「マルコの福音書を学ぶ」➉

□2024-07-21 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書2:1-12

□説教題 マルコの福音書を学ぶ➉「地上で罪を赦す権威」

導入

①前回の復習

前回の9回目は、1章の40節から45節までのところから「わたしの心だ。きよくなれ」と題して語りました。話の流れに沿って、「ツァラアトについて」「ツァラアトに冒された人の求め」「イエス様の態度」と見たあと、まとめをしました。

「イエス様の願いこそが救い」

ⅱ「イエス様の立ち位置こそが救い」

ⅲ「イエス様の目指すところが救い」という3つのポイントでした。

 ②今日の流れは、

今日からやっと2章に入ります。今朝は、マルコの福音書2章の1節から12節までがテキストです。説教題としては、「地上で罪を赦す権威」といたしました。

このところから、いつもと違って、大きく二つの項目を立ててお話します。

1. 罪を赦す権威

2. 地上で持つ

この2つです。

Ⅰ.  罪を赦す権威

 A. 罪

 1. バプテスマのヨハネの所で既出

まず、「罪を赦す権威」の「罪」から考えていきたいと思います。マルコの福音書では、1章の4節に「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」、続く5節に「自分の罪を告白し」と、イエス様の先輩であるバプテスマのヨハネの活動を紹介する文脈で「罪」という言葉はすでに出てきております。しかし、とくに、脈絡もなく説明もなく使われている感じがします。

 2. 本日のテキストでは“いきなり”

 そして、今日のテキストでは、非常に突飛な感じで出てきます。中風という病の人に向かって、いきなり「あなたの罪は赦された」と語られたのです。

 3. 病と罪との関係は不明のまま

 なぜ、病を負っている人に向かって、「あなたの病は癒された」ではなく「あなたの罪は赦された」と言われたかについては、いろいろな説明が可能かと思われます。この人個人のレベルにおいて、病気の原因に罪があったのだ、とか。当時の社会では、病気は罪からもたらされると考えられていたとか。しかし、少なくとも明らかなことは、マルコがこのテキストで問題にしているメインのことは、病気と罪との関係ではない、ということです。

 イエス様が様々な病をいやす権威を持っておられることは、すでに1章で3回ほど記されております。今回は、イエス様が罪を赦す権威をお持ちであるということが中心です。そのことが展開される出来事にこの中風の人が出て来たという関係で理解するのが適切ではないかと考えます。それ以上に、この人の中風という病と罪の関係は明記されていません。

 B. 赦す

次に「赦す」ということを考えていきたいと思います。

 1. 罪に対する動詞

聖書の中で「罪」という名詞と一緒に用いられる「動詞」にはいくつかの種類があります。まずは、「罪を犯す」と言いますね。そしてその逆の方向としては、「きよめられる」「消される」「つぐなう」「赦す、赦される」などです。今日のテキストでは、「赦される」という動詞が問題になっています。

 2. 犯されたものだけが赦せる

そして極めて当然のことですが、罪を赦すことができるのは、罪を犯されたものだけです。現在東京女子大の学長をしておられる森本あんりという先生がICUにおられたときにまとめられた「人間に固有なものとは何か」という少々硬めのタイトルの本があります。当時ICUで教鞭をとっていた12人の研究者たちが、人文学のそれぞれの立場から「人間に固有なものとは何か」を論じている極めてユニークな本です。その中で森本あんり先生は、トップバターとして神学の立場から書いておられます。そして、なんと「人の過ちをゆるす能力こそが人間に固有のものだ」ということを述べておられます。そして、一つの実例を紹介しておられます。少し長くなりますが紹介します。

1981年、アメリカのアラバママ州で黒人青年が二人の白人によって、言うのもはばかられるむごたらしいリンチを受けた末に殺されました。背後には、クー・クラックス・クラン(KKK)という白人至上主義者の集団がありました。地元警察はまったく動かないので、殺された黒人青年の母親は強い決意をもってFBIを動かし、二人の白人青年が逮捕され、一人には死刑、ひとりには無期懲役の刑が出ました。母親はさらにKKK自体に対して民事訴訟を起こしました。最終弁論の日に、裁判長が被告に発言の機会を与えました。すると、彼はおもむろに立ち上がり語り始めました。

「今日わたしはどうしてもこのことを話したい。私の自白はすべて真実です。KKKの仲間が、いろいろと嘘を言って罪のなすり合いをしています。しかし、もうたくさんだ。わたしは彼を殺しました。陪審員のみなさんにお願いします。わたしとわたしの仲間すべてに、有罪の宣言をしてください。人々が、わたしの犯した罪から学ぶように。」

そう言い終わると、彼は自分が殺した青年の母親に向き直りました。「どうかゆるしてください。」「わたしは、かけがえのないあなたの息子さんを殺しました。もはや、何をしても息子さんをお返しすることはできません。もし死んだ彼と立場を入れ替えることができたなら、わたしは喜んで彼になったでしょう。でも、それもできない。わたしは、あなたに差し出すべきものを何も持っていません。何を差し出しても、あなたが慰められることはないだろうと思います。けれども、わたしは残りの生涯をかけて、全力で償いをしたいと思います。どうか、わたしをゆるしてください。Please forgive me.」

すると年老いた黒人の母親は何といったでしょうか。「I have already forgiven you. 私はすでにゆるしています」と言ったのです。

森本あんり先生はこう記しています。「その裁判に居合わせた人は、黒人であると白人であろるとを問わず、判事であると傍聴人であるとを問わず、しばらくみな涙を隠せなかったといいます。それは、人間として、もっとも崇高な一瞬であると思います。人間の尊さが、人間の人間らしさが、もっともはっきりと輝く一瞬であったと思います。」

長い時間をかけて、人が人を赦すということを話しました。このケースでは、殺された青年が一番の被害者ですが、この世にいませんので、息子を無残に奪われたお母さんだけが、殺した白人青年を赦すことができる人です。そして、私は数年ぶりにこの本を手に取って、読み返してみて、一つのことに気付きました。森本あんり先生は、あえてかどうか知りませんが、「過ち」ということばは使われていますが、「罪」ということばは使われていないのです。「過ちを赦す」という言い方をしておられます。

 3. 罪は神のみが赦せる

今日のテキストに戻りますと、イエス様は「あなたの過ちは許された」と言われたのではなく、「あなたの罪は赦されました」と宣言されました。ですから、それを聞いていた律法学者たちが心の中で「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」と言ったのです。

この律法学者たちの考えの後半は、当時も今もそのままを真理として変わりはありません。罪は神のみが赦すことができるのです。なぜなら、究極的に言って、罪とは、人間が神に対して犯すものだからです。

Ⅱ.  地上で持つ

さて、次に、イエス様がこの「罪を赦す権威を」「地上で持っている」という意味を考えていきたいと思います。

 A. 受肉した神

 1. 受肉がキリスト教の要

きほど、律法学者たちが考えたことの後半は真理だと言いました。それでは、前半とは何でしょうか。それは、「この人は、なぜこのようなことを言うのか。」という部分です。実は、ここにキリスト教の一番の要点が関わっています。言い換えるとイエスは何者なのか、ということです。イエスがただの人間、ただの預言者であれば律法学者たちの考えは100%正しいということになります。しかし、イエスが何者であるかということを捕らえると、話がすべて変わってくるのです。端的に言って、イエスは「地上を歩かれた神」ということです。それをキリスト教用語では、「受肉」と言います。そして、これこそがキリスト教の要です。

 2. これは信じがたいこと

少し、テキストから離れて一般的なことを申します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つが一神教のグループです。しかし、ユダヤ教もイスラム教も単純は単純な一神教です。ユダヤ教にはヤハウェーなる神、イスラム教にはアッラーがいて、唯一絶対神です。ユダヤ教最大の人物はモーセでしょう。イスラム教最大の人物はムハンマドです。しかし、モーセも、ムハンマドもただの人間で、大勢いる預言者のうちの一人に過ぎません。しかし、キリスト教だけが、イエスは預言者ではなく、「真に神であり真に人である」と言う理解に立っています。これは、正直に言って、信じがたいことです。むしろ、はっきりと、理性的には信じがたいことを信じているのだ、という自覚を持つことが大切だと思います。C.S.ルイスはイエスについて、「狂人か、嘘つきか、神の子か」の三つの内の一つの可能性しかない、と書いております。私たちは、マルコの福音書を読みながら、この3択問題に自分で答えを出そうとしているわけです。

3. イエスは神

マルコの福音書は、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しではじまっています。ですから、表題としては、すでにというか、一番初めにイエス・キリストは神の子であると宣言してあります。その後、マルコは、イエスが何者であるか問いことを、紹介するために筆を進めます。これまでのところを一言でまとめると権威ということばでしょうね。教えに権威があり、悪霊を追い出す権威を持ち、病を癒す権威を持ち、穢れを清める権威を持ち、そして、今日のところでは、罪を赦す権威を持っているという流れになっています。しかし、今日のテキストでは、一連の権威を持っているということに留まらない重要な要素を含んでいます。それは、イエスが神であるといことを、イエスが罪を赦す権威を持っていると述べることによって言っているのです。ここが、とっても重要なポイントだと思います。

 B. 地上の人々との関わり

実は、イエス様が「人の子が地上で」と仰った「地上」には、神が人となって地上を歩まれたという受肉とは別のもう一つの意味を読み取ることができます。それは、周りにいる人々との関係です。三つのことを見たいとお思います。

 1. 彼らの信仰を見て

中風の人がイエス様の所に連れて来られて、いきなり「あなたの罪は赦された」と宣言され、その人が「立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前に出て行った」という出来事には、実は、この中風の人を担いできた4人の人が深く関わっています。彼らの親切、熱意、屋根をはがす程の積極性がなければ、この出来事はあり得ませんでした。

そして、マルコは不思議な書き方をしています。5節に「イエスは彼らの信仰を見て」とあるのです。宗教改革、メソジスト、そして19世紀のアメリカでのリバイバル運動の流れを汲んでいる私たち日本のクリスチャンは、信仰を非常に個人主義的にとらえる傾向が強いです。信仰とは、神と私の一対一の関係。他の要素はそこに入り込む余地がない、くらいにガチガチに個人的な要素をことさら強調して考えてきました。そこに大切な真理もたくさん含まれているに違いありません。

しかし、それだけではこの5節は理解できません。中風の人が癒されたのだから、当然、この中風の人本人が癒される信仰を持っていたはずだ、そうでなければ神の力は働かないはずだ、と私たちは考えるかもしれません。しかし、聖書は別な書き方をしていることを認めないわけにはいきません。マルコの福音書は、はっきり、「イエスは彼らの信仰を見て」と書いています。

それでは、ここでの「彼ら」とはだれのことでしょうか。二つの可能性があります。一つは、担いできた4人のこと。もう一つは、その4人にプラスして担がれてきた中風の人を含めて5人のこと。聖書は、4人か5人かについては明言しておりません。大切なことは、「彼ら」と複数で表されていることです。これは個人の、或いは単数の信仰ではなく、複数の信仰なのです。別の言い方をすると何人かの人の信仰が混ぜ合わされた信仰なのです。

ここに、教会が集まることの、教会が祈りを合わせることの大切さがあります。教会は、ある意味、複数で信仰を混ぜ合わせるところです。そして、イエス様は、その混ぜ合わされた信仰を見てくださるのです。なんと励ましに満ちたことではないでしょうか。

私は教師を長年してきました。生徒に注意をすべきことがあって職員室に呼び出すと、その生徒も“怒られるため”と勘付くと、一番頼りにできる友達を一人連れて来ます。ぴったりと腕を組んで、出頭してきます。強面の先生は、そういう時に、「職員室は一人で来い!」と言って、まず、そのお付きの友達を引き離します。神様は、「一人で来い!」とは言われない神様です。

 2. 心の中で

二つ目に、今回の出来事の中で一つの重要な役回りを果たしている人たちの中に、すでに話に出てきていますが律法学者と呼ばれる人たちがいます。福音書には度々、「祭司長、律法学者」という表現が出てきます。祭司長はサドカイ派、律法学者はパリサイ人で構成されていたと言われています。サドカイ派は与党、パリサイは野党です。野党パリサイ派地方の会堂で教育を熱心に行っていました。今日の場面は、1節を見ると、再びカペナウムに戻っていて、「家」におられると、となっています。また、6節を見ると、「律法学者が何人かそこに座っていて」とあります。この家が誰の家かはっきりしませんが、公のシナゴーグではなく、一般の人の家の中にまで、律法学者たちがイエス様の話を聞きに来ていたのです。動機は、純粋なものだったか、はたまた取り締まり的なものだったかはわかりません。

いずれにしろ彼らについて、今日の所で3回繰り返されている表現があります。それは、6節に一回、8節に二回出てきます、「心の中で」という言い方です。さきほど問題にいたしました7節の、「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」というつぶやきは、彼らは口には出さず、「心の中で」言ったのです。それをイエス様が見抜かれたのです。

先ほどの「彼らの信仰を見て」は「見て」という言葉が使われていましたが、今度は、8節に「見抜いて」という言い方になっています。信仰は本来目に見えないものですが、それが行動になって現れたのを見て、という意味でありましょう。つぶやきは本来心の中にしまっておけば外に漏れないはずですが、イエス様はそれを「ご自分の霊で見抜かれた」のです。

ここに、見ない世界のことと見える世界のことが交差しているのがわかります。見えないはずの神が見える形となって、イエス様としてここに姿を現しているとき、私たちの見えないはずの世界のことが、イエス様によって“見える化”されていくのです。

電車に乗っていて、そこにお年寄りが乗って来られたとします。それまで何の区別もなかった人たちの中に、「寝たふりをする人」「平気な顔でスマホをいじり続ける人」「どうしようかドギマギする人」「サッと立って席を譲る人」の区別が“見える化”されるようなものです。21世紀に生きる私たちは、一つの家でイエス様と同席するということはありませんが、イエス様が受肉された神様であるという事実は、今日でも私たちの見えない世界のことを見える世界に映し出す力を持っているのです。神様がご自身の御子を人としてこの世界に遣わされたほど、この世界に、そして私に関心を持っておられることを信じるときに、私たちの見えない内面の世界が変化し、そしてそれが見える世界にも必ず反映されてくるのです。

 3. 地上はいつも様々な人々で構成されている

三つ目は、「地上はいつも様々な人々で構成されている」というようなことをここから教えられたいと思います。今日の場面には、イエス様のほかに、中風の人、その人を担いできた4人の友達、律法学者たちが出てきます。それ以外にも最後の12節で「それで皆は驚き、『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた。」というところに出てくる名もない「皆」がいます。

それぞれの人々は、イエス様に対する関心も求めも態度もまちまちでした。直接当事者もいれば、間接的に関わった人たちもいたでしょう。イエスに切実な求めをした人もいれば、心の中でつぶやいた人々もいます。何もせず、ただ居合わせた人々もいます。しかし、最後には、「皆」が「驚き」「神をあがめた」のです。イエス様は不思議な方です。それぞれ置かれている状況がまったく違うのに、そこに居合わせた人々それぞれに一番必要なものを与えることが出来るお方なのです。その人が求めていたもの以上のものを与えることが出来るお方なのです。私たち人間の集りおいては、誰かのアイデアが採用されてうまくいったり、行かなかったり、意見や利害を調整したり、ということが行われるでしょう。しかし、イエス様というお方は、そういったアイデアや妥協や協力や調整ということをすべて越えて、私たちにベストをなしてくださるお方なのです。ご自身が最適解となってくださるお方なのです。

聖書を読み、キリストの体である教会に連なり、聖霊に導かれて歩むとき、この信じがたい受肉の事実と真実の中を歩むことになるのです。このダイナミックな生こそクリスチャン・ライフなのです。

 一言、お祈りいたします。  恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、一人の中風の人が4人の仲間に担がれて、屋根をこわしてイエス様のおられるところにつり降ろされたという変わった記事を読みました。イエス様は、彼らの信仰を見て、開口一番「あなたの罪は赦された」と言われました。私たちには繋がりがわからないことだらけです。しかし、伝道者の書に「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」とあります。私たちも、あなたの体である教会に連なり続けることによって、罪の赦しの確信を得、あなたによって床を取り上げて歩いて行く生涯をたどる者としてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。