- 2025-07-06 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ10:13-16
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(41)「神の国と子どもたち」
- 説教者 山田誠路牧師
導入 -今年のテキストの展開―
本日のテキストは短くて、比較的単純です。説教題は、「神の国と子どもたち」としました。まず、今朝は、マルコの福音書に登場する「子どもたち」について確認するところから初めて行きたいと思います。
子どもたち:
①ヤイロの娘:これまでもマルコの福音書には、たびたび子どもが登場してきています。ピックアップしますと、まず、5章22節からのところで会堂司ヤイロの娘が登場します。
②シリア・フェニキアの女の娘:次に、7章25節からのところで、シリア・フェニキア生まれの女の人の娘が出てきます。
③続いて9章17節のところから、てんかん持ちの息子が登場します。
④続いて9章36節からのところに、イエスに手を取って、真ん中に立たせられた一人の子どもが登場します。
⑤そして次に、9章42節から「わたしを信じるこの小さい者の一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」というところに「小さい者たち」が出てきます。ここでの「小さい者たち」とは、必ずしも年齢的なことを言っているとは限りませんが、それでも子どもたちも含まれると考えてよいでしょう。
⑥そして、今回のテキストに子どもたちが登場します。そして、マルコではこれが、子どもが登場する最後の場面となります。
弟子たちがしかった:
ここまで振り返ってお分かりになったかもしれませんが、実は、今朝のテキストはイエス様のところに子どもが連れて来られようとしてとき、周りの弟子たちがそれを阻止しようとした唯一のケースです。そして、それは、子どもに限定されず、大人でも、悪霊付きでも、病人でも、どんな種類の人も含めて、イエス様のところに連れてこられるときに、弟子たちがそれを邪魔しようとした唯一の記事です。
イエスは憤って
それに対してイエス様は厳しい態度を取られました。14節を見ると「イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。」とあります。「憤って」と、非常に強い言葉が使われています。子どもたちが自分のところに祝福を求めて連れて来られるのを妨げるという行為は、イエス様にとっては、我慢ならないことだったのです。それは、「今は目をつぶっておいて、やがてわかる日がくるだろう」と悠長に受け止めることができないものだったのです。それだけ、子どもたちがイエス様に触れていただくのを、邪魔することは緊急に対処することを要することだったのです。
ここまでを序論としてここから今朝の本論に入っていきたいと思います。ポイントとしては、説教題にも使いました「神の国」との関連で神の国は
Ⅰ 連れて来られるところ
Ⅱ このようなものたちのもの
Ⅲ 受け入れて入るところ
この3点でお話ししていきます。
それでは、さっそく、最初のポイントに入っていきます。
Ⅰ 連れて来られるところ
まず、学びたいことは、神の国は「連れて来られるところ」だということです。今、私は、今回のテキストは、だれかがイエス様のところに連れて来られるのを弟子たちが止めさせようとした唯一の記事だと申し上げました。しかし、この出来事には、もう一つ、唯一というか最初の要素があります。
⒈ 癒しではなく祝福のため
それは、いままで、イエス様のところに連れて来られていた人は、みな病人とか、悪霊につかれている人とか、障がいを持った人とかでした。今回初めて、癒してもらうためではなく、イエス様に触れていただくために連れて来られたという事例なのです。もちろん、触れていただくのは、16節でイエス様がされたように、手を置いて祈って祝福してもらうためです。
なんだか、私たちはイエス様のところに行く人は、大きな問題を抱えていて自分ではどうしようもない状況に陥っている人、というイメージをもっているように思います。そういう人が、イエス様のところに行けばいい。でも、普通にやっていて、健康で、何にも取りつかれてもいないし、仕事も家庭も順調だ、という人は、なかなかイエス様のところに来ようとしない。いっても手が届くほど近くではなく、いいとこ取りできる程度の距離を保って見物に行く、という感じではないかと思います。実に、現代でもそれが普通だと思います。
⒉ 普通の人が連れて来られると
しかし、ひょんなことから、そんな風に特に困っていない人でも、ふとしたきっかけからイエス様のところに連れて来られる、ということがあります。そして、連れて来られてイエス様と接しいるうちに、実は、自分には特に問題がない、順調だ、普通だと思っていたことがそうでもないのではないかという思いがしてくることがあります。
⒊ わたしの場合
私は高校二年生の時に、はじめて教会に足を踏み入れた時のことを今でもよく覚えています。当時、私は、すべてにおいて気力が蒸発して残っておらず、塩をかけられたナメクジのように消滅してしまいたい、というような精神状態でした。しかし、教会に足を踏み入れたときの第一印象は、「ここは、ヤバイところだ。もしかしたら何もかも持っていかれる。」でした。すべてが嫌になって、何も失って惜しいものなんてない、と思っていたはずなのに、「全部もっていかれるかも」というのは、まだまだ、自分は失いたくないものをたくさん抱えていることが一瞬にして炙りだされたのでした。
そして、教会にかよううちに、その自分が捨てられないで後生大事に抱えているものは、プライドであったり、欲望であり、それらが罪と名付けられるべきものであり、自分をガンジガラメニ縛っているものだと気づくことになるのです。そんな私は、「カレーライスたべにいらっしゃい」の一言で連れて来られた者だったのです。
⒋ もう一人のアンデレに
アンデレが自分の兄弟ペテロをイエス様のところに連れてきたように、ピリポが友達のナタナエルをイエス様のところに連れてきたように、私たちもだれか一人をイエス様のところにお連れする者となりたいと思います。
Ⅱ このようなものたちのもの
それでは、二つ目のポイントに進んでいきたいと思います。二つ目は、神の国は、「このようなものたちのもの」ということです。
⒈ =子どもたち
「このような者たち」というのは、「子どもたち」のことです。しかし、それでは、「子ども」「子どものように」とは一体、どのようなことを意味しているのでしょうか。
⒉ 子どものイメージ
「子ども」というものについての一般的なイメージを思いつく限り列挙したいと思います。たとえば①純粋・無垢、②無邪気、③素直、④疑わない、⑤好奇心旺盛、⑥吸収力が高い、⑦想像力がたくましい、⑧感情表現が豊か、⑨感受性が高い、⑩エネルギッシュ、⑪真似っこ、最後に一つネガティブなものを入れると⑫自己中心的などでしょうか。
大人になっても、これらのうちのいくつかが、良い形で残っていると「あの人は子どものように純真な人だ」などといって好かれたりもします。
⒊ “小さな者”シリーズ
今回、この聖書の文脈の中では、どういう意味で「子どものように」と言われているのでしょうか。それは、この話が、ここ数回続いているイエス様の「小さい者たちのうちの一人」シリーズに含まれていると考えると自ずと見てくると思います。この一連の教えは、9章34章に記されている、弟子たちが「来る途中、だれが一番偉いかを論じ合っていたからである。」のところにカギがあると思われます。
⒋ えばりんぼ
勿論、子どもの世界でも「だれが一番偉いか論争」はいつでもどこでもあります。むしろ、子どもたちの方がそれをあからさまにするかもしれません。昭和の時代、子どもたちが、親の自慢をするのに、A君「おれの父ちゃん部長なんだぞ。」B君「おれの父ちゃんなんか社長なんだぞ。」C君は自分のお父さんの社会的地位を誇れないと悟り、なにかお父さんの誇れるところを思いめぐらし、咄嗟に「俺の父ちゃんなんか出べそなんだぞ。」と言ったとかいう笑い話がありますよね。
この会話に登場する三人の子どものうち断トツで子どもらしさを発揮しているのは、C君でしょう。本来は誇れるはずのない「出べそ」という隠れた真実をとっさに持ち出してしまう懐の浅さというか裏表のなさ、のようなところ。大人はもっと巧妙に、言うことによっても、言わないことによっても自分の虚栄心を最大限満足させようとします。
⒌ 誰が一番偉いかの正反対
話しが少し逸れましたが、今回のテキストの文脈での「子どもらしさ」とは、「だれが一番偉いか」に一番こだわりのある心の正反対、と定義することができるかと思います。
①自分の功績
その正反対の心とはどんな心なのでしょうか。それは、自分の功績によって自分の価値を測ろうとしないということです。どのうちの子どもでも、学校で自分より勉強ができる子がいても、かけっこが早い子がいても、イケメンの子がいても、自分ちに帰れば親は自分を愛してくれているということを疑わずに当たり前だと思っています。もっと正確には、思っていることすらないほどにそれが当たり前です。自分の親は隣んちの子より勉強ができるから僕を愛してくれるのではない。あの家の子より足が速いからでも、イケメンだからでもない。ここんちの子どもだから愛してくれる。お父さんとお母さんの子どもだから愛してくれる。
こども時代の基本はここにあると思います。自分が成し遂げたこと、あるいは将来どれくらいのことを自分が成し遂げられそうだということを他人にアピールできる期待値のようなもので勝負していないのです。
②将来の期待値
聖書は、神の国にふさわしい人とは、自分の過去の功績、将来の期待値によって自分の価値を高め、確かめようとしない人なのです。
③相対的優劣
人に対しては、そのような相対的な優劣で自分を偉いと思うことには意味があるかもしれませんが、神様に対しては、そのようなことは一切無意味なのです。神様は、私たちに命を与え、使命を与え、空気を与え、太陽を与え、ありとあらゆるものを与えてくださるお方です。体力も、知力も、気力も、気づきも、出会いも、何もかも神様が定めて与えてくださっているものなのです。私たちに誇るものはなにもないのです。
Ⅲ. 受け入れて入るところ
さて、それでは最後3つ目のポイントに進んでいきたいと思います。三つめは、「神の国は受け入れることによって入るところ」だということです。今、一つ前の「このようなものたちのもの」という項目では、「子どもたち」の特徴について考えました。三番目もその延長線上にありますが、そういった「子どものように」という特質は、より具体的に天国への入国にはどのように関係してくるのでしょうか。
⒈ 子どものように受け入れて
それは、こちら側が「こどものように」天国を受け入れるのことによって天国に入っていくということです。このことについてしばらくご一緒に考えていきたいと思います。
⒉ 日本の社会では
日本の社会は、お受験からはじまり、中学入試、高校入試、大学入試、就活、その後の昇進や転職などのキャリア・アップは、要求されている条件を満たしているかどうかで合否を判断される仕組みになっています。受験では、合格ボーダー・ラインを一点でも超えられるかどうか。就職試験では、様々な資格、大学時代のアピールポイント、面接での対応力などが会社側のスペックに合うかどうかで判断されます。
ですから、学校に入る、会社に入いるのは、条件を満たして入るということです。映画館に入るのも、美術館に入るのも、テーマパークに入るのは、入場料を払った証しである入場券を示すことによって入っていきます。
しかし、神の国は誰一人としてそのようにして入ることはできない。それがここでイエス様がおっしゃりたい「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」の意味です。
だれも払えない神の国の入場料を私たち全員分、イエス様がすでに払ってくださったのです。それがイエス様の十字架の意味です。どうやって支払われたのでしょうか。ご自分の罪のない尊い血を惜しみなくこの地に流すことによってです。
⒊ 資本主義の社会では
資本主義の社会では、すべてのものに金銭価値が付けられ比較することと交換することが可能だという前提があります。しかし、実は、金銭でその価値を付けられないもの、他のものと比較出来ないもの、それほど尊いものがあります。
⒋ 太陽の恵みは“ただ”
太陽のことを考えてみましょう。地球上でありとあらゆる生物が使うエネルギーの大本はほとんどが太陽です。そして全人類が一年間で消費する総エネルギー量は、地球に降り注ぐ太陽エネルギーの一時間分で賄えるそうです。私たちのいのちを支える絶対的存在である太陽は、値段が付けられません。CO2排出量は値段が付けられ「J-クレジット」という名前で2023年から東京証券取引所に上場されていることを今回はじめて知りました。
しかし、太陽の恵みはあまりにも膨大で、絶対的で、どの国も、どの団体も、どんな連合も、どんな個人も所有権を主張できません。イーロン・マスクもトランプも太陽の所有権を主張し、太陽エネルギーに関税を課すことはできません。地球上のすべての人間は、みなただでその恵みに預かっているのです。
神様はその太陽をお造りになって、私たちにお与えになっておられる方です。イエス様も三位一体の神として、天地万物の創造に立ち会われました。その御子が人となり、この地上をあらゆる誘惑と苦痛と孤独に耐え抜き、罪を知らない尊い血を十字架上で流されたのです。その血潮の価値たるや、どんなことばをもってしても表現することはできません。
そのイエス様の尊い血によって、買われた神の国の入場券はただで私たち皆に渡されているのです。こどもは「はい、これキミに上げるよ」と言われたら、疑わずに手を伸ばして、受け取って自分のものとします。大人は、そう簡単にいきません。遠慮、プライド、猜疑心、いろんなものが邪魔をして、素直に受け取ることが難しいのです。
⒌ わたしは道、…開かれた門
ヨハネの福音書14章6節に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」というみ言葉あります。神の国は私たち一人一人が自分で入場料を払って、入場券を見せて入るところではないのです。十字架で流されたご自分の血によって払われた代価によって、どんな人でもそこを通れば何も持たずに入っていける一つの門を神の国に設けてくださったのです。その門には、開門、閉門時間はありません。年齢制限の所得制限も身体検査をありません。今も空いています。だれでもいつでもそこを通って入っていくことができます。ただし、こどものように、そこから入っていけると聞いたらそれを受け入れる人だけが入っていける門が、今も開かれています。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、「神の国と子どもたち」ということを学びました。自分が成し遂げた功績によって愛されるとは夢思っていない子どもたち。自分が愛されるのは、単純にお父さんとお母さんの子どもだからだ、という真理にそのまま憩っている子どもたち。私たちも、そのように単純に、神様がイエス様の十字架で示してくださった大きな大きなご愛を受け入れて生きるものとしてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
