「マルコの福音書を学ぶ」⑬

□2024-08-18 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書2:23-3:6

□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑬「人の子は安息日にも主」

導入

  • 前回の復習

前回の12回目は、2章の18節から22節までのところをテキストに「新しいぶどう酒は」と題して語りました。ポイントとしては、Ⅰ. 二つのなぜ、Ⅱ. 二種類のあたらしさ、Ⅲ. 二つの新しさ、でした。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という諺にもなっている表現が出てきました。そして、イエス様が言う、本当の新しさについて教えられました。

  • 今日の流れは、

今日は、2章の終わりの部分から3章の最初の部分まで、章を跨いで「安息日」がテーマとして貫かれているところをご一緒に学んでいきたいと思います。

ポイントとしては、

Ⅰ. 文脈について

Ⅱ. 安息日を巡って

Ⅲ. 愚かさと知恵

この3点からお話していきます。

Ⅰ.  文脈について - 4(5)つのなぜ -

 A. 「なぜ」と「わたしは」

 今日は聖書箇所として珍しく章を跨ぐ形にいたしましたが、実は、2章のはじめの方から3章6節までの箇所は一つのテーマで貫かれています。それは、「イエスはいったい何者なのか?!」ということ。そして、それを表現するために一つの手法が取られています。それは、「問いと答え」というパターンを踏みながらそのテーマを追いかけるというものです。

その証拠に問いを発する「なぜ」ということばが沢山出てくるのです。先週の説教の最初のポイントに「二つのなぜ」という名前を付けましたが、それだけではありません。もっと、沢山あるのです。みなさんはいくつ見つけることができましたでしょうか。

一つ目が2章7節、「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」これは律法学者たちの心の中に浮かんだなぜです。

二つ目は、2章8節です。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのですか。」こちらは同じことをこんどはイエス様が見抜いて言い当てられた「なぜ」です。

3つ目と4つ目が先週学んだ部分ですね。16節の「なぜ、あの人は取税人と一緒に食事をするのですか」。18節の「なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。」でした。そして、今日の部分に入ります。

5つ目に24節、「なぜ、彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」です。これが、今日のテキストに含まれる「なぜ」です。

 B. イエス様の返答

そしてイエス様は、それらの「なぜ」に対して、「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」すなわち神に等しい存在だ。「わたしが来たのは罪びとを招くため」。「わたしは花婿だ、新しいぶどう酒だ」という形で答えを出していかれました。表現上は必ずしも、「わたしは〇〇だ」という形にはなっていないとしても、内容的にはご自分がいかなる存在であるかということを表明することによって、それらの「なぜ」に正面からお答えになっています。

さて、これまでのなぜも一つ一つ厄介な問いでしたが、今日のこの5番目の「なぜ」は最も取扱注意の「なぜ」です。内容としては、安息日についてもことがらですが、先走って行ってしまうと、今日のこの「なぜ」に対するお答えによって、イエス様は殺される運命が確定することになったからです。

Ⅱ.  安息日を巡って

これから安息日についてしばらく見ていきたいと思います。

 A. 旧約聖書における安息日

1. 創世記における安息日

聖書的おいて、一週間が7日で構成され、そのうちの一日が特別な日、安息日と定められる大本は、聖書のはじめの創世記1章にある創造の記事が出どころです。神様が、天地万物を6日間でお造りになり、7日目にすべてのわざをやめられた、或いは休まれた。その時点で創造の御業は完結したのです。

そして続いて大切なことが2章3節に書かれています。「神は第七の日を祝福し、この日を聖なるものとされた。」この言葉です。ですから、この創世記2章に出てくる安息日制定について大切なポイントは、2つ。一つは、安息日は神様が休まれた日なので私たちも休み。そして、これは何もしないという無という消極的なことではなく、それまでの6日間の創造のわざすべてを完結させるという超積極的な意味を持つ休みなのです。

二つ目は、安息日は祝福の日だということです。神は、造って終わりとはされませんでした。もっぱら被造物を祝福する日を設けられたのです。プロセスとしては、この日は最後に出てきますが、目的から言うと、この日が最初にあったのではないでしょうか。神様が天地万物を創造された目的は、被造物のすべてを祝福するためだったのです。作ってから、これで何をしようかな、と考えるような神様ではなく、祝福したいという御心が一番初めにあり、そのためにそれ以前の6日間が始まったのです。

私たちの生活に置き直して考えると、6日間の労働と1日の安息日との関係もこれまでのことから見えてくると思います。聖書が規定する本来の人間の生活リズムは、六日間働いて安息日には仕事を休み、もっぱら神様の祝福に与る。それは、お休みであると同時に、働きの6日が祝福されるためなのです。

2. 十戒における安息日

次に、創世記についで聖書に出てくる出エジプト記にも安息日のことが書かれています。それは、有名な十戒というところです。出エジプト記20章8節に「安息日を覚えて、これ聖なるものとせよ。」という十戒の4番目の教えです。主が7日目に休まれたのだから、あなたも休みなさい。そしてあなたが休むだけでなく、息子、娘、あなたの男奴隷、おんな奴隷、家畜、寄留者も休ませなさい、と書かれています。

次に、申命記にも安息日規定は出てきます。それは、やはり申命記版の十戒の中にあります。目的・理由については、出エジプト記に書かれていたことに、奴隷であったエジプトの力強い主の御手で解放された出エジプトの出来事を覚えるために、ということが加えられています。

3. マナと安息日

また、出エジプト記における安息日規定で重要なことは、マナとの関係です。出エジプト後、40年間荒野をさまよった時のイスラエスの人たちの食べ物は、朝ごとに降るマナでした。マナは毎朝、一日分降るのですが、例外がありました。それは、安息日は、聖なる日なので、マナを集めることと調理することが禁じられていたのです。その代わりに、安息日の前日に、二日分のマナが降りたのです。

これは、信仰の訓練でした。また、「安息日を聖としなさい」という教えと、「日ごとにマナを集めなさい」という規定がバッティングすることの調整を神様自らがされた、ということでもあります。七日目にマナを集めに行った者がいたことを主は責められました。この要素は大変大切な要素を含んでいると思います。すなわち、私たちがこの地上で安息日を覚えて、これを聖なる日としよう、その日は仕事をせず礼拝の日としようということに真剣に取り組んでいくときに、かならず問題が生じます。

一つは、他の戒めとの調整です。具体的にはたとえば、ユダヤ人にとっては男と子に対しては、産まれて八日目に割礼を施すという規定がありました。それでは、生まれて八日目が安息日にあたる場合はどうすればよいのでしょうか。安息日優先でその日は、何もしないで割礼も翌日に回すのが正解でしょうか。それとも、生まれて八日目の割礼という方を優先して、安息人でも割礼を施すのでしょうか。

実際には、ヨハネの福音書7章にもあるように、ユダヤ人たちは、割礼は宗教行為で仕事には当たらないとして、安息日にも割礼を施していました。そして、今回のテキストに出てくるような良いことを行うことと、安息日には何も仕事をしない、というバッティングはどうでしょうか。その調整はどのような方針ですればよろしいのでしょうか。それが、今回の学びと深く結びついています。

B. 今回の二つの出来事

1. 麦の穂を摘んで食べた

 ①出来事

今日の聖書箇所に、安息日を巡ってイエス様とパリサイ人たちが対立した具体的な出来事が二つ出てきます。一つ目は、2章23節から28節までのところです。ある安息日にイエス様一行が麦畑を歩いておられました。すると、ちょうどお腹がすいていたのでしょう、弟子たちが、麦の穂を摘んで食べ始めたのです。イスラエスには旧約聖書の独特の福祉規定があって、他人の畑に入って、鎌を使わない限り、手で穂を摘むことは赦されていました。それが平日ならなんの問題もなかったのです。しかし、今回のところでは、弟子たちがそれを安息日にしたところがパリサイ人たちの目に留まりました。聖書そのものに加えて人間が様々と付け足した当時の規定によると、その行為は、①刈り取り、②もみ殻の吹き分け、③脱穀、④あら粉の準備という4つの安息日規定に違反したのだそうです。

②イエス様の対応

それを見ていたパリサイ人たちから「なぜ、あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをするのですか」と詰問されました。そこでイエス様は、旧約聖書のある故事を引き合いに出して答えられます。ダビデがサウル王に命を狙われている時代のことです。ダビデとその仲間たちは、命からがら逃げまわっていました。ある時、空腹に耐えならないピンチに陥りました。すると親分であるダビデは、祭司のところに何か食べる者はありませんかと助けを求めに駆け込みました。すると祭司は、祭司しか食べてはいけない臨在のパンを与えてくれて、ダビデと仲間たちはそれを食べたという故事です。

少しだけ解説を加えます。ダビデの時代、まだ神殿はなく移動式テントの幕屋の時代です。幕屋の聖所には机があり、その上にいつも“臨在のパン”と呼ばれるものを供えることになっていました。絶えずそのパンがあるようにせよ、と規定されていました。

ということはどういうことになるでしょうか。一度供えたものをずっと、そのままにしておいたらどうなるか想像がつくと思います。ですから、実際には一週間に一度新しいパンと交換するのです。その時、取り下げられたパンは祭司しか食べてはいけないという規定になっていたのです。「そのパンならあります」と言って祭司がダビデと仲間たちに差し出し、彼らは「ありがたい、ありがたい」と言って食べたのです。

祭司自らルール違反をしたのでしょうか。そうだとも言えるかと思いますが、そのレベルで宗教を捕らえると、そのような宗教はとても浅薄で堅苦しいものになっていってしまいます。何が何でも律法を守るんだということを断行することよりももっと大切なことがあります。それは、その律法がなんのためにあるのか、律法の精神を深く捉えることです。律法は人を縛るためではなく、人を活かすためにあるのです。別の言い方をすれば、人が律法のために存在しているのではなく、律法が人のために存在しているのです。

このことを捕らえる時に、差し出す祭司の側も、受けるダビデの側も、いわば緊急避難的に、祭司しか食べてはならないはずのパンを食べて、大切な命を救ったのです。

2. 片手のなえた人をいやした

 ①出来事

次にもう一つの出来事が3章の初めから書かれています。1節と2節を合わせて考えるとそれが安息日の会堂の中で起きた出来事であることがわかります。マタイの12章に、今日見ている二つの出来事が記されていますが、そちらを見るとこの二つの出来事は一つの安息日に起きていることがわかります。

こちらの出来事はわりと単純です。会堂の中に片手の萎えた人がいました。2節「人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」とあります。イエスをよく思っていない人たちには魂胆がありました。このイエスという人物を訴えるには、安息日規定違反が一番いい。どうも、この人物は人助けのためには安息日規定を破るみたいだから、こんな魂胆でした。

②イエス様の対応

イエス様はその魂胆をすべて見抜いておられ、毅然としてその人に言われました。「真ん中に立ちなさい。」この一言は、ある意味で、次の4節5節のことばより、もっと意表を突く言葉です。その日、会堂に来ていた人たちにとって、片手の萎えた人の居場所は、すみっこだというのは、常識以前の常識でした。神様を聖なる存在として意識するために集まってきた人たちにとって、片手が萎えているということは、すでにそれだけで神様からのなんらかの呪いがかけられているという理解がありました。ですから、この片手が萎えた人にとっての居場所は、神様の恵みのおこぼれにでもあずかれば上々だということで、すみっこしかありえなかったのです。

それを、イエス様は、いきなり、「真ん中に立ちなさい」と言われたのです。安息日を覚えて、これを聖とするということは、こういうことなのだと。神様の憐みの眼は、こういう人にこそ注がれているのだ。そういう神様を覚えることこそ、神を聖とすることなのだとのするどい主張がこの短い言葉に含まれています。

続いてイエス様は、核心を突かれます。「安息日に律法に適っているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」長きにわたるイスラエルの民の本末転倒を正されたのです。図星を突かれた人々はグーの音をでず、黙ったままです。するとイエス様は、「手を伸ばしなさい」と言われ、その人を癒されたのです。

Ⅲ.  愚かさと知恵

 これから、今日のまとめとして、愚かさと知恵ということを話していきたいと思います。

  1. 愚かさについて

まず、愚かさということから見ていきましょう。今日のところから二位種類の愚かさをみることが出来ます。

 1. 人間の愚かさ

  一つは、人間の愚かさです。それはどういう愚かさかというと正しいことを目指し、正しい方法で、しかも熱心に追及していくうちに、目指しているものから似ても似つかない、ほぼ正反対のものに縛られてしまうという愚かさです。

パリサイ人たちの動機は決して間違ったものではありませんでした。過去の自分たちの民族の失敗の歴史を踏まえ、聖なる神様の御心を妥協なく追及していきたい、というのが彼らの本来の動機だったでしょう。また、律法も悪いものではありません。神様が定めて与えてくださったものです。しかし、その律法を絶対に犯さないようにするために、律法に書いていないことまで多くの細則を造りました。それは、律法を守るためという正しき動機からだったとしても、そのうち、細かい規則を守ること自体が目的化していってしまいました。そして、そこに熱心さが加われば加わるほど、逸れ方が激しくなるのです。そして、熱心であればあるほど、自分が逸れていることがわからないでいるのです。この罠から逃れられる人は一人もいないでしょう。

 2. イエスの愚かさ

今日の所でもう一人愚かな人が出てきます。それはだれでしょう。それは、イエス様です。先ほどは、そこまで見ませんでしたが、3章6節には、安息日に会堂で癒しを行った結果、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちが手を組んだということが起こりました。パリサイ人は純粋ユダヤ主義者、ペロデ党はガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスのサポーターたち、すなわちユダヤ人を抑圧している側のグループです。普段は水と油の関係です。しかし、こういうときには結束するというのが、人間の怖い所です。

そして、6節の最後に「どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。イエス様がやがて、逮捕され、十字架の上で命を失う道をたどることになった直接の引き金はここで引かれたのです。ということは、イエス様は愚か者なのでしょうか。ハメられたのでしょうか。「あいつは正しいことしか言わないから、罠にかけるのは簡単だ」といって仕掛けられた簡単な罠に、まんまと引っかかったのでしょうか。その答えはイエス&ノーです。

B. 知恵について

一つ言えることは、イエス様の愚かさは自ら選び取った愚かさだということです。イエス様は、十字架の上で私たちの身代わりとなってご自分の命を捧げになりました。ご自分の死をもって、全人類が支払うべき罪の代価を代わりに払われたのです。

しかし、ここで考えてみるべきことがあります。イエス様はとにかく命を落とせばよかったというわけではありません。現代的に言うならば、ガンで死のうが、交通事故で死のうが、心臓麻痺で死のうが、なんでもよいというわけではありませんでした。罪が聖を死に追いやった死。不義が正義を抹殺した死。愚かさが知恵を葬った死でなければならなかったのです。そうやって殺されてはじめて、イエス様を死に追いやった勢力・力を無効にすることができるからなのです。罪と不正と不義と愚かのすべてをまともに受けて、生と死の境界線の向こうまで押し込まれた後に、それらの力がすべての力を発揮した上で粉砕して甦ってくださることによって、私たちの主の贖いは完成したのです。ここに本当の知恵があるのです。ここに本当の愛があるのです。

今日の説教題は「わたしは安息日にも主」です。しかし、これは単に、イエス様が安息日律法に縛られないお方だ。それより上位のレベルの存在だ。というだけではありません。人のために安息日を定めた、その神から出た良いことを熱心に追及するあまりに、安息日の主であるイエス様を死に追いやることしかできない愚かな人間に対して、イエス様は真っ向から相手をしてくださる。それが「人の子は安息日にも主」の意味です。その知恵と愛に心からの信頼をもって、イエス様を愛して進んでいきましょう。

 一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ある安息日にイエス様が取られた行動がきっかけでパリサイ人たちとヘロデ党の者たちが手を組み、イエス様を殺害する計画を立て始める直接のきっかけになったところを学びました。私たちは、徹底的に愚かなものです。正しいことを正しい方法で熱心に追及しても、その熱心さのゆえに必ず間違えるような者たちです。そんな私たちに対しても、わたしが安息日の主です、とイエス様は向かってきてくださいます。イエス様にこそ、本当の安息、本当の知恵、本当の愛があることを知って、主と共に歩みことができますようにお導きください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。