと受け取りたいと思います。
⒉ 感情の背景
彼らが抱いた「驚きと恐れ」という感情は、どうして出てきたのでしょう。それは、彼らがこれから先、イエス様と自分たちを待ち受けていることをある程度理解していたからです。三度目の受難・復活の予告がこの直後になされますので、この時点では、彼らは二回、イエス様の口からはっきりと「自分は祭司長、律法学者たちの手に渡され、殺される」ということを聞いています。聞きたくない言葉ですから、どれほど、心に留まったかはわかりません。
話しが脱線しますが、私はこのごろ物忘れがひどくなってきたと自覚しています。しかし、よく考えてみると、忘れてしまうことにムラがあることに気づきます。妻に、「これやっといてね」と言われることは、4分の3くらい忘れてしまいます。先日も、妻が仕事に行き、私が一日家にいる日があって、「今日はごみの日だから、朝ごはんのゴミ出たら、一緒にして出してね」と言われたのに、ケロっと忘れてしまいました。しかし、自分のやりたいことはちゃんと覚えています。「人間の脳は、聞きたいことだけを聞く」とよく言われますが、もう少し正確に言うと、「一応すべて耳に入ってくるけれども、聞きたいことだけが心の残る」ということだと思います。
弟子たちは、イエス様のことばのすべてを理解できているわけではありませんが、それでもイエス様が語れる言葉から不吉なものを感じ取っていたことも事実でしょう。聞きたくない事柄ですから、無意識の中で記憶に留まらないようになっているですが、先立ってゆくイエス様の姿とその表情ににじむ覚悟のようなものを目にして、自分たちも無関係ではないと察知して「驚きと恐れ」の感情が出てきたのでしょう。ですから、この感情は、中途半端にわかっていて、でも、良くはわかっていないというころから出てきている感情だと言えます。
⒊ イエス様の更なる導き
そこでイエス様は、すかさず次の一手を打たれます。イエス様は再び十二人をそばに呼んで、33節から、第三回目の受難・復活の予告をされます。第一回目は、8章31節。先ほども言いました、ペテロの信仰告白の直後です。二回目は9章31節。変貌山の麓から本拠地カペナウムに戻る途中のことでした。今回が三回目ですが、一回目、二回目と比べると、いくつかの新しい情報が加わっています。
一つ目は、はじめて「エルサレム」という地名が明言されるということ。二つ目は、「異邦人に引き渡される」「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。」と直接イエスに手を下すのは、異邦人だということが明かされること。そして、死に至る直前に受ける辱めが具体的に言及されていることです。
また、今日の説教の主題とは直接は関係ありまえせんが、三回とも、受難だけの予告ではなく、必ず「人と子は三日後によみがえります。」と復活の予告とセットになっていることも指摘しておきたいと思います。
イエス様の公生涯の活動範囲の最北端に近いところでなされた第一回目の予告から、距離的にも、時間的も近づいてきているので、イエス様のおことばにも具体性が増しているのでしょう。
B 自分ファーストの願い
⒈ ヤコブ、ヨハネとペテロとの関係
弟子たちが現わした二つ目の感情というか反応は、今流行りの言葉をもじると「自分ファースト」ということです。35節から、ゼベダイの息子たちヤコブとヨハネが登場します。この二人は、ペテロとその兄弟アンデレがイエス様の弟子になった数分後に同じガリラヤ湖のカぺナウムの岸で弟子になった兄弟です。二組の兄弟で四人いるわけですが、どういうわけだか、アンデレだけ仲間はずれで、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が特別な超側近として、これまでイエス様のわきを固めてきました。なんといっても目立つのはペテロです。褒められる場合も、叱られる場合も、だれより素早く真っ先に反応し、しゃべり、行動します。
けれども、今回はそのペテロを差し置いて、ヤコブとヨハネが出張ってきました。隣通しで網を打っていたり繕っていたりした中ですから、幼馴染だったのではないかと想像できます。
しかし、それでも微妙な差があります。彼らがイエス様に従うときに捨てたとされるもののリストに差があります。マルコの1章18節を見ると、ペテロとアンデレが捨てたものとして書かれているのは「網」だけです。一方、同じ1章の20節を見ると、ヤコブとヨハネが残していったものには、「父ゼベダイ、雇人、舟」と書いてあります。ペテロとアンデレは一介の漁師に過ぎなかったけれども、ヤコブとヨハネは網元のお坊ちゃまたちだった可能性が高いです。
三度目の受難・復活予告を聞いて、いよいよエルサレムに乗り込んでいく日が近くなっていることを意識して、ヤコブとヨハネは、これまでいつもペテロに先を越されていたのを、一気に逆転するチャンスと見たのか、すごいお願いを思い切ってイエス様にします。
⒉ ヤコブ、ヨハネの願い
37節「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」というのです。
まずは、「あなたが栄光をお受けになるとき」という言葉は何を意味しているのでしょうか。それは、ヤコブとヨハネが、イエス様と自分たち一行がエルサレムに上っていくのは、イエス様がローマの圧政を覆してユダヤ人の王となるためだ、と思っていたことの現れです。
その日がやってきた暁には、一番大切なもとは、自分が王イエスの側近としてどのポストを手に入れられるか、ということだったのです。ですから、ここはヤコブとヨハネにとっては、勝負所でした。一世一代の勇気と瞬発力、あるいは兄弟の協力によって、ペテロを出し抜くことが必要でした。そして、王の側近としてナンバーワンのポストとナンバー・ツーのポストを自分たち兄弟に約束してください、というズーズーしいお願いをしました。
⒊ 相矛盾する感情
しかし、皆さんの中に、なんとなくここまでの流れに違和感を持つ方もいるのではないかと思います。先ほどは、「驚きと恐れ」という不吉なものをキャッチしたときの感情がわき起ってきたのに、どうして、こんなにあからさまに能天気な要求をできたのか。しかも、前提としてイエス様がユダヤ人の王になると想定しているわけで、三度もイエス様自ら明言された「自分は殺される」ということと真っ向矛盾するのに、と思われないでしょうか。私も、そのような疑問を抱いてしまう一人です。
しかし、結論から申し上げると、それが人間という生き物だと思います。私たちは必ずしも合理的に感情をコントロールできるわけではありません。英語の表現に Ihave mixed feelings.というのがあります。直訳すると「複雑な気持ちです」となりますが、心の中に相矛盾する複数の感情が同居する状態です。遅刻ばかりしてくる恋人に「ふざけんな!」という感情と「このだらしなさがまたステキ!」という思いの両方があったりするようなものです。そのような感情は、どうぞお好きに、という感じですが、そうも言っていられない場合もあります。
今回は、もっとシリアスな状況です。一方では殺されるシナリオ。もう片方は、王座に就き、ナンバーワン、ナンバー・ツーのポストを分け合うというシナリオ。まったく相容れません。しかし、これが私たち愚かな人間の真の姿ではないでしょうか。なんとなく危険は察知している、でももう半分の自分は、なんとなく信じている、あるいは信じたいシナリオにそって進んでいく。80年前に終わった戦争に突入していった日本もそうだったかもしれません。そして、私たちの日常も、同じような要素があるのではないかと思います。
Ⅱ イエス様の委ねた心
このようなmixed feelingsを持つ弟子たちにイエス様はどのように接しられたでしょうか。これから簡単に五つのイエス様の姿をピックアップしていきたいと思います。
A 教えようとされるイエス
一つには、イエス様はあきらめずに教えようとされました。ここ最近何回かの説教に共通している要素は、弟子たちの不理解です。何度イエス様に教えられても、自分ファーストの基本的立ち位置から降りられないでいる弟子たち。どんなに語られても、イエス様の受難と復活のお言葉が心に入っていかない弟子たち。「先の者が後に、後の者が先に」という神の国の真理を語られても、エルサレムに先頭に立って進んでいくイエス様の姿を見ても、我先にポジションを取りに行く弟子たちに対して、イエス様は三度目の受難・復活予告をされました。
今、語っても全部はわからないかもしれない。けれども、今語っておく。やがてわかる日が来る。わかる日は、わからないときに何度も何度も語ったことのゆえにやってくるものです。まだ「アブ、アブ」しかしゃべれ来赤ちゃんに対して、あふれるばかりに語り続ける結果、やがて、赤ちゃんは少しずつ、片言からしゃべり始めるのです。今は、わからないからと言って語りかけなければ、わかる日、しゃべれる日は永遠に来ません。
B 聞いてくださるイエス
二つ目は、聞いてくださるイエス様です。ヤコブとヨハネのイエス様へのアプローチをもう一度丁寧に見ていきましょう。25節で、彼らは「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」と言って来ました。いきなり要件を口にしたのではなく、手順を踏んでいる形です。それに対して、イエス様は、「何をしてほしいのですか。」と聞いてくださいました。「どうせ良からぬことを企んでいるんだろう。」「どうせお前たちの考えていることはお見通しだ。」などと言って、根っから否定するのではなく、悪い願いであっても、的外れな願いであっても、イエス様は私たちの願いを私たちの口にすることを促されます。人の願いは、表に出た方がよいのです。内にくすぶっていると、発酵したり、根腐れを起こしたり、ろくなことはありません。
それに対して、私たちの願いをイエス様の前に持ち出すとき、それがどのような願いであっても、それに光が当てられ、神様がことをお始めになります。
C 問うてくださるイエス
三つめは、問うてくださるイエス様です。38節の後半をご覧ください。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」と問うてくださいました。弟子たちはこの質問の趣旨を正確に理解することは、この時点では望むべくもありませんでした。そして、滑稽な誤解を露呈します。イエス様が言われる「わたしが飲む杯」とは、十字架で味わうことになる苦しみ、苦杯のことでしたが、弟子たちはエルサレム入京後、イエス様が王座に、自分たちはそれぞれ大臣のポストについた暁にあげる祝杯のことだと勘違いしていました。しかし、このイエス様が問うてくださったこと、自分たちがまったく的外れな答えをしたことの記憶が、やがて彼らの回復の下地となっていったのです。
D 受け入れるイエス
四つ目は行け入れるイエス様です。二人は39節「できます」と堂々と答えます。するとイエス様は、なんとその頓珍漢な返答を否定されないのです。私たなら、思いっきり否定したかもしれません。「オイ、ヤコブ、オマエは、できると言ったが、できやしないよ。」そればかりか、これまで語ってきた「仕えるものとなること」も、「先の者が後になること」も理解すらしていない。「お話しにならい!」と切り捨てるかもしれません。しかし、イエス様は、なんと優しい方でしょうか。39節後半でこうおっしゃっています。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」とお答えになりました。
実は、この時点から数年後、ヤコブは使徒たちの中で最初の殉教者として、ヘロデに首をはねられて命を落とすことになります。ヨハネは反対に、他の弟子たちと違って、殉教から守られ続けますが、逆にパトモス島に島流しにされたり、耐えがたき苦難をなめることになります。イエス様は、目下の自分ファーストの妄想に基づく愚かな「できます」という返事を却下せず、ずっと後になって、彼らが受けることになる杯とバプテスマを思い浮かべて、その答えを受けられたのです。
E 委ねるイエス
そして最後に、イエス様はすこし不思議なことを言われました。40節、「しかし、わたしの右と左に座ることは、私が許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」というところです。最後の「それは備えられた人たちに与えられるのです。」という主語を明示しない受け身の表現は、「神が決める」という婉曲表現だそうです。イエス様は三位一体の神の一角を担う子なる神であり、父なる神との間に優劣はないというのがキリスト教の神理解の基本にあります。しかし、人として歩んでおられるイエス様にとって、自分の役割でない部分は、「自分が、自分が!」としゃしゃり出るのではなくて、父なる神様に委ねるという態度をここで示しておられます。
これも、自分ファーストを露呈している弟子たちの姿とは正反対の姿です。その姿をも、イエス様は、今は理解できない、今のそのように歩めない弟子たちに、やがての日のために示してくださったのでしょう。
まとめ
まとめたいと思います。今日ご一緒にお読みしましたところでは、弟子たちの感情・行動は首尾一貫せず、矛盾した要素が入り乱れて出て来るところでした。半分わかっているから恐ろしい。しかし、自分の前にブラさがっている淡い期待も熟し始めているように見える。今を逃すと二度とチャンスは巡って来ないかもしれない。そこで厚顔無恥に自分ファーストという、イエス様の歩み方と正反対の願いを堂々と言ってしまう。
しかし、それに対してイエス様は、基本的に受け入れ、わからないのを承知で語り、今はできないのがわかっていて、やがて通る道を含みに入れて答えておられる。そして、父なる神の前には、あくまでも自分ラストの姿勢を貫かれる。
今日は、このイエス様の姿に私たちの救いを見出したいと思います。10章27節のお言葉、「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」とイエス様がおっしゃったお言葉をもう一度思い起こしましょう。イエス様にはできる、その姿を見ることが私たちの救いの第一歩です。そこに、私たちの望みのすべてが掛かっているのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様が三度目の受難・復活予告をされたところ。そして、ヤコブとヨハネが重要ポストを要求したところを学びました。まことに私たちは、愚かな者です。自分の見たくないことは見ず、聞きたくないことは馬耳東風です。そして要求ばかりが立派です。しかし、イエス様はそのような私たちをも受け入れ、問い返し、長い目をもって、導いてくださるお方です。どうぞ、私たちが、そのようなイエス様を私たちの望み、慰め、力とすることができますようにお導きください。8月のど真ん中、15年戦争の終戦・敗戦の記念の日に進んでいく私たちの歩みに、あなたの知恵と諭しを与えてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
