「マルコの福音書を学ぶ」⑰

□2024-09-22 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書4:21-34

□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑰「イエスのたとえ②」

導入

  • 前回の復習

前回の16回目は、4章の1節から20節までのところをテキストに「イエスのたとえ①」と題して語りました。前半は「たとえという語り方」について、①たとえは、「権威ある新しい教え」に次ぐ、イエス様の教えの二つ目の特徴であること。②真理をわかりやすく語るという面が勿論あると同時に、もう一方では、「わからない人にはわからないままで置く」という二正面作戦であったこと。③題材が日常生活に根差していたこと。④会堂を追い出されたがゆえの語り方であったこと、などを学びました。

そして後半には、数多くあるイエス様のたとえの最も代表的な「種まきのたとえ」を取り上げました。大きく捉え、種は同じで、蒔かれたことも共通しているけれど、結果が一様でなかったこと。種が蒔かれる目的は芽が出ることや根が生えることではなく、実を結ぶことであること。そして、締めくくりに、種が実を結ぶために必要なものはすべて、外から、神から与えられている。結果の違いは、私たちの聞く態度が持つ無限の可能性を現わしていると学びました。

今日の流れは、

今日は、4章に記されているたとえの残りの部分を扱います。

大項目としては、

Ⅰ. 続く4つのたとえの役割

Ⅱ. 種の成長についての特徴

Ⅲ. 究極のことばへの聞き方 

この3点でお話していきます。

Ⅰ.  続く4つのたとえの役割

 A. 個別のたとえの概要

前回ご一緒に学びました「種まきのたとえ」は、本編と解説編を合わせると17節分もある、大きなたとえでしたが、本日扱うものはどれも短いものです。しかし、若干の揺らぎはあるものの「またイエスは言われた」という表現で導入されるパターンをきれいに踏んでいます。まず、考えてみたいことは、前回のものも含めるとこれら5つのたとえはバラバラというか単発のものなのか、それとも一連の流れ、或いは一つのテーマ見たいなものが流れているのでしょうか。個別に一つ一つ大まかに捕らえ、続いて4つの関連性について考えていきたいと思います。

①明かりのたとえ(21~23節)

まず、21節から23節までが「明かりのたとえ」です。あまりに短いので、解説するにも、もう一度読むだけになってしまいますが、「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」それに対してイエス様が付けた解説は、「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められているもので、明らかにされないものはありません。」というのです。こちらの方が大切ですね。これは、「明かり」も「隠れている、秘められている、あらわにされる、明らかにされる」ということばも何の脈絡もなく、いきなり出て来たように思えますが、冷静に考えると、直前の種まきのたとえと関係があることがわかってきます。

明かりとは、種蒔きのたとえで言うと、種に中のいのちです。蒔かれた種にいのちがあるなら、そのいのちはいつまでも種の中で見えない、隠れた状態にとどまることはない。必ず、芽が出て、根をはり、実を結ぶというように成長を遂げて、あらわにされ、明らかにされる、ということでしょう。

②量りマスのたとえ(24~25節)

二つ目は、24節から25節までに書かれている「量りマスのたとえ」です。こちらも、先ほどの「明かりのたとえ」と同様、言いたいことの要点は最後に出てきます。「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」という部分です。これを説明するために「量りマス」の使い方が“たとえ”として使われているわけです。他人に対して厳しいマスの使い方をしていると、自分も厳しく図られ、人に寛大に量ってあげる人は、自分にも寛大に量ってもらえる、ということです。ただし、注目すべきことが一つその前についています。24節がパターン通り、「また彼らに言われた」で始まった直後に、「聞いていることに注意しなさい。」という少し、気になる言葉が挟まれています。これはいったい何なんでしょう。

これは、先ほど触れませんでしたが、「明かりのたとえ」の締めくくりの23節「聞く耳があるなら、聞きなさい」と、また、「種まきのたとえ」で繰り返されていた「み言葉を聞くと」と繋がっていることがわかります。自分の心と生涯に蒔かれた種であるいのちのみ言葉の価値をマスに入りきらないほどの山盛りにされた宝だとして聞くか、マス目を満たさない、「これっぽっちのもの」として聞くか。もし、山盛りの真理として聞くなら、真理や命が山盛りあなたに注ぎ込まれる。しかし、これっぽっちの価値しかないと取るなら、真理と命もあなたをそのように扱うことになる、というのです。

「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」というのは、少し、怖い、厳しい感じもしないでもありません。持っている人と、持っていない人がいれば、持っている人から少し取って、持っていない人に回してあげるのが愛なんじゃないですか?!と言われるかもしれません。

しかし、考えてみてください。どんなに雨がザーザーと降り注いでいても、逆さまにして置いてあるコップには一滴の水もたまりません。それは、雨が降り注いでいないからではなく、受ける方が受け取るのを拒んでいるからです。それは、雨の降り方に注文を付けてもどうにもなりません。コップを上向きにひっくり返すしかないのです。「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」という真理についても、与えたり、取り上げたりする側に文句を言ってもしょうがない面がこちら側にあることを知らなければなりません。

③ひとりでに成長する種のたとえ(26~29節)

次にひとりでに成長する種のたとえが26~29節に続きます。これは、種が出てくるたとえなので、「種まきのたとえ」との関連は容易に理解できます。ただし、このたとえでは、種は時間をかけてゆっくり成長すること。そして、人は種が成長していく現象を見守り、見届けることはできるけれども、どうして種が成長するか本当のところは知らない、ということを言っています。

確かに、人間は種を蒔くという作業をします、或いはその前に、土地に鍬を入れて耕すという労働もするでしょう。雑草も抜くかもしれません。水もやるかもしれません。しかし、おもちゃの種に同じことをやってもなんの変化も現れません。結局のところ、種が育つのは、人がお世話をするからではなく、種の中にいのちがあるからです。そして、そのいのちについて人間は何もしりませんし、関与できません。与えられて、成長を見守り、見届けるだけです。それを28節では、「地はひとりでに実をならせ」と表現しているのです。素晴らしい表現ですね。私が大好きな聖書のことばの一つです。

④からし種のたとえ(30~32節)

最後4つ目は、30節~32節にかけて書かれている「からし種のたとえ」です。これはすごくわかりやすい話です。からしの種は、ほんの小さな、種の中でも一番小さい部類に入るものですが、鳥が巣を作れるくらいにまで大きく成長する、というのです。

みことばの種も人の心という地面に蒔かれるときには、ほんの一言であるかもしれません。何十巻もある百科事典のような巨大な種で蒔かれるのではありません。そんな種は、人の心にも、思いにも、頭にも大きすぎて入って行くことはできません。

長くなりましたが、ここまで4つのたとえを個別に見てきましたが、貫いて流れるテーマ、関連性があるかないかについてはどうでしょうか。皆さんで、それぞれに感じ取っていただきたいと思いますが、私はこれらの4つは、はじめのたとえである「種蒔きのたとえ」の解説の続きだと考えております。

この5つは、一連の流れの中にあるたとえ、別の言い方をすれば、「種まきのたとえ」は、4章3節から始まって、今日のテキストの最後の34節まで着て初めて完結する長く、大きなたとえだと捉えることができるかと思います。

Ⅱ.  種の成長についての特徴

次に、その前提に立って、今日の4つのたとえから、種の成長に関する3つの特徴を見ていきたいと思います。

A. 時間をかけた成長

一つ目は「時間をかけた成長」ということです。種を蒔いたら、翌日には実がなっていた、ということは自然界にはありません。植樹をしたら次の日には大木になっていて家が一軒建てられたということもあり得ません。時間をかけて、ゆっくりと、順番通りに段階を踏んでゆっくり成長していきます。

神様は時間も創造されたお方です。時間は、種が成長するために必要なものとして、太陽、水、養分、などと共に必須アイテムとして組み入れられているのです。太陽がないと成長できないように、時間をかけなくては成長できないのです。

もちろん、成長に必要な時間の長短はいくらかあるでしょう。昔から「桃栗三年、柿八年」という諺がありますよね。今回、その続きで一番長いのを調べて見たら、こんなのがありました。「桃栗3年柿8年 梅は酸い酸い13年 梨はゆるゆる15五年 柚子の大馬鹿18年 みかんのマヌケは20年」。へーぇって感じですが、果物によって実がなるまでの時間は長いものもあれば短いものもある。ですから相対的に言って、「あっと言う間に実が実る」という感覚を持つこともあるでしょうが、それでもそれぞれの果物にとって、必要な時間とプロセスを経て実がなる、ということには変わりありません。私たち人間は、一足飛びの結果を求めやすいものですが、神様のデザインは、成長には必ず時間を要するということなのです。

 B. 小から大への成長

 二つ目は「小から大への成長」ということです。植物の特性の一つは、大地に根を張って動かないということです。そこが動物との違いです。蒔かれたところで大きくなるしかないと宿命づけられています。それでは、どのようにして増え広がることができるのでしょうか。地下に根を張り巡らして、近所に増え広がるという増え方もあります。

しかし、多くの場合は、実を結び、それが、或いはその中に種ができて、再生産されていきます。種は、それを生み出した植物全体からするとものすごく小さいものです。しかし、小さいがゆえに、持ち運びができて、あるいは貯蔵もできて、或いは風に飛ばされて、あるいは鳥に食べられて鳥のお腹の中で持ち運ばれて、というように次の生息地の可能性が大きく広がっていきます。それは、種が小さいからです。そして、その小さな種の中にいのちがあるので、小さな種は蒔かれたところで大きく成長し、自分を生み出したものと同じくらいにまで大きくなり、また、実を結んでいくのです。

小さく蒔かれ、大きく成長する。そしてその成長の結果、また、小さな種ができる。これも神様が不思議な不思議な知恵をもって定められた美しい“ことわり”です。私たちも、結果の大きさにだけ目が行きがちですが、目の前の結果を量ること以上に大切なことは、“いのちがあるかないか”です。いのちがあるなら“現時点での大きさは”問題ではないのです。いのちがあるなら、必ず成長するのです。

 C. 神の法則と成長

三つ目は「神の法則と成長」ということです。日本人は「八百万の神」を拝んでいると昔からよく言われます。木にも、山にも、岩にも、滝にも、キツネにも、タヌキにも、神が宿っているという感覚です。私は北海道のアイヌ民族の文化を保護・継承するために建てられたウポポイという国立の民族共生創造空間というところに行ったことがあります。そこで紹介されているアイヌの人たちの自然観、神観もそのようなものでした。

しかし、聖書の神観は少し違います。自然界にある多様性、美しさ、荘厳さを見る時にその一つ一つに神が宿ると感じるのではなく、そのすべてを知恵をもって絶妙の関係の中に配置されたお一人の偉大な神を感じるのです。

先ほども一瞬触れましたが、時も神様が創造されました。そして、神様はご自分が創造された時を運営していくにあたり法則を定められました。私たち地球上に生きている者たちにとって、自然の恵み、いのちの供給元はほぼ太陽に集約されます。太陽がなければ、地球上のどんな生き物もあり得ません。そして、地球がこれほど美しく、これほど多種多様な生命が生息していられるのは、太陽の大きさ、太陽と地球の距離などが、本当に絶妙な関係の中に配置されているから初めてあり得る奇跡の賜物です。

私たちは、種がなぜ成長するのか、その理由を本当にはしることができません。しかし、種の成長を見ながら、そこに配置されている太陽、時間、水、養分、その他すべてをお造りになり、絶妙に配置されている偉大で美しい神様の存在をしることができます。そして、その神様が私の成長に必要なすべてを与えて、共にいて見守っていてくださることがわかってきます。

Ⅲ.  究極のことばへの聞き方

ここまでお話をして、最後に短く、「究極のことばへの聞き方」ということに触れたいと思います。このマルコの4章に記されている5つのたとえを大きな一つの「種蒔きのたとえ」だと捉えた場合、その中で一番強調されていることはなんでしょうか。

それは、聞くことの大切さです。それは、「聞く」という言葉が繰り返し繰り返しでてくつという事実によって裏付けされています。結局、このたとえは「人が神のことばを聞く、その聞き方に注意しなさい」ということが言いたくて、そのために自然界から例をとって、たとえにしているのです。

そこで、私たちの心と生涯に蒔かれる種である「神のおことば」とは、一体何であるかを一歩踏み込んで考えてみましょう。神のおことばとは何でしょうか?それは、私たちが手にしているいわゆる旧新約66巻の聖書のことでしょうか。それもそうだと思います。私たちが家で個人的に読む聖書のことば、教会に来て礼拝や祈祷会など公の集会で開かれる聖書のことば、聖書の勉強会で学ぶ聖書のことば。どれもそうでしょう。

しかし、それは、まだ究極ではありません。究極の現れでしかありません。神の究極のことばは文字となった聖書ではなく、人となった御子イエス・キリストです。文字となった聖書も語ります。絵も、詩も、音楽も多くを雄弁に語ります。しかし、人となられた御子イエス・キリストはすべてにまさって神のことば、みことばの種そのものです。

もし、私たちが偶然の積み重ねによって、物理法則だけが支配する世界に住んでいるのではなく、知恵と配慮と愛に富んだ唯一真の神がおられ、すべての自然界も、自分も、自分の周りの人々もすべて、神様がお造りになったことを自分の霊で認めることができるのなら、私たちの生き方は、その神様の“究極のことばである、人となれたイエス・キリスト”に聞くこと以外にはあり得ないことがわかってきます。しかも、ただ聞くだけではなく、注意深く聞く、聞き方に注意して聞く、聞いた内容に最新の注意を払う、という聞き方が当たり前になってくるのです。

33節に、「イエス様は、このように多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。」とあります。「聞く力」も小さく蒔かれ、時間をかけて大きく成長していくものです。イエス・キリストというお方からもっと多くの大切なことが聞こえてくる者となりたいです。イエス・キリストというお方から、「神はその独り子を賜ったほどに私を愛していてくださる」という一番大切な声が、もっと確かに聞こえてくるようになりたいです。

 一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、マルコの福音書4章に記されている後半のたとえについて学びました。どうぞ、神の究極のことばであるイエス・キリストに聞く畑が耕されていく今週を辿らせてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。