□2024-09-08 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書3:20-35
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑮「イエスの周りの人々②」
導入
- 前回の復習
前回の14回目は、3章の7節から19節までのところをテキストに「イエスの周りの人々」と題して語りました。イエス様は押し寄せる群衆とは距離を取られましたが、特別な12人を選んで弟子として、みもとに置かれました。そして、その12弟子たちですら福音も、イエス様のこともまだよく理解していなかった、という話から福音の奥深さに切り込んでいきました。
今日の流れは、
今日は、3章20節から35節までのところを扱います。
ポイントとしては、
Ⅰ. 前回との比較
Ⅱ. 二つのだれでも
Ⅲ. イエスを誰とするか
この3点からお話していきます。
Ⅰ. 前回との比較
A. 前回
2回連続で説教題は「イエスの周り人々」で、今日は「その②」といたしました。前回は、群衆と12弟子という対象的な2週類の人々が登場してきました。イエス様は、癒しを求めて押し寄せる群衆には、安全確保のこともあって小舟を用意して、距離を取られました。しかし、限定12人はいつもそばに置き、共にいることでしかできない人格的な交わりを望まれました。
B. 今回
それに対して今回のテキストの登場人物はどうなっているでしょうか。イエス様の身内の者、あるいは家族とエルサレムから来ていた律法学者たちの二種類です。
20節に「さて、イエスは家に戻られた」とありますが、この家とは一体どんな家なのでしょうか。復習になりますが、実は、2章の一節にも同じような表現があります。そちらは、「数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。」とあります。からさて、多くの学者は、この2ヶ所に出てくる家とは、ペテロに家だと考えているようです。2章で屋根に穴開けられちゃったんですが、このときもう修繕は住んでいたのか少し気になるところですね。
そこに群衆が再び集まって来たとあります。中風の人が4人の友達に運び込まれてきたあの2章の記事の出だしと同じです。もしかしたら、ペテロの家は大勢が集まれるくらい、広い裕福なおうちだったのかもしれません。
そこに、イエスの身内の者たちがイエスを連れ戻しに来たと話が進みます。皆さんは、家族の誰かをどこかに連れ戻しにいった、あるいは自分がどこかに行っていて家族に連れ戻された、という経験はあるでしょうか。私は、真ん中の息子が中学生のときに、学校の友達の家に上がり込んで入り浸ってゲームをするという生活スタイルになったとき、意を決して、連れ戻しにいったことがあります。イエス様の身内の人たちがイエスを連れ戻そうと思った理由は、21節の終わりに書いてありますが、「イエスはおかしくなった」という噂が伝わってきたからです。
まず、詳しく見ていく前に、今日のテキストの構造について一言触れておきたいと思います。イエス連れ戻し作戦の話がここまで進んだところで、聖書の記事は突然、別の話が割って入ってきます。そこに登場するのが、エルサレムから下って来た律法学者たちです。彼らとの間にひと悶着、これを通常「ベルゼブル論争」と言います、があって、31節からまた身内の者によるイエス連れ戻し作戦の話にもどります。連れ戻し作戦-ベルゼブル論争-連れ戻し作戦と並んでいるわけで、これは、マルコが何回か使っているサンドイッチ構造で二つの出来事を記すという手法が使われています。
サンドイッチでもよいのですが、私は「どら焼き構造」と名前を付けておきたいと思います。一つ一つとても思い重要な内容を含む記事なのですが、どういうわけか福音書記者は一つ一つを丁寧に描写するということをせず、あえて、二つをどら焼きのように外側の記事と真ん中のアンコのように配置して、別々に食べてもらうときには醸し出せない、いっしょに食べるおいしさを追求しているかのようです。
前回との比較ということからもう一度、今日のテキストを見直すと面白いことに、前回とは対照的な構図になっていることがわかります。それは、前回は群衆から距離を取り、12弟子をみもとに置いたのに対して、今回は群衆を自らの家族だと呼び、逆に実の肉親たちに対しては一見「冷たい態度」を取っておられるからです。
Ⅱ. 2つのだれでも
大きな二つ目のポイント、「2つのだれでも」に進んでいきます。3章29節のところに「だれも」、35節に「だれでも」ということばが出てきます。新改訳聖書ですと、2017年版では、29節は「だれも」となりましたが、その前の第3版では、こちらも「だれでも」なっていました。原語のギリシャ語では同じことばですから、あえて別の訳語を使う必然性はありません。今回の説教では、便宜的に二つの「だれでも」があるとして読んでいきたいと思います。
A. だれでも赦されない
一つ目の「だれでも」を見ていきたいと思います。そのためには、先ほど簡単にしか触れなかったアンコの部分の22節から30節までのところを詳しく見ていく必要があります。
場面設定としては、カペナウムの、多分ペテロの家でイエス様、お弟子さんたちそして、それを取り囲む大勢の群衆が集まっていたというところです。その中に、ユダヤから下って来た律法学者たちもいたというのです。律法学者という表現は、マルコにおいてはここで4回目。やはりすでにマルコに4回出てきているパリサイ人という表現とほぼ同義語と考えてよいでしょう。これも繰り返しになりますが、2章の中風の人が癒された話でも、律法学者たちはこの家の中に座っていました。すでに常連さんになっていたようですね。
彼らは、目の前でイエスが病人を癒し、悪霊を追い出しているのを見ています。ですから、その事実を否定することはできません。そこで、彼らは、その事実を引き起こしているイエスの権威にイチャモンを付けたのです。
簡単に言うと、イエス様を悪霊の親玉呼ばわりしたのです。イエスが悪霊を追い出すことができるのは、実は、イエスが悪霊の親玉だからなんだ。悪霊の親玉の権威で、子分の悪霊たちを追い出しているに違いない、という論理です。イエス様は、このものの言い方をスルーなさらないで、思いっきり厳しく糾弾されました。あの柔和なイエス様が「悪口なんて言いたいやつにはいくらでも言わせておこう。どうせ、真理が勝つのだから。どっしり構えていればいいんだ。」などと仰らなかったのです。
まず、端的にたとえを用いて論駁されます。もし、あなた方の言っているような事態なら、それは、すでにサタン陣営に分裂が起こっていることになり、組織に内部分裂が生じたら、その組織は時間の問題で消滅する以外にはない。聖書にはそこまでしか書いてありませんが、もし付け足すとすると、「しかし、サタンの働きは今も続いているし、わたしも滅びない。だから、あなたの仮説は成り立たない。」ということでしょうか。
しかし、イエス様の言葉はそこで止まりません。27節からたとえの第二弾がはじまります。これが少し、イエス様らしくない、というか、「こんなたとえ語ると、イエス様の品格に傷がつかないか?」と勝手に心配になります。
27節をお読みします。「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」まるで、イエス様は、強盗の一番効率的なやり方をご存じで、経験もあるような語り口です。
このところについてある人がこう解説していました。「私たちは、みなサタンに拉致されて、サタンの家の家財道具として陳列されていたようなものです。それをイエス様がサタンより強い力でサタンを縛り上げて、私たちをサタンの家の中から解放してくださったのだ。」と。とても鋭く言い当てていると思います。
そして、イエス様はそれに続いて、とても厳しいことを言われました。28節と29節をお読みします。「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし、聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
ここは、難解なところです。表面的には、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神が珍しくはっきりと3者そろい踏みをしていて、その中で父に対する冒涜と、御子に対する冒涜は赦されるけれども、聖霊に対する冒涜は赦されない。ああ、三者の中で一番、影が薄く、地味だと思っていた聖霊が実は一番偉かったのか-?!ってな話に読めなくはありませんが、そういうことが言われているのではありません。
罪の赦しは三位一体の神が三者ともに全力を尽くし、そのすべてが合わさって実現するものです。そしてそもそも罪とは、神に対する反逆ですが、その場合の神は三位一体の神であられ、父、御子、御霊のどれかだけに対する反逆というのは、理論的にあり得ません。では、ここでは何を言っているのでしょうか。サタンに拉致されてサタンの家の家財道具にされていた私たちのところに解放者がやって来て、父・御子・御霊の総合力でサタンを縛り上げ、「さあ、あなたはもう自由だ、わたしと一緒にここから出よう」と声を掛けられたのに、「いや、お前は私をだまそうとしている。お前はやっぱりサタンの手下で、そんなことを言って、わたしをもっとひどい所に連れて行こうとしているに違いない。私は、ここを動かない!」と言っているようなものです。最終的に、私たちに解放を告げ、「一緒に出よう」と声を掛けてくださるのが、聖霊の役割なのです。その聖霊の働きを拒むなら赦しはあなたのものになるない、と言っているのではないでしょうか。
B. だれでも私の家族なのです
次に、二つ目の「だれでも」に目を移しましょう。31節からアンコを突き抜けて、裏側のドラの部分に出てきます。31節からの内容を詳しく見ていきましょう。先ほどの21節では、「イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた」となっていました。そして、31節には「さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て」となっています。ですから、先ほどまで見ていましたアンコの部分、律法学者たちとのベルゼブル論争をしいている間に、イエス様の身内の人たちの移動が完了して、到着したのかもしれません。
その家はすでに大勢の人であふれていました。イエス様の身内の人たちは、あの中風の人を運んできた四人の友達と違って、品がよかったのか、屋根の一部をはがして、上から「イエス、こら、何しとん。家さ、ケーレ!」などと叫ぶことはしませんでした。ちゃんと人を送って、自分たちが到着したことを中のイエス様に伝えてもらったわけです。
戻りますが、20節のところには、「イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった」とあります。ですから、イエス様は、家族の到着を聞いて、「家族が心配して、ここまで来てくれたんだな。一休みしろ、てことだろう。」と思って、ブレイクにして、家族のところに行って、「ごめん、ごめん、心配かけちゃった。でも、大丈夫だから心配しないで」などといった普通の会話にはなりませんでした。
イエス様は、33節「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と問いを発せられました。そして、こともあろうに、心配になって駆け付けてくれた家族に対して、言外に「血が繋がっているからと言って、それが本当の家族のしるしというわけではない」と一見、冷たい態度を取られたのです。
そして、それと対照的に、自分を取り囲んで座っている群衆を見回して、「こ覧なさい、わたしの母、兄弟たちです」と言われました。
Ⅲ. イエスを誰とするか
さて、最後の三つ目のポイント「イエスを誰とするか」に入って行きたいと思います。それでは、イエス様から「これぞまさしくわたしの家族なんだ」と言ってもらえる人とはどんな人たちなのでしょうか。
- 神のみこころを行う人
その条件は、最後の35節にはっきりと書いてあります。「だれでも神のみこころを行う人は」ということです。しかし、ここで、前回と同じように、私のあまのじゃくさを少し発揮してみたいと思います。
では、その時、ペテロの家でイエス様を中心に座り込んでいる人たちは、何か「神の御心を行う」という条件に合うようなことをいつかどこかでしてきた人たちなのでしょうか。冷静に考えると、そんなことは全くないですね。彼らの多くは、ガリラヤの田舎に住んでいる群衆で、イエスに病気を癒す力、悪霊を追い出す権威があることを聞いて群がって来た人たちです。ただ、それだけです。
それに対してイエス様の肉親たちは、何か落度があったのでしょうか。当然していなければならないことでしていないことが何かあるでしょうか。そういうことでもありません。
B. イエスを囲んで
しかし、ここに象徴的な絵があります。イエス様から、「彼らこそ私の家族なのだ」と言ってもらった人たちは、イエス様を中心にイエス様を取り囲んでいた人たちでしいた。それに対して、肉親たちは、家の外に立ち、人を介してイエスにコンタクトしているのです。そして、その目的は、イエスを連れ戻すことでした。自分たちが正常だと考えているところに、行き過ぎてしまっているイエスを連れ戻そうとしているのです。
イエスを囲んで座っていた人たちは、その逆の発想をしていた人たちです。イエスを連れ戻すのではなく、自分たちがイエスに連れ戻してもらったという意識です。サタンの家からイエスに解放してもらって、連れ戻してもらった、それが自分だ、という意識です。
ここに、イエスが言う本当の家族の繋がりがあります。サタンの家から、イエスが中心にいる家に移された。だから、いつでも、いつまでもイエスに中心にいてもらいたい。そして、イエスに食事の暇を与えないほどに、イエスにお世話になっていたい。それが家族の繋がりなのです。
マルコの福音書を読み解く一つの重要なカギは「イエスを誰とするのか」ということだと、これまでも度々申し上げてきました。今日のところでは、「イエスを連れ戻す必要のある、行き過ぎた人」とするのか、「サタンを縛り上げて、私を解放してくださった私の中心」とするのか、で読み解くことができるかと思います。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、カペナウムのペテロの家で群衆に取り囲まれていたイエス様の所に、肉親が連れ戻しに来た、そして、律法学者がイエス様を悪霊のかしら呼ばわりした記事を学びました。
イエス様を私たちの常識の中に連れ戻すのではなく、常識を遥かに超えた愛によって私たちをサタンの家から解放し、イエスを中心に座る者としてくださった方を主とする生活をおくることができるように助け導いてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
