□2024-09-01 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書3:7-19
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑭「イエスの周りの人々①」
導入
- 前回の復習
前回の13回目は、2章の23節から3章6節までのところをテキストに「人の子は安息日にも主」と題して語りました。安息日を守るという神様から来た良いものを大切にする熱心さの余り、その意図から最も外れてしまうという人間の愚かさ。そして、殺される路線にやすやすと載せられていくイエス様の愚かさ。そしてそのお愚かさを飲み込んで初めて発揮されるイエス様の知恵について、最終的には学びました。
今日の流れは、
今日は、3章7節から19節までのところを扱います。
ポイントとしては、
Ⅰ. みもとにやってくる群衆
Ⅱ. みもとに呼び寄せられた12弟子
Ⅲ. 複雑な弟子たち
この3点からお話していきます。
Ⅰ. みもとにやってくる群衆
A. 会堂から追い出された結果の群衆
まず、みもとにやって来る群衆ということから考えていきたいと思います。群衆という言葉は、新約聖書、特に福音書を読んでいくときの一つの重要なキーワードです。新約聖書で170回使われています。その内、福音書に144回。マルコは比率から言うと、他の福音書より多めで36回使われています。マルコで群衆という言葉がはじめて出てくるのは、2章4節です。マルコの初めの方に出てくる群衆は、癒しを求めてやってくるガリラヤの人々でしょう。マルコに出てくる最後の群衆は、15章15節にあります。イエス様に無罪判決を出す総督ピラトを押し切って十字架刑をもぎ取る圧力をかけたのが群衆でした。もちろん、同じ群衆ということばで表されていても、地域も違いますし、集まっている目的も違います。構成メンバーも大部分は重なっていなかったでしょう。しかし、いずれにしろ、イエス様の地上生涯は、いつも群衆に取り囲まれながらの3年半だったということは興味深いことです。それを現代に当てはめるとどうなるか、ということが一番大切でしょうが、今日はそこまでは入って行きません。
さて、前回のところを思い出していただきたいと思います。前回は、ガリラヤ湖に近いカペナウムという町の会堂が話の現場でした。安息日に会堂の中にいた片手の萎えた人をイエス様が癒されたために、パリサイ人たちとペロデ党の者たちがイエスを殺すことで一致したという流れでした。本日のテキストの初め、7節を見ますと「それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた」とあります。ある注解者は、このところを「会堂の中から青空のもとへ」移動したのだと解説していました。すると、イエス様のところに人々が集まって来たのです。7節と8節に一度ずつ、「非常に大勢の人々が」という表現が出てきます。
そしてそれらの人々はどこから来たのかというと、簡単に言うと四方八方から集まって来たのです。ガリラヤは地元。ユダヤは中央。エルサレムはあらゆる権威と歴史の中心地。イドマヤは、南の隣国、ヨルダンの川向うは東の隣国、ツロは西方、シドンは北方の隣国です。日本は珍しく国をすべてを海で囲まれている島国ですから、国境を越えて四方八方から外国人も含めて群がってくるということは考えにくいかもしれません。しかし、陸続きの国ならこれが当たり前でしょう。
B. 距離を取るイエス
さて、そのように押し寄せてくる群衆に対してイエス様はどのように接しられたでしょう。一言で言うと、「距離を取られた」ということになります。9節に面白い表現があります。「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくように、弟子たちに言われた。」2年前に韓国ソウルの梨泰院という繁華街で群衆雪崩で159人が圧死するという痛ましい自己がありました。イエス様は、ご自分や弟子たちの安全を確保する必要を感じて、小舟に乗って群衆から距離をとることを考えられました。
福音書を読むと、イエス様は病の癒しを求めてくる人を拒むことはされません。ある人を癒して別の人は無視するというような選別をされません。ですから、可能な限りすべての人に触れて癒されました。しかし、人の子イエス様には限界があります。イエス様の働きは、どうしても群衆が集まってきてしまうのですが、同時に群衆に取り囲まれては果たせない使命があったのです。そのために、距離を取られました。
C. 語ることを禁じるイエス
また、群衆の中には、汚れた霊ども、あるいはそのような霊に取りつかれていた人々も含まれていました。汚れた霊どもはイエス様に対して、「あなたは神の子です」という、まだ弟子たちはだれもそこまで到達していない告白をいきなりしてきます。しかし、イエス様は、「ご自分のことを知らせないように、彼らを厳しく戒められた」と12節にあります。これまでも度々出てきている「メシアの秘密」と呼ばれる箝口令(かんこうれい)です。
イエス様の宣教のお働きは、単なる情報伝達ではありません。人格に働きかけるものです。「あなたは神の子です」ということがたとえ客観的には正しい情報だとしても、それを悪霊が媒介となって広まったのでは、御国の福音宣教にはマイナスでしかないのです。
イエス様は、そういうことを積極的には後押ししないという「まあまあやめとけ」といったレベルで禁止したのではなく、「厳しく戒められました」のです。
Ⅱ. みもとに呼び寄せられる12弟子
次に、これらの群衆と対照的な人たちを見ていきたいと思います。13節のところからいわゆる12使徒の任命の記事が書かれています。
A. イエスが呼び寄せられた
13節の最後のところに「彼らはみもとに来た」という表現がありますが、8節の最後にも群衆に対して「みもとにやって来た」とほぼ同じ表現が使われています。しかし、決定的な違いは、群衆は自分たちから押し寄せて来たのに対して、12弟子たちは、イエスに呼び寄せられたとあるのです。イエス様は群衆に対しては距離を取られたのに、この12人に対してはご自分の方から呼び寄せられたのです。
13節からのところを少し詳しく見ていきしょう。イエス様は「山に登り」とあります。群衆から更に距離を取られました。そして、次に「ご自分の望む者を呼び寄せ」とあります。ここに選定があります。12人以上の候補の中から12人を特別に選ばれたのです。そして14節には「任命し」とあり、更に「彼らを使徒と呼ばれた」という特別な命名をされたのです。このように、この12人は、選定、任命、命名とかなりの特別扱いを受けています。現代の学校の教室に置き換えて考えると、「ひいきする先生」として教育委員会に訴えられるかもしれません。
B. そばに置くため
そして、そのような特別扱いを12人に対してなされた理由が書かれています。その一つ目は14節の真ん中当たりに出てきます「彼らをご自分のそばに置くため」ということです。原語では日本語訳の「そば」に当たる「距離的な近さ」を現わすことばは特に使われていません。もとの意味は「共にいる」ということです。人の子であるイエス様は、群衆すべてと共にいることはできません。しかし、限定12人とならそれが可能で、それを望まれました。
メールと手紙のことを考えてみましょう。メールなら、一つの本文を書いて、同時に何人もの人々にボタン一つで発信できます。そして、受け取る人々には一字一句違わぬ同じ情報が届きます。しかし、手紙はそうはいきません。自筆で書ける手紙の枚数には限りがあります。手で書いた手紙には、文字情報以上の様々な人格的情報が載せられます。文字の温もり、インクの色、便箋の紙質、封筒のセンス、どんな切手が貼られているかも大いに物語ります。
一人の人が丁寧に、心を込めて接することのできる人数にはおのずと制限があるのです。神の子であるイエス様も人の子となった以上、その制限の中におられたのです。一言で言うと、イエス様は四六時中一緒にいることによってのみ可能な人格的関わりをこの12人と持つことを決められたのです。
B. 遣わすため
しかし、本当の目的はそこにはありません。「一緒にいるようにするため」というのは、次に来る本当の目的のための準備なのです。本当の目的は「遣わすため」です。14節の終わりから「また彼らを遣わして宣教させ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」とあります。
イエス様が12弟子を遣わす目的はさらに2つありました。一つは、宣教をさせること。マルコのこれまでの文脈から言うと、「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というイエス様が伝えた同じメッセージを彼らの伝えることです。
そして、二つ目は、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」です。悪霊を追い出す権威は、どんな人間ももっていません。その権威をイエス様が12使徒たちに持たせるということは、12使徒たちが12使徒たちとして出ていくのではない。イエス様の名代として出ていくということです。平たく言うと、イエス様一人で回れる範囲は限られているけれども、12人がイエス様の名代として出ていくならば、13人のイエスが出て行っていることと同じになるということです。そして、現代に生きる私たちクリスチャンも、現代に遣わされているイエス様の名代です。
Ⅲ. 複雑な弟子たち
残る時間、最後3つ目のポイントとして「複雑な弟子たち」ということをお話したいと思います。
- 12弟子の構成
今日はここまで、群衆と12弟子たちがイエス様から対照的な扱いを受けているということを学んできました。それだけですと、なんだか、この12人が特別なエリート集団のように思えてきますが、実際には、そのまるっきし正反対です。
1. ただの人々の集まり
16節から19節にかけて12人の名前が列記されています。ある学者は言いました。彼らの特徴は、「ただの人たちの集まり」だということです、と。私たちの社会で「○○推進本部」というようなものが組織されるとしたならば、学識経験者、その道のプロ、実績を上げた人、法律家、他分野で目立った功績のあった人など、実力、実績、影響力、実務能力、人脈などを持った人々が招集されます。それらの要件を何一つ満たさない人ばかりを集めるということは考えられないことです。
しかし、イエス様は、なんとそれをやってしまわれたのです。この世に神の福音を伝えるというこれ以上大切な働きはないというミッションを果たさせるために、ご自分の名代として遣わす人々の集団を一人目から最後の12人目まで、普通の人、ただの人で埋め尽くしたのです。教育もない、経験もない、実力もない、実績もない、ないない尽くしの12人です。
2. 右から左まで
更に、この12人は、右から左まで多種多様な、雑多な、まとまりのない人々の集まりだったのです。侍ジャパンの監督になった人は、コーチ陣を集めます。前回のWBCの時を例に取ると、ヘッドコーチ、打撃コーチ、外野守備・走塁コーチ、投手コーチ、ブルペン担当コーチ、内野守備・走塁兼作戦コーチ、バッテリーコーチの7人のコーチがいたそうです。その内の5人が栗山監督と日ハムで一緒だった人選だったそうです。七人のコーチは、栗山監督が考える野球を理解し、それぞれの担当分野においてベストを尽くすとともに、他の分野を担当しているコーチとも最高度のチームワークを働かせないと侍ジャパンは打って一丸となって勝利することができません。
しかし、チーム・イエスの12人はバラバラだったのです。その最たる取り合わせの例が、すでに「取税人レビの召命」のところでお話しましたように、売国奴とののしられた取税人出身のマタイと狂信的な愛国主義者を意味する熱心党のシモンがイエスの呼び寄せられた12人のメンバーに同時に入っていたことです。
B. イエスの不思議
しかし、12人の弟子たちについて不思議なことはそれだけではありません。もっと本質的な不思議があります。先ほどの最初のポイントのところで見たように、イエス様は汚れた霊どもには箝口令を引かれました。しかし、この12人には、積極的に福音宣教のために派遣されました。それでは、この12弟子たちはその任に当たるに十分な福音の理解、或いはイエスがどんな方で、どんな使命のためにどういう生涯をこの地上で送ろうとしておられるかについてキチンとして理解があったのでしょうか。
福音書を読んでいくと、そうではなかったことがわかってきます。実は、12弟子に選ばれ使徒という特別な名称まで付けてもらった人々でさえ、肝心なことは理解できていなかったのです。端的に言うと、イエス様が十字架について死ななければならない、ということを理解できなかったのです。彼らはイエス様が殺されずに、反対勢力を抑え込んで王となり、更にはローマからも解放するという勝利の王としてのイメージを読み込んでいました。そして、自分たちには、そのような方の最側近であるという自負心がありました。
イエス様は、そのような基本的なところがわかっていない彼らを、ある意味平気で、わかっていないまま遣わされたのです。彼らは、後日、福音宣教と悪霊追放ということに関しては成功して実績を引っ提げてイエス様のもとに帰ってくることができました。しかし、十字架にはついて行けず、みな逃げ出したのです。そうすると、普通に考えると、イエス様は人選に失敗された、ということにならないでしょうか。
C. 福音の不思議
その問いに答えるために、最後にもう一つの不思議を紹介したいと思います。それは、福音の不思議ということです。この弟子たちはその後どうなったでしょうか。ゲッセマネの園でイエス様が逮捕される場面で蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまいますが、その後、復活の主と出会って変えられます。その時点ですでにイスカリオテのユダは抜け、一人だけメンバーチェンジした12人になっていましたが、その彼らが命がけでイエスの復活を伝えていったところから、キリスト教会はスタートしたのです。
キリスト教は、イエスが始めたというように一般的には考えられていると思いますが、それは、正確な理解ではありません。イエス様がなくなったときには、まだキリスト教も教会のこの世にはなかったのです。始めるべき人たちがまだスタートラインに立てないでいたのです。しかし、今日のテキストのところでイエス様に選ばれ、呼び寄せられ、任命され、そばに置かれ、遣わされた彼らから、やっぱり始まったのです。
しかし、そこには、複雑なプロセスがありました。一度ついていけなくなり、裏切り、挫折し、絶望し、終了したと思った彼らが、復活の主に出会って回復されたことろから始まるというプロセスです。これは、屈折していて、間接的で、二段階で、ややこしいです。もっと、ストレートに、スパッと、一直線に行かないのでしょうか。いかないのです。
この間接性と屈折性にこそ、真の福音の人を救う力と恵みがあるのです。それが、福音の不思議です。
今日は12弟子が選ばれたところからするとかなり先走った話になってしまいましたが、これからマルコの福音書を読み進めていくに当たり、ぜひ、この福音の不思議を意識していただきたいと思います。そして、現代に生かされていつ自分の使命を考えるときに、イエスの不思議について考えていただきたいと思います。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、カペナウムの会堂から外に出られたイエス様のところに、四方八方から群衆が押し寄せて来たこと。また、イエス様が山に登って12人の弟子たちをみもとに呼び寄せられたことを学びました。そして、それらの出来事を通しても、まだ表には出て来ない福音の不思議にまで思いをいたしました。主よ、どうぞ、私たちを憐み、今の時代、お互いが活かされているそれぞれの現場で、主に遣わされた主の名代としての歩むことができるように、助け導いてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
