「マルコの福音書を学ぶ」(44)

  • 2025-08-03 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ10:28-31
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(44)「大逆転の福音」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

⒈ 今日のテキストの展開

 ここ数回聖書の箇所を割と細かめに区切るようになっていますが、今朝の箇所は、まだ大きく言うと10章17節から始まった「金持ちの青年」の話の続きです。この金持ちの青年本人はすでに22節で立ち去ってしまったのですが、残ったイエス様と弟子たちのやり取りが続いているのです。

前回は、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」また、「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」とイエス様が言われたところを学びました。今日のところは、ここまでのやり取りを見ていたペテロが黙っていられなくなって、ついに言ってしまったところです。

なんと言ってしまったかというと、28節「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」です。

ここまでの発言内容ですと特に問題はないのですが、実は、マタイの福音書の並行記事を見ると、ペテロはやってしまっているのですね。マルコが記している言葉に加えて、「それで、私たちは何がいただけるのでしょうか。」と言ってしまっているのです。事実は一つだとすると、実際にはペテロはここまで言ってしまったのが、真相で、マタイはそのまま書き、マルコはその部分はあえて書かなかったということでしょう。

本来、この「それで、私たちは何がいただけるのでしょうか。」は非常に重要なことを露呈した爆弾発言なのですが、マルコは、福音書を書いていくなかで、その問題をここではあえて取り上げない方針を取ったのでしょう。

「本当は、オマエたちはまだ捨ててないものがある。」とか、「何かをもらえると思って、あるいは何かをもらうために捨てたのなら、それは本当に捨てたことにならない。」だとかといった、弟子たちの内面にここで切り込むことをイエス様はなさいませんでした。むしろ、弟子たちを代表してペテロが言ったことを、そのまま受けて、その報いをイエス様は口にされました。今日は、そのイエス様は口にされた報いの部分を共に学んでいきたいと願っております。

今日は、このところから説教題にも付けましたように、二つの大逆転を見ていきます。

Ⅰ 捨てた者こそが得る大逆転

Ⅱ 後先が入れ換わる大逆転

この2点でお話をしていきたいと思います。

それでは、さっそく、最初のポイントに入っていきます。

Ⅰ 捨てた者こそが得る大逆転

今日のテキストには二つの大逆転があります。一つ目は、捨てた者こそが得る大逆転です。

A 捨てたものと得るもの

イエス様のことばの中に出て来る「捨てたもの」のリストは、①家、②兄弟、③姉妹、④母、⑤父、⑥子ども、⑦畑となっています。家は、夜露をしのぎ、食事と睡眠をとり、安心できる場所です。兄弟から子どもまでは、最も近しい間柄の人々です。そして、畑は生きていく糧をえる手段です。どれも生きていく上でなくてはならない、最も大切なものです。ここで言われている“捨てる”とは、断捨離とはわけが違います。持ち過ぎた無くてよいもの、あってもよいがなくてもなんとかなるようなものを整理するのとは違います。人間にとって、それなしでは生きていけない者ばかりです。

それに対して、イエス様は、「今この世で、百倍を受ける」と言われました。この部分の解釈は、割とどの注解書も一致しています。母を一人捨てたら100人の母が後から与えられるというようなことは意味をなしません。また、多くの場合、肉親との関係が生きている間には修復されないことも実例としてたくさんあります。ですから、このところで言われている100番にして与えられるものとは、新しい家、新しい人間関係のことを意味していて、それは、キリストにある新しい交わりだ、というようにほとんどの人が解釈しております。わたしもそれでよいだろうと思います。

B 迫害とともに

しかし、短いながもここで聞き捨てならないことをイエス様はスッと入れ込んでおられます。それは、「迫害とともに」というところです。これは、ふぐを食べたければ毒もついてくる。毒が怖けりゃふぐは食べられないというような、良いものにどうしてもついてきてしまう嫌なもの、というニュアンスで受け止められるかもしれません。しかし、山上の説教でイエス様が言われたことも加えて考えてみたいと思います。

マタイ5:11には、こうあります。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいからです。」これは、もはや祝福の本体に不可避的にくっ付いてくる負の部分ではなく、毒を食らったときはじめて、最高においしい部分にありつける、というようなものです。よけて食べるようでは、絶品の珍味にありつくことはできない。毒ごと食べて、体がけいれんし、死にそうな目にあうことなしには、珍味を堪能できない。そのけいれんが激しいほど、珍味を堪能できる具合も最高度に増す、というような世界のようです。

C わたしのために

ここで、もう一つ注目しておきたい言葉があります。それは、29節の二行目に出て来るのですが、「わたしのために、また、福音のために」という言葉です。このイエス様が捨てたものに対する報いについて語っておられるところで見落とされがちですが、非常に大切な点はここにあるように思います。イエス様は、単純に、捨てたものが100倍になって返ってきますよ、というようなことをおっしゃっておられるのではありません。捨てればよいのではなくて、どうして捨てるに至ったか、その動機に光を当てておられるのです。イエス様のためなら何を捨てても惜しくはない、この福音のためなら何も犠牲とは思わないというほどの、イエス様との出会いが最も重要なことなのです。これがないならば、どんなに犠牲を払っても、それは、結局リターンを狙っての投資に過ぎません。「イエス様のためなら何を捨てても惜しくはない、この福音のためなら何も犠牲とは思わないというほどの」イエス様との出会いをして人は、ある意味、出会ったときに、もう祝福の本体はいただいているのです。

D 来たるべき世で永遠のいのち

イエス様が語られた失った者が得るものは、二部構成になっています。一つが、これまで見てきました部分ですが、これは、「今、この世で」です。もう一つは、「来たるべき世で」です。「今、この世で100倍、来るべき世で1000倍」というような量的拡大ではありません。この世で受けるもとは、異質なものが来るべき世では、用意されています。一言で言うと、どんなに時間がたってもなくならない、価値が目減りしないもの、それが永遠のいのちです。家なら、何十年、何百年たったら老朽化して立て直しが必要になるでしょう。親族、家族はどんなに大切でも、いつの日か死に別れが発生してきます。畑も、飢饉もあれば人手に渡ることもあるでしょう。しかし、永遠のいのちは、目減りせず、飽きも来ず、いつまでも変わらないものなのです。

Ⅱ 後先が入れ換わる大逆転

さて、それでは、大きな二つ目のポイントに入っていきたいと思います。それは、後先が入れ換わる大逆転ということです。これについては、まず、「何でないか」ということから考えていきたいと思います。 

A 何でないかー順番の逆転

なにかのイベントに一番いい席を取ろうと思って、一番乗りで会場前から並んでいたら、そこに並んでいるのは困ります、こちらの待合室でお待ちください。と案内された。ところがその待合室には、出入り口が一つで、いかも超満杯にその控室に人が詰め込まれた。いざ、開門となったら、一番後から来た人が真っ先に走って行って一番いい席をとり、一番先に来た自分は、一番最後に控室を出ることになり、会場に入った最後の一人となった。なんとことがあるかもしれません。

しかし、ここで言われていることは、単なる順番の逆転ではありません。今私が作って話した例で言うと、会場内の一番いい席がどこかということは、話の最初から最後まで、そしてすべての人々の共有理解として首尾一貫していて変更がありません。

むしろ、この例を使い回すならば、そのようにして、がっかりして、不満ぷんぷんで一番後ろに座った人、ラッキーと思って一番あとから来たのに、最前列に座った人がいたとして、いざ、開演すると、舞台と観客席の位置関係が逆転して、一番後ろこそ、最上の席だったというようなものです。

B 神の国の特徴のひとつ

また、指摘しておくべきこととして、この「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という表現は、福音書の中でイエス様が度々おっしゃったことで、神の国がどういうところかを表現する一つの定型文のようなものなのです。私たちは、イエス様が神の国がどのようにして表現されたかを思い浮かべるとき、二つのものが思い浮かぶと思います。一つは山上の説教、もう一つはたとえです。「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものです。」で始まる山上の説教。その中には、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。」という言葉もあります。また、たとえの中に、「ぶどう園で働く労働者のたとえ」があります。朝早くから、9時から、12時から、3時から、5時から働き始めた労働者がそれぞれいました。夕方になり、賃金が支払われる段になると、なんとさっき雇われてきたばかりのほんの少ししか働いていない5時からの人が真っ先に主人に呼ばれました。そして、朝一から働いていた人に約束されていた1デナリが支払われました。朝一から働いてきた者たちは、彼らが1デナリもらったのなら自分たちは、もっと多くもらえるだろうと思いながら、自分たちの順番を待ちましたが、支払われたのは約束どおりの1デナリでした。そこで、彼らは主人に不満を言いました。主人は、「不当はことはしていない。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」と言いました。このたとえは、イエス様の「このように後の者が先になり、先の者が後になります。」という言葉で締めくくられています。

これらに共通しているのは、神の国は、私たちがこの世で当たり前と思っていることがひっくり返っているところなんだということです。神の国は、この世で私たちが見ている景色がそのまま、第二部で展開する続きではない、大逆転が起こるのだ、ということです。

C 先の者、後の者とはだれか

① マタイ21:31

 今日ご一緒に読んでいるところからは離れますが、マタイ21章31節にこういうおことばがあります。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。これは、福音書全体でイエス様がおっしゃっていることを大変よく言い当てている言葉です。宗教熱心で、律法をだれよりも厳しく踏み行っているという自負をもっている当時の宗教家たちは、だれもよりも神の国に近い、神の国へつながる道の先頭を歩んでいるという自他共に認める感覚を持っていました。

それとは対照的に、取税人や遊女たちは、罪びとの代表格で、神の国から一番遠い存在だと、これも自他共に認めていました。それをイエス様は、まるっきりひっくり返して、「取税人たちや遊女たちが、宗教熱心な宗教家たちよりも先に神の国に入る」と宣言されました。これは、衝撃的なことでした。しかし、今日のテキストでは、この一般的な構図はそのままは当てはまりません。

② 今日のテキストでは

それでは、今日のテキストでは、先の者、神の国につながる道の先頭を歩いていると自覚している人は誰なのでしょうか。それは、ペテロを代表とする弟子たちです。ペテロをはじめとする弟子たちには、あの金持ちの青年ができなかった、全財産を捨ててイエス様に従うということを実際に自分たちはやってのけた。だから、先頭を走っている、という自覚がありました。

そして、今日のテキストで後にいる者とはだれのことでしょうか。それは、少し前に、弟子たちに「シー、シー。お前らの出る番じゃないぞ。」と門前払いされそうになった、子どもたちであり、もしかしたら、全財産を施す決断をすることができずに、あの暗い顔をして立ち去った金持ちの青年もその中に入っているかもしれません。

しかし、イエス様は、この絶対的有利に立っていると思われる弟子たちに向かって、あなた方先頭を走っていると思っている者たちが、後になります、というのがここでの趣旨です。

イエス様がおっしゃることはなんとダイナミックなことでしょうか。実際、この後の展開を少し先走りして見てしまうと、ゲッセマネの園でイエス様が逮捕されたとき、男の弟子たちは蜘蛛の子ちらすようにみんな逃げ去ってしまいました。ユダはそのときすでに銀貨30枚でイエス様を売り渡していました。ペテロは、やっとの思いで遠巻きについていきましたが、3度イエス様を「知らない」と裏切ってしまいました。

それに対して、女の弟子たちは、最後までイエス様の最後を十字架の足元で見届けましたし、お墓の場所も確認しました。サンヘドリンの議員でイエス様の弟子であることを隠していたアリマタヤのヨセフは、勇気を出してピラトにイエス様の遺体の下げ渡しを願いでました。ヨハネの福音書3章に出て来る有名なニコデモは、あの時は夜、だれにも見つからないようにお忍びでイエス様に会いに来ましたが、アリマタヤのヨセフと同様に、サンヘドリンの議員としての地位も惜しいは思わず、イエスを手厚く葬りました。

何もかも捨ててイエスに従い、一番弟子であると自他ともに認めていたペテロは、この時は先頭を走っていたつもりでしたが、あっという間に彼の眼中にもなかった多くの人々に追い抜かれていきました。持っていると思う者は失い、立っていると思っているものは、転ぶのです。

締めくくりの例話

最後にまた、野球の例話で今日のお話を締めくくりたいと思います。先週のビッグニュースの一つにイチローがアメリカの大リーグの野球殿堂入りをした受賞スピーチがありました。結構長い英語での感動的なスピーチでした。イチローはそのスピーチの中で次のように言いました。

「小さなことをコツコツと続ければ、達成できることに限界なんてない。私を見てください。身長は180cm弱、体重は77kgほど。アメリカに来たとき、たくさんの人が「メジャーの大柄な選手たちと比べて、細すぎる」と言っていました。最初にフィールドに立ったとき、私はそのレベルの高さに圧倒されました。でも、自分の信じる準備のやり方を貫けば、自分自身の疑いを含め、どんな疑いであっても乗り越えられる、そう信じていました。」

小さなことを長年、コツコツやり続けて誰も到達したことがない偉大な記録を打ち立てた、そしてそれが評価され、特別な栄誉ある賞を与えられた。これほどの充実感はないでしょう。しかし、私はこのイチローのスピーチに触れ、この「先の者が後になり、後の者が先になる」というイエス様のお言葉をこの一週間考えながら、一つの話を創作しました。

[創作話]

イチローには、高校時代、あるライバルがいた。身長も、肉付きも、運動神経も、バッティングセンスも何もかもイチローを上回っていた。しかし、不運にも、彼は、高校時代に不慮の事故に合い、野球ができないからだになってしまい、プロにもいかずに野球生命が終わってしまった。イチローは、知っていた。もし、彼にあの事故が襲わなかったなら、彼は自分よりの偉大な記録を残すプレーヤーになっていただろう。けれども彼は、プロで一本のヒットも打ったことはなく、だれも彼のことを知らない。イチローは、思った。彼は、どれほど、私のアメリカ野球殿堂入りの栄誉を見て、きっと、「もし、自分が事故に合わずにプレーしていれば、イチロー以上だったはずなのに」と悔しい思いをしていることだろう。しかし、それは杞憂に終わった。なんとイチローが受賞式から家に戻ると、携帯がなった。かけたきたのは、例の彼だった。そして、電話口の向こうで、イチローの受賞を涙と嗚咽で喜んでいる。しかも、イチローは一瞬にして確信した。小さな努力を長年コツコツを重ねて、偉大な記録を作り、それが評価され、栄誉ある賞を贈られた本人である自分よりも、彼はこのことを喜び、私の受賞によって、私以上に彼こそが幸せを感じているのだと。

神の国とは、このような喜びと幸せが満ちている国なのだとイエス様は言っておられるではないでしょうか。すべての後先が逆転している国。最も悲しみを経験した人こそが最も喜びと幸いを味わっている国。迫害を含めて、喜べないはずのことが最高の喜びの入り口となり、喜びの素材となり、最高のソースとなっている。そのすべての大逆転を起こしたのは、神の独り子、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかるという愛の奇跡をしてくださったからなのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ペテロが「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」と言ったことにイエス様が答えられたお言葉を学びました。「先の者が後に、後の者が先に」という言葉の中に、神の国の真理が凝縮されて現わされています。どうぞ、私たち一人一人の歩みが、イエス様の十字架の愛に触れられて、後も先の、捨てたことも得ることも、それらが私たちの意識の中心を占めるのではなく、イエス様の愛に応答していく生涯をたどるものとしてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。