「マルコの福音書を学ぶ」(38)

  • 2025-06-01 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコの福音書9:38-41
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(38)「その後すぐに」
  • 説教者 山田誠路牧師

導入 -テキストの文脈―

今日の記事は、少し前の流れから捉えると、8章29節のペテロの信仰告白を機に、イエス様は弟子訓練に本腰を入れているという流れの中にあるように思えます。大雑把に順を追って振り返ると、信仰告白に続く第一回受難・復活予告の直後のペテロがイエス様を「そんなことがあってはなりません」と諫め、そのペテロに対してイエス様が「下がれ、サタン」ときつく叱責されたこと。次に、山の下で弟子たちがてんかん持ちの子どもとお父さんと対峙し、悪霊を追い出せないでいたこと。

そして前回は、弟子たちが道々、「だれが一番偉いか」の議論をして、イエス様が「先頭に立ちたいものは、皆の後になり、皆に仕える者となりなさい。」とおっしゃったところを扱いました。

それに続く部分である今朝のところは、前回の「だれでも」という一語に代表される「イエス様の広さ」とそれと対極的な「弟子たちの狭さ」を扱っている箇所だと言えます。

本日は、ここから

Ⅰ.出来事  Ⅱ.イエスの言葉 Ⅲ. イエスの教え と3つのポイントでお話をしていこうと思います。

Ⅰ. 出来事

それでは、さっそく今朝は、今日のテキストに展開します出来事を見ていきたいと思います。

⒈ ヨハネという人物

①コアーな弟子の一人

38節は「ヨハネがイエスに言った。」で始まっています。このヨハネは12使徒のひとりのヨハネです。一番弟子のペテロと同じ日の数十分遅れくらいで兄弟ヤコブと共に弟子になった12人いる弟子たちの中でも最もコアーな弟子のうちの一人です。

②これまでの登場

このヨハネは、ペテロと自分の兄のヤコブと合わせて3人で12弟子の中でも特別な最側近グループを形成していました。マルコの福音書では、すでに見てきたとところでは、ヤイロの娘がよみがえる場面、変貌山があります。この後では、ゲッセマネの園での祈りの場面もあります。

また、ヨハネは実の兄弟、たぶん兄だと思われますがヤコブと一緒に二人で登場する場面がいくつかあります。強欲な姿を現していると言えるでしょう。もう一つは、伝道旅行で回った村がイエス様の教えを受け入れないのを見て、「天から火をくだして焼き払いましょうか」という実に非寛容で恐ろしい提案をイエス様に対して場面です。こちらは、キレやすい性格であることが露呈したころでした。

③単独で登場する唯一の例

今回は、ペテロの名前もヤコブの名前も出て来ず、ヨハネ単独で登場してきますが、ヨハネが単独で登場する唯一の場面だと思います。今回は、「やめさせました」という「懐の狭さ」が問題になっています。

⒉ 発端

①イエスの名によって悪霊を追い出している人

イエスの名によって悪霊を追い出している人がいたというのです。「イエスの名によって」というのは、前回学びました37節に出てきた「わたしの名のゆえに」という表現とほぼ同じです。前回の説教を思い出していただければ、この「わたしの名のゆえに」というところは、「だれが」というゼロサムの世界の正反対の「だれでも」の恵みの世界の根底を支える大切な言葉でした。ですから、この男の人は、一番大切なところを押さえて力あるわざを行ったのです。

また、悪霊を追い出すということは、変貌山にイエス様がいなくなっている間に山の麓にいた弟子たちができなかったことでもありました。ヨハネは山の上にいた弟子の一人でしたが、ヨハネが山の下にいたらできたかと言われれば、ヨハネにもペテロにもヤコブにもやはりできなかったと言うべきでしょう。

②やめさせようとした

ところが、それをヨハネが止めさせたというのです。まるでみかじめ料を払わなかったからといって、ヤクザが縁日から屋台を締め出すみたいな感じですね。

「やめさせた」というのは、すごく上から目線を感じます。自分は、正統に属し、正統と異端を区別する識別力があり、異端を取り締まる任務を帯びているというような意識が感じ取れます。「ここではそうしないの」と言って、なんでも新しい人が始めたことを片っ端からつぶしていくタイプの人がどの職場にも一人や二人いそうな感じですね。

③やめさせた理由

そして、その理由が「その人が私たちについて来なかったから」というのです。シュバイツァーは、このところを「イエスに従わなかったからではなく、12使徒に従わなかったから」と解説しています。この基準はイエス様の基準ではなく、弟子たちの独自の基準だったのです。イエス様のお心とはズレていて、指導されることになります。

Ⅱ.  イエスの言葉

このヨハネの報告を聞いたイエス様は大きく二つのことを言われました。

⒈ 反対しない人は味方

①見做し賛成票

一つ目は、「反対しない人は味方」というとても寛容な大原則です。様々な会議で賛否を問う場合、私が知っている方式は、「賛成、反対、保留」の三種類どれかに挙手してもらうというやり方です。しかも、この三つを足した数が出席者数と一致しないと、一致するまでやり直すという厳密なやり方です。しかし、イエス様の「反対しない人は味方」というのは、言ってみれば、まず、反対者に手を挙げさせて、手が上がらなければ、あるいは何本か手が上がっても、採決はそれで打ち止めにして、残り全部を見做しで賛成票とする、というやり方に似ています。少し乱暴な気がしないでもないですが、その理由がまた興味深いのです。

②理由は心の繋がり

「わたしの名を唱えて力あるわざを行ない、その後すぐに、わたしを悪く言う人はいない」というのです。旧約聖書の律法を引用するのでもなく、父なる神様に結び付けるのでもなく、少し心理学的アプローチのような、イエス様にしてはめずらしいことを言うな、という感じを受けるような言い回しです。

これは、人は予測範囲内で行動するものだ、ということです。そして、このことは、通常私たちの一般の社会でも人間関係が大切だと言われる根拠にもなっていることだと思われます。

国対国の外交の世界でもトップ同士が個人的な信頼関係を築き上げることがとても重要なことだと言われています。その意味では、いろいろなことが言われますけれども、安部元総理は、アメリカのトランプ大統領ともロシアのプーチン大統領とも深い絆を長い在職期間を通して築き上げることに成功していたと言えるのでしょう。昭恵夫人がトランプさんにもプーチンさんにも招かれることがそのことを物語っているのでしょう。「シンゾーがいるから」というのがトップの判断に一つの材料として組み込まれるというのは紛れもない事実だろうと思います。

実は、イエス様の人間観も基本的にそれとお同じであるということが今回のところから言えるのです。そして、この名もないイエスの名によって悪霊を追い出した男との間に、イエス様は、直接会ったことはなかったとしても、自分の名前によって業をなしたということによって個人的な信頼関係を覚えておられるのです。そして、その関係がこの人との間にある以上、その人を信頼して仲間だと言ってはばからないのです。

しかし、この信頼関係は、その人とイエス様との間にはありましたが、弟子たちとその人の間にはありませんでした。イエス様の名前を使ったのであって、弟子たちとは直接関係がないので、ある意味当たり前化もしれませんが、そこに弟子の限界があるように感じます。

一方、イエス様は、「わたしたちに反対しない人はわたしたちの味方です。」とキチンと「わたし」ではなく「わたしたち」と弟子たちとの一体感を保って言葉を使っていらっしゃるのです。

⒉ 一杯の水

もう一つイエス様が言われたのは、「あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」という少し有名なお言葉です。

①弟子たちとの関係

「一杯の水を飲ませてくれる人」というのは、ヨハネが力あるわざを止めさせた人とはまったく別人ですが、こんどは、イエス様とではなく、弟子たちと関係をもった人としてイエス様が持ち出した人です。「あなたがたがキリストに属する者だということで」の「あなたがた」、「あなたがたに水一杯飲ませてくれる」の「あなたがた」は弟子たちです。

②最も小さな具体的な親切

そして、「水一杯飲ませてくれる」という行為は、最も小さな具体的な親切です。前回学んだところには、「一人のこども」が出てきました。「このような子どものうちの一人を、私の名のゆえに受け入れる人は」とイエス様は言われました。イエス様は、いつでも最も小さいものに目を向けておられるのです。最も小さなものを受け入れる人、最も小さなものを指し出す人との関係をイエス様は最大限に重視されるのです。それらの人が神の国に住民だからなのです。

Ⅱ.  イエスの教え

大きな三つ目として、この二つのイエス様のお言葉から、イエス様が弟子たちにどのような訓練をしようとしておられたかを見ていきたいと思います。それは、一言で言うと、人とどのように付き合っていくか、ということです。それを、イエス様の接し方と弟子たち、今回は特にヨハネの接し方を比較しながら考えていきたいと思います。

⒈ イエス様の接し方

まず、イエス様の接し方から見ていきましょう。先ほどみさせていただきました、イエス様のヨハネに対する二つのお言葉からもう一度簡単にまとめてみます。それは、二つあります。

一つ目が「反対しない者は味方」という最大限の包括性

二つ目が「一杯の水を差し出した人も報いにもれない」という最小限のルール繋がりを大切にする、という2つです。

⒉ 弟子たちの接し方

①自分のケースを他人に押し付ける

それに対して弟子たちの代表のヨハネの接し方を見ていきたいと思います。そもそもヨハネという人は、ペテロと同じ日の数十分後くらいのタイミングで、ガリラヤ湖畔で網を繕っているときにイエス様から「わたしについて来なさい」と声を掛けられ、その場で船も父親も捨ててイエス様に従う生涯に入りました。それが、ヨハネの場合でした。それは、とっても素晴らしい、スパっとした、褒められるべき決断でした。また、犠牲を多く払う決断でした。

しかし、そういう決断をした人にありがちなことは、事情や境遇、時代や使命様々なことがことなる他人に、自分を同じことを要求してしまうということです。要求するまでならまだしも、それに従わない人を、失格者として切り捨てるという態度、考え方を持ちやすいということです。

確かに自分にとってもよかったと確信をもって言える経験だったでしょう。しかし、それを他人にそのまま押し付けることがいつもよいとは限らないのです。むしろ、それは迷惑、害悪になるケースの方が多いでしょう。この頃は減ってきましたが、スポーツの世界でのしごきなどが、先輩から後輩へと代々引きすがれていくのはこの原理でしょう。そこには、隠されたプライドも関係しているでしょう。

②外形標準

また、弟子たちの接し方は外形標準的です。外形標準というのは、「法人の赤字・黒字にかかわらず、一定の『外形(=会社の大きさ)』に応じて税金を課す制度のこと」という税法上の専門用語だそうです。しかし、一番わかりやすいのが、言い換えると古本屋のブックオフ方式ということになります。すなわち、その本が内容的に、あるいは希少価値的にどれくらい価値があるかには一切注意を払わず、ひたすら出版後何年経過しているかとどれくらい汚れや書き込みがあるかという外形的なことだけで査定価格を決める、という方式です。

「自分たちについてくるように言ったけれどもついて来なかった」というただ一つの目に見える反応だけを頼りに、応援するか、止めさせるかをヨハネは判断したのです。

③WWJDと弟子の限界

WWJDということばがあります。What would Jesus do?の頭文字を取った言葉で「イエス様ならどうする?」という意味ですね。イエス様の聖名によって悪霊を追い出している人をヨハネが見たとき、イエス様はそこに一緒におられなかったようです。ですから、きっとヨハネもWWJDをやったのだと思います。そして、「私たちについて来なさい」と声をかけたのについて来なかった、ということを判断材料に、そうであるならば、イエス様がここにいらっしゃたならば、止めさせるに違いないと思って止めさせたのでしょう。

くどくなりますが、申し上げたいことは、ヨハネはWWJDをやった結果、イエス様なら「これからも悪霊につかれている人にであったら、私の名によって悪霊を追い出して助けてあげなさい」と言うだろうなとの判断をしたうえで、それに反して、「でも、俺たちについてこないならやめさせよう」としたのではない、ということです。

ここに弟子の限界があります。WWJDが機能しないという限界です。Jesusの心を想像しても、その本質を捉えきれないのです。自分の経験だけを根拠に答えを推測しても正解にたどり着けないのです。そこに外形標準しか使えない弟子の限界があります。

④このギャップを埋める弟子訓練

どんなに最初期からの弟子であっても、どんなに優秀な弟子であっても師匠の心を捉え切れないというケースがあるのに対して、その心をピタッと捉えることができる人がいる場合があります。それは、息子です。福音書に描かれている父なる神様と御子イエス様の関係がそれです。あるいは、血は繋がっていなくてもただの弟子ではなく腹心といえる弟子です。

今の時点では、イエス様とヨハネを代表とする弟子たちとの間には、まだ大きなギャップがあります。しかし、これから十字架、復活、ペンテコステとことが進んでいく中で、ただの弟子が腹心となるように、あるいは、子とされるために、イエス様はこの弟子たちに取り組んでいかれます。

今日のテキストの41節に「まことに、あなたがたに言います。」というイエス様のお言葉があります。これは、イエス様が弟子たちに正面から向き合って、大切なことをこれから言うよ、というときの常套句です。私たちにも、イエス様は毎日、「まことに、あなたがたに言います。」という態度で、日常のあらゆることを通して、イエス様ご自身の心を教えようとしておられます。外形標準で的外れなWWJDしかできない私たちを、イエス様と同じ心で人と接することができる人間へと造り変えようとされています。

イエス様の基準は、「反対しない者は味方」という最大限の包括性と「一杯の水を差し出した人も報いにもれない」という最小限の繋がりを大切にする、というものでした。イエス様の優しい導きによって、ただの弟子から腹心の弟子、子どもへと成長させていただきましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ヨハネがある人の力あるわざを止めさせたという狭さと、イエス様の広さが対照的に描かれているところから学びました。真理には厳しい側面もあります。イエス様にもそのような面がもちろんあります。しかし、真理であるからこそ、無限に広い包容力があります。どうぞ、私たちがイエス様の赦しと愛と憐れみに与って今があることを心の底からわからせていただき、周囲の人に自分のパターンを押し付ける狭隘さから開放されて、やさしく接することができるようにしてください。そのように私たちをお育てください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。