「マルコの福音書を学ぶ」(37)

□2025-05-18 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書9:30-37

□説教題 マルコの福音書を学ぶ(37)「わたしを受け入れる者」

□説教者 山田誠路牧師

導入 -テキストの概要―

今日も、序として、本日のテキストの流れをザっと追って、その後でポイントを立ててお話ししていこうと思います。

⒈ そこを去り

今朝のテキストでは、30節のはじめに「さて、一行はそこを去り」とあるように、イエス様は変貌山の麓を後にして、ホームグラウンドであるガリラヤに戻って行かれます。

⒉ 2回目の受難・復活予告

そして、9章31節に二回目の受難と復活の予告の言葉が出てきます。8章31節にある1回目の予告と比べて、相違点と共通点がいくつかあります。

①一回目との相違点

まず、相違点は、一回目にはなかった「人々の手に引き渡される」という言い方が加えられている点です。この追加の表現から二つの意味を汲み取ることができます。

ⅰ)ユダの裏切りとの関係

一つは、この時点でイエス様のお心の中に、ユダの裏切りのことが去来していたのだろう、ということです。ユダ本人はまだ気づいていなかったかもしれませんが、この時点ですでに、そういう要素が進行しはじめており、イエス様は警告を発せられたという面があるのではないかと思われます。

ⅱ)私たちすべてとの関係

また、もう一つの面は、少し神学的になりますが、「人々」ということばに、すべての人が含まれると解して、この言い方はイエス様の死が、すべての人に関係がある、すなわち、私たちすべての人間は、自分たちの手にイエス様の引き渡しを受け、自分たちの手でイエス様を死に追いやっていったという十字架の当事者として関わってくるということです。

②一回目との共通点

次に共通点を上げると、受難予告の直後に弟子たちの不理解の記事が続く、ということです。一回目の予告の直後には、ペテロがイエス様をわきへお連れして「そんなことがあってはなりません」といさめ始めた、ということがありました。今回の2回目は、12弟子たちが、変貌山からカペナウムに戻る途中で、「誰が一番偉いか」の議論をしていた、ということです。このことについては、本論で詳しく見ていきたいと思います。

⒊ 今回の出来事の位置づけ

今朝は、マルコの9章30節から37節という比較的短い箇所をテキストに選ばせていただきましたが、序の最後に、マルコの福音書の中の過ごし長い塊の中での位置付けいついて一言触れておきたいと思います。

マルコの福音書は、8章27節から始まる、ピリポ・カイサリア地方におけるペテロの信仰告白を折り返し地点として、後半に入っていきます。今日のところは、その折り返し地点を過ぎて、まだ程ないところですが、特徴としては、イエス様がエルサレムでの十字上の死に向かっていく中で、まだ、その意味についてはまったく目が開かれていない弟子たちに、時間を取り、丁寧に向き合っているところ、と言えるかと思います。

さて、今日は、ここから大きく二つのことを学びたいと思います。

一つ目は、「不理解ともう一つの罪

二つ目は、「神の国の法則

この二つです。

Ⅰ. 不理解ともう一つの罪

それでは、まず一つ目のポイント「不理解ともう一つの罪に入っていきます。

⒈ 弟子たちの不理解

①イエス様の意識はエルサレムへ

先ほど、9章30節の「さて、一行はそこを去り」というところを見ていただきましたが、次の10章の1節には、「イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向うに行かれた。」とあります。さらに、同じ10章32節では、「さて、一行はエルサレムに上る途中であった。」とあります。変貌山から下山したイエス様は、本拠地であるガリラヤに一旦戻りますが、長居することなく、ほどなくエルサレムへの旅につかれます。

イエス様は、これまで見てきた2回の受難・復活予告に示されているように、自分がエルサレムに上っていくのは、「殺されるため」であることを、はっきり語っています。しかし、一番身近にいる直弟子たちでさえ、十字架の意味をまったく理解できていないのです。端的に言って、弟子たちは、イエス様に死んでほしくないと思っているのです。

②受難予告には薄く反応

しかし、32節を見てください。「しかし、弟子たちにはこのことば理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とあります。ここから、この時点で、弟子たちは、万が一、イエスが殺されるようなことがあれば、その時にはイエス様に従ってきている自分たちにも身の危険が迫っているだろう、ということも薄々感じ取っていたと想像できます。すなわち、イエス様の予告の一つ目の要素である受難、すなわち「イエス様が殺される」ということに関しては、弟子たちは、その意味も意義もまったく理解していないながらも、出来事としては、ある程度想像ができて、それを不吉なことだと感じていと言えます。

③復活予告には無反応

一方、予告の二つ目の要素である、「復活」に関しては、一回目の予告の時も、今回の二回目の予告の時も、弟子たちはまったく反応しておりません。受難予告に対しては、「怖くてそれ以上詳しく聞けなかった」という反応をしましたが、復活予告に対しては、レーダーに引っかからない、という状態で、まるで耳に入らなかったかのようです。

⒉ 「誰が一番偉いか」論争

そして、弟子たちは、そのような重要なことば告げられた同じ道中で、「だれが一番偉いかの議論」という十字架に向かうイエス様のお心と正反対の心を持っていたのです。

①「だれが」VS「だれでも」

今回、このところを読んでいて一つ気づいたことがありました。弟子たちは「だれが一番」「だれが」という言葉を使っているのに対して、イエス様は、35節から37節までのあいだで「だれでも」ということばを3回使っておられるのです。この「だれが」vs「だれでも」は、弟子たちとイエス様の考え方の違いを象徴的に物語っているように思います。

②「だれが」=ゼロサムの世界観

「だれが」というのはゼロサムの世界です。基本的に勝つ人は一人またはごく少数で、それ以外の圧倒的多数は敗者となる仕組みです。

ちょうど、私たちは世界14億人の信者がいるといわれるカトリックのトップを決めるコンクラーベに注目した記憶が新しいところにあります。選挙権を持つ、80歳以下の枢機卿135人が全世界から集まり、「誰が一番偉いか」を決めるまで外界とシャットアウトされてシスティナ礼拝堂に缶詰にされたのでした。

約半年前には、アメリカ大統領選挙があり、アメリカで「誰が一番偉いのか」を決める4年に一度のお祭り騒ぎで大変なお金と労力が使われました。私たちはみな、「誰が一番偉いのか」ということが大好きです。また、野次馬根性的に好きだ、というだけではなく、「自分が一番になりたい」という思いを常に持っているものです。今の言葉で言うと、「マウントを取りたい」ということでしょうか。

③「だれでも」=反ゼロサムの世界観

それに対して、イエス様が繰り返し口にされた「だれでも」は、ゼロサムの反対概念です。審査や選挙によって一人に絞っていくのではなく、100人中100人いてもよいのです。80億人中80億人が選ばれてもよいのです。135人全員が教皇でもいいのです。

⒊ 十字架で担われた罪との関係

①神に反逆する罪 

ここで、一つ皆様に突飛な質問を一つしてみたいと思います。皆様は、「イエス様の十字架」という言葉を聞いたとき、どれくらいのストーリーがイメージに浮かんでくるでしょうか。通常、前広に考えても精々、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈られた、というあたりからではないでしょうか。その祈りが終わると、逮捕、裁判、拷問、翌朝、もう一つの裁判とことが進んでいきます。そして、ゴルゴタの丘で両手と両足に釘を打ちこまれ、十字架に吊るされ、朝の9時から午後3時までの6時間、極限まで苦痛をなめ尽くし、最後は、父なる神様からも見捨てられ、その呪いによって、私たち全人類の罪を身代わりに負われた。それが十字架という出来事だと。

 私は、その部分だけを見て、十字架上で身代わりに負ってくださった私たちの罪深さは、意図的に、救い主イエス様を受け入れず冒涜的な仕打ちをイエス様に加えるような残虐性、すなわち人間の持つ神への反逆性の内にある、と理解してきましたように思います。

②悟れない罪

 しかし、今回のところを学び、新しい光を得ました。それは、悟れない罪です。自分がイエス様とは正反対の方向を向いていながら、それがわからないで最側近気取りでいられるという罪です。薄々「これを聞いたらヤバイ」という感覚があるなら、それを手掛かりに手の打ちようもあるでしょう。しかし、そのヤバさを感じつつ、同時に「だれが一番偉いか論争」をできてしまう罪深さ、復活については完全無反応の蒙昧さは、もっと根深いものです。イエス様は、私たちのそのような罪深さをも背負って、十字架に進んで行かれたのです。

Ⅱ.  神の国の法則

続いて第二の大きなポイントである「神の国の法則」に進んでいきます。

イエス様の弟子たちに対する話の中でもう一つ注目すべき点があります。先ほどお話ししましたように、イエス様の思いと弟子たちが考えていることがあまりにも根本的にかけ離れているので、弟子たちに理詰めで説明してわかってもらうことが不可能だったのでしょう。イエス様は、一人の子どもの手を取って、みなの真ん中に立たせました。

⒈ どうしていきなり子ども?

でも、どうしていきなり子どもなのでしょうか。「こんな大切な話をしているときに、子どもの出る幕じゃない。イエス様は、いったい何を考えてるんだ。冗談じゃない」と弟子たちはきっと思ったでしょう。

しかし、こういう時のイエス様は天下一品のコミュニケーターです。「一人の子ども」というのは、弟子たちが道々、「だれが一番偉いか」を論じ合っていた時の自分たち自身についての自己イメージの真逆に位置する存在です。子どもには、なんの経歴も、実績も、影響力もありません。「誰が一番偉いか」を決める際に大切になってくるものを何一つ持っていない存在です。それどころか、親をはじめ多くの周りの人々のお世話にならなければ生きていけない、圧倒的に「受ける側」の存在です。

⒉ 「子どもを受け入れる」とは?

もう一つイエス様のお話の中で気になることがあります。それは、「受け入れる」という言葉です。こちらは4回も出てきます。

①「子どもの一人を受け入れる

「子どもの一人を受け入れる」とはどういう意味でしょうか。それは、尊いものとしてその価値を認める、ということです。この世で誰が一番偉いか論争に加わる何物も持っていない子どもに絶大な価値を見出すのです。

②わたしの名のゆえに受け入れる

イエス様は、「子どもたちの一人を受け入れる」ということについて、もう一つ大切なことをおっしゃいました。それは、「わたしの名のゆえに」というろころです。これが、この世の価値とはまったくことなった価値が与えられる理由です。子どもには、まだ、経歴も、功績も影響力もない。それではどういう価値があるのか。それは、イエス・キリストの名の故の価値です。「イエスの名」というのは、聖書では「イエスご自身」を表します。イエス様が老若男女を問わず、すべての人のためにご自分の命をお捨てになった、その尊い血潮によって買い取られている、ということのゆえに価値があるのです。

ですから、私たちは初対面の人と会うとき、その人のことを何一つ知らなくても、その人についての一番大切のことはすでに知っているということができます。それは、その人のためにもイエス様が十字架に掛かって血を流された。それほど、その方は尊い方なのだ、ということです。このようにして、人を認めあい、人を受け入れあっていくのが、神の国の人間関係の基本なのです。

③94歳になる母との関係

先週に引き続き母のことを例にしたいと思います。私の母は、今日がちょうどお誕生日で94歳になりました。2022年に脳梗塞で倒れ、言語障害と右半身不随の後遺症が残りました。新百合ヶ丘にある姉家族の家で車いす生活をしています。幸い、左手一本で自分で食事をとれますし、トイレを一人で行けます。けれども、健康な時と比べればできないことだらけです。しかし、母は何ができなくなっても私にとっては大切な母です。母という一人の人が私にとって大切な存在であるのは、母が何かをできるからとは関係ありません。それとはまったく別の次元で私と母は結びついていて、何ができなくなっても母は私にとって大切な存在であり続けます。

神様は、私たち一人ひとりに対して同じように接してくださるのです。私と母との関係とは、逆になってしまう要素がありますが、私たちが何かができるからではなく、神様が御子イエス様の十字架の犠牲ということを通して私たちを大切なものとみてくださるのです。

⒊ 「わたしを受け入れる」の続き

さて、今回のイエス様の語られた言葉には連鎖のようなものがあります。

ⅰ)第一段階=「子どもを受け入れる」

37節には、「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる」というのが第一段階です。

ⅱ)第二段階=「わたしを受け入れる」

第二段階は、「そういう人は」「わたしを受け入れるのです。」という段階です。「小さな子どもを受け入れる人は、イエス様を行け入れることになる」ということです。

ⅲ)第三段階=「父なる神を受け入れる」

そして、第三段階が実は「また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」、すなわち、父なる神を受け入れる、というのです。まとめてみると、「小さな子どもを受け入れる人は、イエス様も、イエス様を遣わされた父なる神様をも受け入れるのだ」ということです。

⒋ 意識せずに受け取る=神の国の受け取り方

その要点は、無意識のうちに受け入れるということです。第一段階には意識があるでしょうけれども、第二段階、第三段階は意識していないのに、実はそうだった、ということです。

①マタイの25章の最も小さい者の一人

マタイ25章に出てくる「最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのです。」というのと同じです。最も小さい者の一人に、食べ物を与え、飲ませ、宿を貸し、服を着せ、見舞い、牢屋に面会にいったのは、すべてイエス様にそれをしたことなんだ、というルールです。

この世で最も取るに足らないと計算される子どもの一人を、この子もイエス様の十字架によって愛されている子どもなんだ、といって尊ぶとき、その人はイエス様と父なる神様を受け入れたことになるのだ。これが神の国のルールなのです。

②神の国でのもらい方

「それをもらおう!」と狙って、計算してゲットするのではなく、意識しないで、知らないでもらうもらい方です。そして、神の国でのもらい方はこれ一つなのです。神の国で大切なもとをいただく時の唯一のいただき方は、知らないでもらうというもらい方です。

イエス様は、隠された宝、知らないでしか受け取れないプレゼントとなるために、エルサレムに向かい、十字架にまで進まれようとされているのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様から弟子たちになされた二回目の受難・復活予告のところを学びました。弟子たちは「だれが」という言葉で議論していましたが、イエス様は、「だれでも」という言葉で話されます。そして、「わたしの名のゆえに受け入れる」という神の国の法則を示してくださいました。私たちも、この世界にあって、この世のルールで人を見、自分を見てしまうことばかりです。しかし、礼拝に連なり、祈りを通して、イエス様の十字架のご愛に触れられて、この世にあって、神の国の支配の中を歩み者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。