「マルコの福音書を学ぶ」⑯

□2024-09-15 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書4:1-20

□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑯「イエスのたとえ①」

導入

  • 前回の復習

前回の15回目は、3章の20節から35節までのところをテキストに「イエスの周りの人々②」と題して語りました。前々回は、群衆と12弟子という対象的な登場人物、前回はイエスの身内の者たちと群衆、あるいはイエスの身内の者たちと律法学者たちという、これもまた対照的な登場人物が出てきました。そして、前々回と前回の比較を少し考えました。そして、二つの「だれでも」、すなわち「聖霊を冒涜する者はだれでも」と「神のみこことを行う者はだれでも」という対象的な「だれでも」を取り上げました。そして、最後に、イエスを誰とするかという観点から考え、「イエスを中心にする」か「外に立って、イエスを連れ戻そうとするにか」という問いをもって、締めくくりました。

今日の流れは、

今日から4章に入ります。4章の1節から34節までのところには、5つのたとえが連続して記されています。今日は、簡単なたとえ全体の導入と4章に出てくる一つ目のたとえを取り上げたいと思います。

大項目としては、

Ⅰ. たとえという語り方

Ⅱ. 種まきのたとえ

この2点でお話していきます。

Ⅰ.  たとえという語り方

 A. イエスの教えの特徴の2番目

マルコの福音書は、他の福音書と比べてイエスの教えには、文字数を使わない福音書です。マタイの山上の説教のないし、ルカの放蕩息子のたとえ、ザアカイの回心物語、ヨハネの「わたしは〇〇です」シリーズもありません。マルコがイエスの教えとしてまとまって紙面を割いているのは、この4章の5つのたとえと13章の終末預言の教えの二つだけです。

マルコにはこれまで、イエスの教えに対して「権威ある新しい教えだ」(1:27)という言い方が出てきています。これが、マルコにおけるイエスの教えの特徴の1番目でが、今回扱う、たとえという語り方が第2番目の特徴です。あの人は冗談しか言わない、という人がいると思いますが、イエス様に対しては、「あの方はたとえでしか語らない」という言い方が当てはまるほど、イエス様はたとえを多用されました。

 B. 二正面作戦

そして、次にイエス様のたとえの特徴を見ていきたいと思いますが。その一つ目は、イエス様のたとえは二正面作戦だった、ということです。一つ目の正面は、「わからない人にはわからないように」ということです。10節から12節をもう一度お読みします。

「10さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。12それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」」

11節によると、「たとえで語る」というのは「神の国の奥義が与えられる」の対義語として使われています。弟子たちには、直接「奥義」を語れるけれども、外の人にはそれが出来ずに、次善の策のようにして「たとえで語っている」というような言い方です。

しかし、その後まで読んでいきますと、「アレッ」と思うことが出てきます。「たとえ」ではなく上級編の「奥義」で語ってもらえるはずの弟子たちが、初級編の「たとえ」を理解できないでいる、という実態があります。

ですから、あまり単純には解釈できない箇所ではありますが、少なくともイエス様がたとえで語られた目的の中には、「わからない人にはわからないように。」もう一言いうと、「わかったような気にはなるけれども本当のことはわからないままに」置く、という目的があるということです。

二つ目の正面は、真理をわかりやすく語るという面です。たとえば、アボガドという野菜をまだ一度も食べたことのない人にアボガドをどうやってわかってもらうでしょうか。たとえば、「バナナのようにクリーミーで、キュウリのようにさっぱりと淡泊で、ナッツのように脂肪分が豊富で、トマトのようにサラダや料理の素材として使われる」と表現することができるでしょう。アボガドは知らない、けれどもバナナとキュウリとナッツとトマトは誰でも知っているので、知っているものを使って知らないものを表現して伝える、それがたとえのもう一つの使命です。

 C. 日常生活に根差したネタ

「たとえ」をギリシャ語で言うと「パラボレー」となります。そして、その意味は「傍らに置かれたもの」ということです。神の国の傍らに置かれた地の国の物語。真理の傍らに置かれた生活のストーリーです。さきほど、「すでに誰もが知っていることばを使って」と言いましたが、どうして「すでに誰もが知っている」のかというと、それは誰もが普通に生活しているときに経験している生活上のシーンを題材にしているからです。農業のこと、家事のこと、お金のことなど、イエス様が話されたたとえはみな生活密着型です。

ユダヤ人は、歴史的にたとえで話すということは昔から行っていました。また、ユダヤ以外の文化の中にもたとえの名手はいます。たとえば、プラトンには、真理と現象の関係を現わした「洞窟のたとえ」という有名な話があります。ですからたとえは、イエスに始まったわけではありません。しかし、そうは言っても、イエスは質・量ともに断トツで歴史上最高のたとえの語り手だということができると思います。

 イエス様のたとえの特徴は、生活密着生と素朴さです。そのわかりやすさと同時に、聴いた人に決断を迫る不思議な効果です。

 D. 会堂を追放されたがゆえの野原でのたとえ

「たとえという語りかた」について最後にもう一つだけ心にとめておくべきことがあります。それは、マルコの福音書を1章、2章、3章、4章と読み進めていくとその文脈からわかることです。それは、この生活の現場からネタを得て、たとえで語るという手法は、ユダヤ人が正当と考えていた会堂で語るということをイエスが出来なくなったから始めたという要素があるということです。3章の初めの所で安息日の会堂の中で、イエス様は片手の萎えた人を癒されました。それで、6節に「パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ペロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。1章の21節のところでは、会堂で教えられて「権威ある新しい教えだ」と皆から驚嘆されたのですが、もはや、6章の郷里ナザレでのたった一回の例外を除いては、会堂で教えることが出来なくなったのです。

しかし、群衆はイエス様を追ってイエス様のおられるところどこででも群がってきます。そこで、イエス様は湖畔に小舟を浮かべ、舟の中から語られたのです。その時の語り方が、たとえだったのです。

Ⅱ.  種まきのたとえ

「たとえ」についての一般的な話はここまでにして、4章の最初に出てくる「種まきのたとえ」に入って行きたいと思います。今、私は「種まきのたとえ」と言いましたが、聖書原典には、見出しはついていません。新改訳聖書も章立てはしていますが、見出しはつけておりません。それに対して、他の翻訳は日本語でも英語でも翻訳者が多くの場合、見出しを付けます。「種まき」という作業、「種をまく人」、種が蒔かれる地面とか畑、どこにスポットを当てるかによってたとえの名称が微妙に違ってきます。今回、わたしは特にこだわりなく「種まきのたとえ」と呼ばせていただきます。

どこにポイントがあるかということも、一様には決まっておらず、聴く人の聞き方による部分が大きいというのも、たとえの特徴の一つだと言えます。

 A. 最も代表的なたとえ

 この「種まきのたとえ」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に出てきて、しかもイエス様ご本人による詳しい解説がついているという、まことに行き届いたたとえです。13節にイエス様が「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。」と仰っています。ですから、この「種まきのたとえ」は多くあるたとえの最も代表的なもの、基本のキ、と言えます。

 B. このたとえから学ぶべきこと

今回は、種が落ちた四種類の地面の違い、それぞれの困難、などの細部に立ち入ることはいたしません。このたとえ全体を大きく捉えて、学ぶべきことをいくつかピックアップしたいと思います。

1. 結果は一様ではない

14節でイエス様は、「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」と解説を始めました。その後の20節までの解説部分で、道端、岩地、茨の中、良い地の四種類のケースを語っていくなかで、必ず繰り返されているのは、「みことばを聞く」という表現です。逆に言うと、四つのケースで「みことばを聞く」ということは共通しているのです。しかし、その結果は、一様ではありません。バラバラです。良い畑と呼ばれる地面でも収穫は同じではなく、30倍、60倍、100倍と大きく違っています。

更に、「種が蒔かれる」その作業が一様なだけではなく、種も同じものが基本的には蒔かれたと考えるべきです。「同じ」みことばを皆が聞いた。しかし、結果はまちまちだ、バラバラだ、千差万別になる、というのがこのたとえの学ぶべき要点の一つ目です。

2. 種蒔きは発芽のためではなく結実のため

次に、四種類の地面で蒔かれた種がどこまで成長したかを簡単に比較してみましょう。一つ目の道端は、何も起こらずでした。二つ目の岩地は、発芽まででした。そしてもう一言加えられているのが「根づかず」という言葉です。三つ目の茨の中は、「実を結ばなかった」とだけ書かれていますが、流れから推測するに、発芽はし、根も少し生えたと思われます。しかし、実を結ぶまでには至らなかった。

種が蒔かれた目的が発芽なら、道端以外は合格です。もし根が生えることなら、茨まで合格でしょう。しかし、種が蒔かれる唯一の目的は実を結ぶということです。私たちの生涯という神に与えられた畑である土地も、そこにみことばの種が蒔かれるのは、聞いて実を結ぶことが期待されてのことです。それが唯一の目的です。聖書を学んで、知識が増えるためでもありません、聖書を学んで精神的に強くなるためでもありません。

3. 実を結ぶとは

自然界の現象から言えば、実を結ぶとは、種の再生産です。また、食べたものにエネルギー、いのちを供給することです。種をみことばに置き換えて考えるならば、神のことばが本来持っている力がありのまま発揮されることです。み言葉が蒔かれた地面である、私たちの生涯が自分のために存在するのではなく、神の使命を果たし、他者を活かすために存在することです。

4. 実を結ぶために必要なもの

実を結ぶために必要なものとは何でしょうか。種の中にあるいのちそのもの、太陽の光、水、養分などでしょう。養分は土の中にありますが、それ以外のものは、すべて外から来ます。しかし、今回のたとえでは、土の養分、すなわち土地が肥えているか痩せているかは問題になっていません。土地として問題になっているのは、硬さ、不純物、生えている他の植物などです。それらによって差が出ていきます。

種が実を結ぶために必要なものは、すべて神様から、外から、供給されるのです。しかし、聞く側の態度によってその後が変わっていくのです。逆に言うと、私たちのみことばに聞く姿勢には、無限の可能性が秘められているのです。しかも、その可能性は、聞く私たちの側の能力の可能性ではなく、みことばが真理であることから来るの可能性。みことが私の生涯で実を結ぶために必要なすべてを神様が与えてくださっているという外からの供給の十分さから来る可能性なのです。

この可能性にこれからお互い、全体重をかけて行こうではありませんか。

 一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、マルコの福音書に記されている本格的な最初のたとえを学びました。私たちが聖書のみこばを聞くことがどんなに大きなことであるか、素晴らしい可能性を秘めたものであるかほとんどわかっていない者です。どうか、私たちの心を耕し、みことばの種が、目を出し、根を張り、困難や誘惑にふさがれず、30倍、60倍、100倍の実を結んでいくことができるように、助け導いてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。