□2024-08-11 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書2:18-22
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑫「新しいぶどう酒は」
導入
- 前回の復習
前回の11回目は、2章の13節から17節までのところをテキストに「取税人レビの召命」と題して語りました。ポイントとしては、Ⅰ. レビという人物、Ⅱ. 他の記述の可能性、Ⅲ. マルコが取った記述の意味の三つでした。ザアカイとマタイ、あるいはイスカリオテのユダとマタイの会話を空想するという試みもしてみました。結論としては、イエス様を、罪びとを招くために来られた方。また、同時に罪人たちが大勢集まる食事会に招かれて、喜んで食事を共にされる方。心の底から彼らの交わる方。同じ非難のむしろに座ってくださる方としてマルコが提示されている、ということをお話しました。
- 今日の流れは、
今日は、前回の終わり2節をダブらせて、2章16節から22節をテキストに、「新しいぶどう酒は」という説教題でお話いたします。聖書を離れた一般的な文脈でも、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というのが諺のように、日本でも使われています。その言葉の出どころになっている聖書箇所ということで、興味を持って聞いていただければと思います。
今朝のポイントとしては、
Ⅰ. 二つのなぜ
Ⅱ. 二種類の例話
Ⅲ. 二つの新しさ
と、この3点からお話していきます。
Ⅰ. 二つのなぜ
A. 形式上対極的な二つの問い
1. 形式的な違い
実は、前回のテキストと今回のテキストの二回分を視野に入れると見えてくることが一つあります。それは、いずれも「なぜ」という問いが発せられていることです。最初の「なぜ」は、」前回すでに扱ったところですが、16節です。
「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。』」
これは、パリサイ派の律法学者たちが、イエス様のお弟子さんたちに発した問いです。そしてその内容は、「なぜ、あの人は?」とイエス様の行動に対する疑問でした。
一方、二つ目の「なぜ」は18節に出てきます。
「ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食していた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか』
こちらの「なぜ」は、特に色のついていない「人々」がイエス様に対して発した質問です。内容としては、「なぜあなたの弟子たちは?」と弟子たちの行動についてです。
2. 実質的な一致
形式的に比べると、今申し上げたように、弟子たちにイエス様のことを尋ねた「なぜ」とイエス様に弟子たちのことを尋ねた「なぜ」というように非常に対照的なものになっています。しかし、その実は、二つともイエス様がどういうお方かということが中心です。
そして、二つの「なぜ」に共通しているのは、イエス様が、それまでの既成概念を打ち破るお方だということです。当時の宗教家が、そして一般の人々が大切だと教えられてきたこと、大切にしてきたことを、イエス様が覆したのです。そこには、本当の新しさがあったのですが、古いものを大切に思っている人々にとっては、その新しさは、ただの破壊にしか映らないのです。
当時の宗教家は、取税人・罪人と交わらないことによって自分を清く保つことを熱心にしていました。また、食事を一定期間断つ断食という宗教行為をすることによって、宗教的熱心さを、神様に対して、周りの人々に対して、そして自分自身に対してアピールすることに熱心でした。その結果、自分自身に対してはプライドを持ち、それをやっていない他人には裁く心をいだいていました。だから、「なぜ」を言い出さずにはいられなかったのです。自分が一生懸命やっているのに、やっていない人がいると許せないのです。
B. イエスの答え
1. 「わたしは〇〇だ」
それに対してイエス様がどうお答えになったかを見ていきましょう。二つの「なぜ」に対する答えとして共通しているのは、イエス様はご自分がどういう方かということをもって回答としていることです。初めの「なぜ」には、「わたしが来たのは、罪びとを招くためだ」という言い方をされました。これは、先週の部分なので、今回は深入りしません。二つ目の「なぜ」については、直接的に「わたしは〇〇だ」という言い方はされず、3つのたとえ話をされました。数としては3つですが、種類としては2つです。
Ⅱ. 二種類の例話
ということで、ここから大きな二つ目の項目、「二種類の例話」に入って行きます。
A. 断食-花婿
1. 当時の婚礼の風習
一つは、断食する、しないという状況を、当時の結婚式に続く祝宴に譬えたのです。当時のユダヤの風習としては、結婚したカップルは二人で新婚旅行にでかけるのではなく、一週間ほど、家を解放して親しい友人たちを招いて祝宴を開いたのだそうです。ぶっ通しで一週間ですよ。今日のテキストの19節の「花嫁に付きそう有人たち」というところにアスタリスクで脚注がついていて、直訳は「婚礼の式場の子たち」だと書いてあります。一週間の祝宴に招かれる友人たちのことを「婚礼の式場の子たち」と呼んだのです。そして、彼らは、その期間、喜びを減らすような宗教的義務の一切から免除されるという定めになっていました。その免除されるものの中に断食も含まれていました。結婚のお祝いの喜びを分かち合うメンバーが断食中で、渋い顔していたら場を盛り下げることになってしまうので、そんなことはご法度なわけです。イエス様は、巧みにその習慣のことを引き合いにだされたのです。
2. たとえの本体
イエス様はご自分のことを花婿だと仰るのです。そして、自分と共にいる弟子たちのことを「婚礼の式場の子たち」だと言うのです。彼らの役割は、喜びのマッ中心にいる花婿イエス様と共にその喜びに与ることだというのです。だから、「婚礼の式場の子たち」は花婿がいる間には断食しないというのと同じで、私と一緒にいる私の弟子たちは、私が地上にいる間は断食はしない、というのがイエス様のたとえを用いた回答です。イエス様は、何かを質問された時に、質問者が設定したその同じ土俵で答えても意味がないような場合には、トンチンカンに聞こえる回答をされる場合が多々ありますが、この受け答えは、当時の習慣という誰もが知っていることを引き合いに出して、かなり正面からまともに、わかりやすく回答されています。
先週、あるところに行きましたら、「ここにサウジの王子様が来られたことがある」という話が出てきました。そして、普段は商売とは全く関係のないスペースが、一気に何百万円もするものの販売会場に変身したというのです。サウジの王子という世界一の大金持ちがそこにいる、ということは、その場を変え、その場のふさわしさやその場の可能性をまったく変えてしまうのです。イエス様は、私がここにいる以上、この場所は、今までの習慣、言い伝えなどが支配しない、全く新しい空間になるのだ、と言われるのです。
B. 古いもの・新しいもの
1. 継ぎ当てのたとえ
続いてイエス様は、21節で別のたとえ話を持ち出されます。今は物が豊かすぎるくらい豊かな時代で、使い捨てが基本のような中に私たちは生活しています。しかし、昔は、布というものは貴重品でした。ですから、少々穴が開いたり、破れたり、擦り切れたりしても、繕て、繕って限界まで着続けたわけです。その際、継ぎ当てということをしました。継ぎ当てがなるべき目立たないように、元の生地と色や材質が似ているものを選んで繕います。その時、色や材質と共にもう一つ大切な要素があります。それは、布のくたびれ具合とでもいうのでしょうか、伸縮具合や強度ですね。継ぎ当ての部分だけが、真新しくて、周りの生地が古くてくたびれていると、力がかかったときに、古い生地を引き割いてしまうことになります。イエス様は、最後に「やぶれはもっとひどくなります」とダメ押しまでされています。
ここでの要点は、イエス様は、わたしは新しい布だと仰っていることです。そして、新しい布は、古い衣を長持ちさせるために、切り貼りして使われるものではない。わたしが来たのは、古いものを継ぎ当てして生き残らせるためではなく、新しい布で新しい衣を作るためだ、というのです。
2. ぶどう酒と革袋のたとえ
次に、イエス様はとても有名なたとえを話されました。ぶどう酒とそれを入れる革袋のたとえです。今はワインはガラスの瓶に入ってコルクで栓がしてありますが、それは17,18世紀くらいからのことで、当時ガラスの瓶はありませんでした。たぶん山羊の革をなめして作った革袋に造りたてのぶどう酒を入れました。時間が経つと中のぶどう酒の発酵が進み、膨張するのですが、革袋も新しいと伸縮性があり、中身と一緒に膨れてくれるのです。それが、新しいぶどう酒を古い革袋にいれるとどうなるでしょう。古い革袋は伸縮性が失われているので、中身の膨張について行けず、裂けてしまうのです。そんなことになれば、ぶどう酒も革袋もダメにしてしまいます。そして、イエス様は、このたとえを「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものです」という言葉で締めくくりました。
イエス様は、わたしは新しいぶどう酒だ、と仰っているのです。そして、中身が新しくなった以上、それをいれる器も当然、新しくされるのだ、と主張しておられます。それまで、大切にされてきた宗教的な教え、風習といったものが、イエスと同時に到来した新しい福音の時代には合わないものとなったことを示しています。
Ⅲ. 二つの新しさ
ここで、新しさということをもう少し考えてみたいと思います。
- 古さについて
そのためにうらっ返して、新しさの反対の古さから考えていきましょう。古さには二つあると思います。
1. 経年劣化による古さ
一つは、時間が経つと古くなるということです。もはや「最新式」ということば自体が昭和の香りのする古臭い感じがしますが、どんなものであれ「最新式」は古くなります。また、人間の老いも同じ範疇でしょう。先週、夏の高校野球の始球式に50年振りに江川が甲子園のマウンドに立ったというニュースがありました。あの、誰もかすりもしない剛速球投手だった江川が、69歳になって同じマウンドから投げたボールはワンバウンドでキャッチャーミットに収まりました。50年以上の時が流れるとは、こういうことなんだ、というコメントがありました。その世界での新しさは、ドンドン若い世代のヒーローが出て来て、活躍して、また散って、また次の新しいヒーローが出て来ての繰り返しでしょう。
2. 今までにないものが出現した故の古さ
もう一つ別の種類の古さがあると思います。それは、今まだなかったもの、今まで知らなかったものが出現したとこによって、それ以前のものが古くなるということです。昭和が古臭いものの代名詞として使われるのは、何も昭和という元号が使われなくなってからもう35年もの年月が経過して、昔になったからという経年変化だけではありません。
今日は、高校野球とパリ・オリンピックがたけなわに差し掛かっている日曜日ですから、スポーツの世界の話を一つしたいと思います。昭和の時代のスポーツは、ど根性、しごき、縦社会などが特徴だったと思います。例えば、ランニングを一つとっても、全員がそろって何周するとか決められていてそれを黙々とこなすことが練習。また、よく、試合に負けると罰として課せられるランニングなどもありました。活躍した者も、ミスした者も、試合に出なかったも者もみな同じペースで同じだけ走る。そうするとそこには、イヤイヤやらされている感しかなく、そのトレーニング自体、耐えても効果はあまりありません。
しかし、平成、令和のランニングは、個人個人に目が向けられます。昨日、あなたは何秒で走った。そこまでの実力が付いている。だから、いついつまでに何秒で走れるようにしようという目標を立てよう。そして、今日はこのタイムに挑戦しよう。そういうモチベーションの持って行き方をすると、やらされている感がなく、主体的にトレーニングに臨めるし、自分の筋肉にしっかり効果がある、というのです。そして、昭和の時代のトレーニングは「お前ら」で始まったのが、今の時代のトレーニングは、「あなたは」で始まると聞いたことがあります。
こういうことによって昭和という時代が古い時代になったのです。
B. イエス様と新しさについて
聖書に戻って、イエス様と新しさということを考えてみたいと思います。イエス様はどうして、新しいことをなさるのでしょうか。周りの人々が付いてこられず、非難を受けるような新しいことを。取税人・罪人と一緒に楽しく食事をしたり、弟子たちに断食をさせなかったり。イエス様が斬新な思考パターンを持っていたからでしょうか。既成概念にとらわれないタイプだったからでしょうか。古い時代の矛盾を鋭く見抜き、そこに革新的なものを導入するセンスをお持ちだったからでしょうか。
どれもそうだとしても、もっと大きな本質的なことがあります。それは、イエス様がこの地上に来られたという事実がもたらす新しさです。皇居は今、天皇陛下がお住いですが、明治維新までは徳川の城で江戸城でした。それを京都から明治天皇が移動してきて江戸城を皇居と改称して住むようになったわけです。天皇が京都御所から皇居に引っ越しをされ、江戸が東京と改称されたことは、新しい時代が始まったことの象徴でした。
聖書が言う、新しさはイエスがそこに来られ、そこに住まれると、そこから新しい時代が始まるという種類のものです。イエス様がこの地上に来られてからすでに2000年以上の年月が流れました。ですから、経年変化的には、このことは古い、古いことになっています。しかし、もし、現代を生きる私たちがイエスの遷都先を自分の心、自分の生涯と定め、イエスがそこに来られる時、いまでも、いまでもその新しさは始まるのです。もし、私たちが、イエスのことを、自分をよりよくするための継ぎ当てのように使おうとするならば、本当の新しさを経験することはないでしょう。もし、私たちが、自分をよりよくするために、自分という古い革袋にイエス様を迎えるなら、張り裂けるでしょう。自分をよりよくするためにというところから始めるのではなく、イエス様が来られたというところから始めると、自分はよりよくされるのではなく、新しい革袋に変えられるのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様と新しさとことを聖書から教えられました。古い衣を活かすための継ぎ当てではなく、古い革袋をそのまま使うのではなく、私の心と生涯が新しい布で新しい服のような、新しいぶどう酒であるイエス様と一緒に伸縮するような新しい革袋とされますように願います。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
