- 2025-06-15 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ9:42-50
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(39)「火によって塩気を」
- 説教者 山田誠路牧師
導入 -今年のテキストの展開―
今日は、マルコの福音書に戻りまして9章の42節から9章の終わりの50節までを扱います。お気づきになったかもしれませんが、44節と46節がありません。この点について初めに触れておきますが、この44節、46節が含まれる聖書もあるにはあるのです。現在では、信頼できる写本には含まれていないということで、脚注に収められているという形になっています。
この2節を除きますと実質7ヶ節に過ぎないのですが、展開はなかなか複雑です。今回、何度も読み返し、祈りながら考えて一つの読み解くヒントのようなものが与えられました。それは、この箇所は、言ってみれば、首都圏の複雑な交通網、私鉄、JR、地下鉄が幾重にも重なって相互乗り入れしている路線を乗り換え、乗り換えして、やっと目的地にたどり着く旅のようなものです。では、順を追って見ていきたいと思います。
Ⅰ. 「小さいもの」線(42節)
1. これまでの「小さいもの」の延長線上
まず、42節を見ますと、「また、わたしを信じるこの小さいものたちの一人をつまずかせる者は」と始まっていきます。これは、明らかに、イエス様は、34節に書かれていた「だれが一番偉いか」論争をしていた弟子たちを諫めるために話された、36節の「一人のこども」、37節の「このような子どもの一人を」、38、39節の弟子ではないけれども悪霊を追い出していた名もなき人、41節の「一杯の水」など、一連の「小さなもの」の続きで持ち出されたことだとわかります。
⒉ つまずかせることの恐ろしさ
そして、イエス様の恐ろしい言葉が続きます。そういう人は、「むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」というのです。具体的に想像するとぞっとするような残忍なことです。続く部分の内容を考慮して解釈すると、こうなるでしょう。どんな小さな人でも、人一人をつまずかせるという罪を犯すなら、その罪ゆえに課される神様からの刑罰は耐えられるものではない。それよりは、人をつまずかせることはないまま、大きな石臼を首に結び付けられて溺れ死ぬ苦しみを味わうほうがまだましだ。
それほど、人をつまずかせる、すなわち一人の人が神様から祝福を受ける道を歩むことから故意に逸らせるようなことをすることは、恐ろしいことだ、とイエス様はおっしゃりたいのでしょう。
この「つまずかせる」ということばが引き込み線となって、次のセクションではまた別の路線に乗り入れて行きます。
Ⅱ 「つまずかせる…ほうがまし」線(43節~48節)
⒈ 繰り返し表現
次に43節から48節までの一区切りを見ていきたいと思います。読んでお分かりだと思いますが、43、45、47の3か説は、手、足、目というからだの部位を入れ替えてほぼ同じ文章が繰り返されます。
細かく見ますと、他の点もありますが、気になる違いと言えば、43節と45節は、「いのちに入る」となっているところが、47節では、「神の国に入る」となっているところでしょうか。しかし、この違いもある種の言い換え表現であり、実質は同じことを言っていると受け取ってもよいかと思われます。
⒉ 言いたいこと
では、このセクションはいったい何を言っているのでしょうか。手が、足が、目があなたをつまずかせるなら、言い換えるとあなたに罪を犯させる誘因となるなら、切り捨てるか、抉り出すかしなさい。そうして五体不満足になったからだで“いのち”にあるいは“神の国”に入るほうが、五体満足でゲヘナに落ちるよりは、ましだ、というのうのです。
①文字通りの解釈は不適切
まず、大前提として、この箇所は、文字通りに読むことはできない、ということを申し上げて置きたいと思います。すなわち、自分の手が万引きの罪を犯すなら手を切り捨て、自分の足がよからぬところに向いてしまうなら切り捨て、自分の目が見てはいけないものをむさぼり見てしまうなら目をえぐり出すということを実行せよ、というメッセージが込められているのではない、ということです。なぜなら、それは、解決にならないからです。手、足、目が罪を犯すのではありません。罪を犯させる本体は、心の中に巣くっているむさぼりです。むさぼりが心にあるから、そのように手、足、目が動くのです。手、足、目を切り捨てたり、抉り出しても、根本的な解決にはなりません。もし、それで神の国に入れるのなら、イエス様は、人となって地上に来られる必要はなく、十字架の死も無駄死にだったということになります。一人に一つずつ切れ味の鋭い鉈(ナタ)とナイフを用意すれば、みな道を間違わないで神の国にたどり着くことになってしまいます。ですから、このところは、どんなに聖書を文字通り守りたい人でも、文字通りの表面的な意味で解釈してはいけないところです。
②失ってよいものと失ってはいけないもの
それでは、何を意味しているのでしょうか。失ってよいものと絶対失ってはいけないものがある、ということだと申し上げたいと思います。私たちの人生は、ある意味失い続ける人生です。子どものころはありとあらゆる可能性を持っていて、少なくとも自分の空想の世界では、自分は努力すれば自分のなりたい自分になれる、と思っているかもしれません。しかし、時間と共に、だんだん自分の現実と折り合いをつけながら人生を辿っていくうちに、ほとんどの可能性を捨てて、一つの可能性を選択していきます。
また、私たちは、時間を失いながら生きていきます。私たちはいつまでこの地上でいきるのか、持ち時間はその時が来るまで誰にも正確にはわかりません。それでも、結果的に見れば、みな持ち時間を消化しながら、別の言い方をするならば、時間を失いながら生きていきます。どんなに充実して最高に使った時間も、使い捨てで、再利用はできません。
そして、老いの問題もあります。一年前までできていたことができなくなる、一か月前までできていたことができなくなる、昨日までできていたことができなくなる。そのように、老いの過程で、自分でできることを失っていきます。人生は、最後まで失うことの連続です。そして、最後に心臓が止まり、この物理的ないのちを失います。
しかし、その最後のものまで失っても失わないものが残ります。それが、43節と45節に出てくる“いのち”です。47節では“神の国”と言い換えられています。そして、ともに、“そこに入る”という表現になっています。けれども、決して空間や領域に入ることではありません。私たちが入ったり出たりすくことができるものがもう一つあります。それは、関係性です。“いのちに入る”“神の国に入る”とは、私たちが神様と正しい関係に入る、ということです。
そして、それこそが人が決して失ってはならい一番大切なものなのだ、とイエス様はおっしゃっているのです。何をなくしてもいい、何度なくしてもいい、しかし、神様との正しい関係だけは失ってはいけない。それ以外のものは、取り返しがいくらでも効く。でも、神様との正しい関係を損なったなら、それは、その他のすべてが整っていても、すべてを失ったことと同じなのだ、と語っているです。
⒊ 次の路線への伏線
この43節から48節までのセクションには、“ゲヘナ”という言葉が、すべての節に一回ずつ出てきます。ここで、少し、「ゲヘナ」ということばについて解説いたします。「ゲヘナ」ということばは、ヘブライ語で「谷」を意味する「ゲー」と「ヒンノム」という地名を合わせて、「ゲー・ヒンノーム」すなわち「ヒンノムの谷」という言葉が語源です。それは、エルサレムの南西を巡っている谷で、かつて、幼児を異教の神にささげる儀式が行われる場所でした。その恐るべき異教の習慣が行われていた場所であるゆえに、罪と恐怖の代名詞となっていました。ヨシヤというユダ王国で宗教改革を断行した王様の時代に、それらの儀式を禁止し、後にこの谷は、廃棄物、動物及び罪人の死体の焼却場となり、ウジ虫が死なず火が消えない様子から、地獄の同義語として使われるようになった、という経緯があります。
そして、43節には、「消えない火の中に落ちるより」とあり48節には「ゲヘナでは、彼らを食らうウジ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません」とあって、「火」が登場してきます。ゲヘナの火は、裁きの炎、破滅の炎です。
しかし、同じ「火」には、もう一つ不純物を取り除いて精錬する「清める炎」の働きもあります。この「火」の「清める働き」の方の要素が次の部分に引き継がれていきます。
Ⅲ 「火と塩」線
⒈ 火によって塩気を(49節)
次に49節をご覧ください。「人はみな、火によって塩気をつけられます」という短い一句です。これには、下敷きになっている旧約聖書のことばがあります。それは、穀物の捧げものについて規定したレビ記2章13節の言葉です。
「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて捧げなければならない。」
このレビ記1:13では「契約の塩」という言い方がされています。塩は神様との契約を確かなものとさせる特別なものでした。塩には、腐敗を防止し保存する働きがあるからでしょう。この旧約聖書の規定の「塩」の部分をイエス様は、「火」に置き換えて話をされたのです。「火」の精錬して清める働きが「塩」の「腐敗防止・保存」の働きと通じ合うからでしょう。
そして、このマルコの文脈から言うと、この塩味をつける「火」は、「手を切り捨てること」「足を切り捨てること」「目をえぐり出すこと」に相当します。一番失ってはいけないものを失わないために、それ以外を失う痛さ、苦しみ、試練です。
それによって、神様との契約が確かにされるのです。この場合の神様との契約とは、イエス様の十字架によって私たちが、“いのち”に、“神の国”に入れていただけるという契約です。
⒉ 終着駅は「互いの平和」(50節)
①塩が塩気をなくす?(前半)
そしてこの章の最後の節、50節に辿り着きます。まず前半の「塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。」の部分を見ていきましょう。現代人にとって、塩が塩気をなくすことは考えられません。しかし、古代の塩は、よく精製されておらず不純物が多く含まれていました。すると保存状態が悪いと、塩分が流出して不純物だけが残るということが実際にあったのです。塩の塊だったものが、塩分のない不純物の塊に堕してしまうということは、イエス様が日常生活の中から引っ張ってこられた例なのです。
②突然「平和」?(後半)
後半は、「あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。この結論に至って、新しい言葉が出てきました。それは「平和」ということばです。「平和」あるいは「平和に過ごしなさい」という言葉は、マルコの福音書では、ここで初めて出てきて、ここにしか出て来ません。
ただし、この表現は明らかにこのセクションの締めくくりの一句ですから、これまでの文脈と無関係に突然この言葉が出て来ることはあり得ません。では、すでに出てきているどの言葉と関係しているのでしょう。それは、「いのち」或いは「神の国」です。すなわち「神の国」の特徴、国民性、他の国との違いは「互いに平和に過ごしている」ということです。
そんな簡単なこと、と思われるかもしれませんが、本当に簡単なことでしょうか。少し、落ち着いて考えてみると、この単純なことがどれほど難しいかがわかると思います。大統領選ではあれだけ協力して、当選したときには大喜びしたトランプとイーロン・マスクも大ゲンカして別れました。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマス、インドとパキスタン、イスラエルとイラン、どんどん世界で対立が深まっていて、世界がとても危険な状態に入ってきました。イーロン・マスクさんはどうも火星移住計画を本気で考えているそうですが、人類を火星に移住させることよりも、大統領執務室でトランプさんと平和に過ごすことの方が、よっぽど難しいのです。それが、この地球上の国々の現実です。
③神の国に落ちているもの
歴史上には、ローマ帝国、モンゴル帝国、大英帝国、現在のアメリカなど世界の覇権の派遣を握り、かなり広い領土、多くの民族、宗教を束ねて収めた帝国がありました。この世の覇権国は、「だれが一番偉いのか」「だれが一番強いのか」を原理にし、自分の内を互いを先頭に立ちたい傲慢と塩の抜けた不純物で満たし、互いをつまずかせあって来たのです。その征服の過程で、切り落としてきたものは、他人の手、足、首、目などでした。そのような原理で動く世界に、真の幸せはありません。
しかし、「平和の国」=「神の国」が建設され、その支配が広がっていく過程では、他人の手、足、目ではなく、自分の手、足、目を切り落とし、抉り出していくのです。それは、人より上に立ちたいという傲慢かもしれません。仲間以外を排除する偏狭さかもしれません。小さな影響力しかない人を軽んじて、受け入れない間違ったエリート意識かもしれません。小さな者をつまずかせる罪かもしれません。
④切り捨てられた最たるものが十字架
そして、その最たるものが、イエス・キリストの十字架なのです。イエス様はご自身の手と足に釘を刺され、そこから出血し、いのちを落とすことによって、私たちに愛を示し、私たちがそのキリストの愛に留まるときに、私たちのうちに塩気が保たれるようにしてくださったのです。一番偉い人が十字架に掛かって両手、両足を釘づけされることによって開かれた神の国に私たちは、今日も招かれているのです。
私たちは、自分の手と足を切り捨て、目をえぐり出したから神の国に入れるのではありません。神の国は、私のそのような犠牲によって建て挙げられるようなところではありません。また、私たちのどんな犠牲にもそのような力はありません。ただただ、神の国は、イエス・キリストの十字架の犠牲によって開かれ、私たちのその十字架の愛によってのみ、そこに招かれる者です。しかし、本当にそのような愛によって招きを受けたなら、行く途中で私たちの片手、片足、片目を落とすことは十分ありうるのです。
⑤星野富弘さんの詩
最後に星野富弘さんの「いのちより大切なもの」という詩を紹介したいと思います。
いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのがうれしかった

ご存じのように星野富弘さんは、血気盛んな新任の体育教師の時、模範演技の失敗で頸椎を損傷し、体のほとんどの機能を失いました。そして、自分が生まれてきたことさえ憎みました。その苦しみの中でイエス・キリストの愛を知ったのです。まずキリストの愛を知り、神の国への道を歩み始めた後に、その道からそれないように、罪の誘因である自分の手、足、目を自分で捨てたのではありません。順番が逆です。まず、手、足の自由を失い、悶々とした苦しみのなかで、自分の醜さ、罪深さを嫌というほど思い知り、そのどん底でイエス・キリストの愛をしった、という順番です。私たち人間は、道から逸れないために自分の手足目を切り落とせるほど強いものではありません。ですから、神様がよく使われる手を、この原理を順番を逆さにして私たちに適用されるのです。すなわち、私たちがこれを失ったらもうおしまいだ、というような大きな失敗、損失の中に私たちが叩き落さるようなことがしばしば起こります。しかし、私たちはその絶望の中でイエス・キリストの愛を知るのです。そして、その失敗、喪失がなければ、もっと大きな、絶対に失ってはいけないもの、イエス・キリストの十字架に示された神様の愛を失っていたのだ、ということが後付けでわかるのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架のご愛によって、「自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ご」す道を歩んでいきましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ペンテコステを超えて最初の聖日礼拝でした。マルコの福音書に戻り、あなたが大変厳しいお言葉を話されたところをご一緒に学びました。解釈の難しい点がいくつかありました。どうぞ、御霊が私たちの理解を助け、今日の聖書箇所から大切なことを受け取っていくことができるようにお導きください。そして、御霊がこの礼拝の時間帯だけではなく、これから始まっていきます。一週間、いつでも私たちを「自分のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごすことができるように」どうぞ、お助けください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
