□2024-08-04 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書2:13-17
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑪「取税人レビの召命」
導入
①前回の復習
前回の10回目は、2章の1節から12節までのところをテキストに「罪を赦す権威」と題して語りました。「罪を赦す権威」は、神お一人が持っておられ、イエス様がそれを持っていると主張するということは、すなわちイエスは神であると言っているに等しいこと。それを地上で持つという意味について考えました。
②今日の流れは、
今日のところは、病の癒し、悪霊追放などの奇跡から久ぶちに離れて、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師たちを弟子に召した時以来の弟子の召命の話です。今回、イエス様に声をかけられて弟子となったのは、取税人のレビです。取税人がイエス様の弟子に加えられるということは、奇跡物語ではありませんが、その内容をよく考えるとき、奇跡中の奇跡と言えるでしょう。イエス様にしかできないこと。イエス様しかなさらないこと、と言えるでしょう。
今朝のポイントとしては、
Ⅰ. レビという人物
Ⅱ. 他の記述の可能性
Ⅲ. マルコが取った記述の意味
この3つです。
Ⅰ. レビという人物
A. 3つの福音書を総合すると
1. マタイと同一人物
今回登場するレビという人物については、マルコの福音書だけですと、わかることが極めて限られています。14節に「アルパヨの子レビ」とあるので、お父さんの名前が「アルパヨ」だったこと、職業が取税人だったこと。収税所に座っている時に、イエス様に「わたしについて来なさい」と声をかけられて、そのままその場で立ち上がってイエス様に従っていったこと。また、取税人や罪人たちの仲間を大勢自分の家に読んで、また、イエス様とお弟子たちも招待して、一緒に食事をしたこと。それだけです。
ちなみに、マルコの福音書では、3章の16節から12弟子のリストが出てきますが、マタイという名前が出てきますが、「レビあるいはアルパヨの子レビ」という名前は出てきません。すなわち、マタイとアルパヨの子レビが同一人物であるかどうかは、マルコの福音書を読むだけではわかりません。しかし、マタイの福音書の並行記事を読むと、マルコのここに登場する人物が、12弟子の内の一人、そしてやがてマタイの福音書を記したマタイであることは間違いないことだと思われます。
2. マタイという人物の福音書での扱い
マタイという名前は、新約聖書の最初に収められている福音書の名前に使われていますし、多くの人は、マタイがマタイの福音書を書いたということも知っています。そうしますと、12人いた直弟子のなかで相当ランクが上の弟子だったのではないかとか、相当実力者だったのではないか、という予測が自然に働くと思います。しかし、実際はどうでしょうか。マタイという名前は、マタイの福音書での召命記事と、3つの福音書の12弟子のリスト、そして使徒の働き1章にある、ペンテコステ直前の二階座敷に集まって祈っていた11弟子のリストに名前が載っているのみで、その他には全く名前が出てきません。マタイが少しでも言及されるどんな小さなエピソードも場面も全くありません。
ヨハネの福音書は、マタイ、マルコ、ルカではほとんど発言の機会がない、アンデレ、ピリポ、トマス、イスカリオテでないほうのユダなどマイナーな弟子についてのエピソードが書かれています。しかし、そのヨハネの福音書にもマタイは登場しません。
B. 12弟子は完全ドラフト制
1. 声を掛けられないと入れない
すでに指摘しましたように、このマタイという人物が取税人だったということは、とてつもなく大きく、重い意味を持っていたと思われます。何万人もいるイエス様のフォロワーの中からたったの12人だけが特別に選ばれて、いつもイエス様と寝食を共にする直弟子として取られました。このメンバーは、志願して入れるものではありません。イエスがお選びになったとちゃんと書いてあるのです。
日本でプロ野球の選手になるには、ドラフト制度というのがあって、球団から指名されて入るのがメインのルートでしょう。けれども同時に誰でも志のある者が入団テストを受けて入るという入り口も用意されています。数は多くはありませんが、この入口からプロ入りして、やがて大選手になっていた例もあります。しかし、12使徒は、完全ドラフト制です。使命されなければ誰も入ることが出来ません。
2. 十二弟子の中のマタイのアウェー感
それだけ、厳選されたメンバーの中にイエス様はわざわざ取税人のマタイを入れたのです。取税人は、福音書の中では罪人、遊女と同列です。他の弟子たちにはどんな人たちがいたでしょうか。
・バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレ、その兄弟のペテロ。
・イエス様が王座に就いた暁には、右大臣と左大臣の地位を要求したヤコブとヨハネ、
・神の国を静かにいちじくの木の下で黙想しながら待ち望んでいて、「まことのイスラエル人で、この人にはいつわりがありません」とイエス様に行っていただいたナタナエルの友達だったピリポ。
・今で言う、過激派愛国者の熱心党員に属していたシモン
などです。これらのメンバーがいる12弟子のグループの中で、ヘロデ・アンティパスとローマ帝国に自分の魂を売り渡し、イスラエル民族の誇りを捨てて、取税人という職業に従事していたマタイのアウェー感は、半端ないものだったのではないかと思います。
また、マタイが働いていた収税所の地理的な意味合いについて少し目を向けてみたいと思います。先週見た2章1節でイエス様一行は、カペナウムに戻ってこられました。そして、今日のテキストの最初の13節では、「イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた」とあります。次の14節では、「イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て」と出てきます。総合すると、マタイはガリラヤ河畔のカペナウムの町で取税人をしていた人物であることがわかります。多くの仲介書に、このカペナウムの町がエジプトとシリアを結ぶ交通の要所であったと書かれています。また、ローマ軍の駐屯地でもあった経済的に繁栄している町だったようです。ですから、この収税所は通行税をとることを主な目的としていたとも考えられます。しかし、同時に、このロケーションを慎重に検討すると、マタイが勤務していた収税所はガリラヤ湖畔に位置していたと考えられ、そのため漁師たちに課税するための仕事場だったとも考えられます。そうだとすると、マタイは、すでにイエス様の弟子になっていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネとはまさに、税金を絞り取る側と搾り取られる側として日ごろから付き合いがあったとの想像も成り立ちます。この1対4の関係に気まずさがあったかもしれません。
Ⅱ. 他の記述の可能性(マタイが登場したかもしれない場面の空想)
ここまで、単純にマタイという人物についての4つ福音書における記載の事実をお話してきました。ここから、少し、脱線してみたいと思います。私が長年、マタイという人物について密かに思いめぐらしてきたことを、この機会に隠し切れずに吐露してみようという試みです。それは、「もし、私が福音書の記者であったなら、この取税人出身で12弟子になったマタイを召命記事と弟子のリスト以外に、あと2つの場面で登場させたでしょう。」という話です。
1. ザアカイとマタイ
その一つは、ルカの福音書19章に出てくるエリコの取税人の頭ザアカイの回心の場面です。あのザアカイもイエス様に名を呼ばれたとき、急いで木の上から降りて行って、イエス様を自分の家にお迎えしました。そして、マタイが仲間たちとイエス様とお弟子さんたちを読んでホームパーティーをしたときと同じように、周囲の人は「あの人は罪びとのところに行って客となった」と言って非難しました。その場に当然、マタイもいたでしょう。私が福音書記者なら、絶対にこの場面でマタイを登場させますね。
イエス様にこういうセリフをあてがいます。「そうそう、ザアカイよ。君に紹介したい弟子がいる。彼はマタイと言ってな、カペナウムの町で、君と同じ取税人だったのだよ。私はしばらく席を外そう。二人にしかできない話もあるだろう。今日から、お互い、よい友達になるといい。」
こんな感じですね。
2. イスカリオテのユダとマタイ
もう一つはどういう場面でしょう? 実は、12弟子の中に、もう一人、マタイとは違った種類ですが、やはり大きなアウェー感を持っていた人物がいたのです。
ここでちょっと昭和プロレスの話題で恐縮ですが、こんな話があります。力道山の元で修業していたレスラーの卵たちの中に日本以外から来ていた弟子が二人いました。一人は、韓国から力道山を慕って密入国して来て、力道山に身元引受人になってもらっていた大木金太郎。もう一人は、力道山がブラジル遠征に行ったときにスカウトして日本に連れて帰って来たアントニオ猪木です。ある日、練習が終わって、日本プロレスの若手が皆で映画館に行ったそうです。真っ暗な映画館でスクリーンを見ていたアントニオ猪木の手を隣にいた大木金太郎を握ってこういったそうです。たどたどしい日本語です。「わたし、韓国から来た。あなたブラジルから来た。一緒に頑張りましょう。」
イエス様と12弟子が旅を続けているどこかで、マタイがそっとイスカリオテのユダの手を握って、言うのです。
「あンたー、一人だけガリラヤ訛りのないユダヤの言葉をしゃべンナー。んで、この仲間んの中では、会計係を担当しているー。その仕事は大変でっしょ。オラー、ガリラヤ人だども、取税人の出身だから金の出し入れと帳簿つけさー慣れてンド。力合わすて、やっていきまっしょ。」
聖霊に導かれない、三流、四流の福音書記者なら、マタイに関するこんな二つのエピソードをどこかにねじ込んだかもしれません。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書のどこを探しても、先ほどから言っている通り、マタイの名前は、イエス様に収税所に座っているところで「わたしについて来なさい」と声をかけられた召命の記事と、12弟子のリスト以外に名前が出て来ないのです。
Ⅲ. マルコが取った記述の意味
1. マタイが主催した食事会
では、空想はやめにして、実際にマルコの福音書に記されている記事に戻っていきましょう。先ほどから私は何回か、マタイが登場するのは、召命の記事と12弟子のリストだけだ、と申し上げてきましたが、もう少し正確に言う必要があります。というのは、今日のテキストを読んでいくと、マルコ2章13節、14節がいわゆるマタイの召命の記事ですが、それは、一旦、14節で完結しています。そして、15節からは、レビの家、すなわちマタイの家での食事のシーンに移ります。
①この食事会はマタイの召命の特徴
ガリラヤ湖畔で網を打っていたり、網を繕っていたりしていた仕事中の漁師4人が弟子として召された記事と比較すると、仕事中に声をかけられて、すぐその場で何もかも捨てて従った、という点では同じです。しかし、4人の漁師の召命には、その直後の食事会の話は不随しません。この食事会はマタイの召命に特徴的なものです。
② 非難を受ける
マルコは、そしてマルコの福音書執筆を導いた聖霊は、私が提案したようなエピソードは入れない代わりに、この食事会のエピソードをもって、マタイのすべてを書き記そうとしたのです。マタイが開いたこの、取税人と罪人たちが大勢招かれた、そしてイエス様とお弟子たちが招かれた食事会は、パリサイ派の律法学者たちから「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか」という非難を受けます。
③ 共に食事をする意味
コロナ以前からそうでしたが、コロナを経てより一層、私たちの社会は個包装、小分け化が進んだように感じます。しかし、当時の食事に個包装、小分けという概念はありません。同じ食卓について、同じ食器から、同じ食事をいただくということは、交わりの究極の象徴です。マタイは、イエス様から「わたしについて来なさい」と声をかけられたときに、この方は、取税人である自分を何の分け隔てもなく、交わってくださる方だということを本質的にキャッチしたのでしょう。
2. イエスの重要な発言
①罪人を招くために
そして、この食事会は、非難の声を受けたことをきっかけにイエス様の重要な言葉を引き出すことになります。それは、17節にあります。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためです。」
②わたしが来たのは
「わたしが来たのは」という言い方はマルコの福音書には、3回出てきます。
ⅰ)一回目は、1章の38節。「イエスは、彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」
ⅱ)二回目が今日のところです。
ⅲ)そして、3回目は、10章の45節です。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人々のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
一回目は、福音宣教のため。二回目は、交わりに招くため。三回目は十字架に身を捨てるため。この三回にわたって、「わたしが来たのは」という表現が使われています。
③マルコが示す福音の本質
ここにマルコ福音書が示す福音の本質が凝縮されているように思います。イエス様は、町々村々をめぐって「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という宣教のためにこの地に来られました。また、病によって、ツァラアトによって、悪霊に取りつかれることによって、取税人という職業についていることによって、汚れているとみなされ、社会からはじき出され、また、神から見捨てられているとの自覚の中に生きていた人々に、天の御国はこのような者の国だと、招くために来てくださったのです。そして、やがて、その御国が実現されるために、イエス様はご自身を十字架の上にお捧げになるということが明らかにされていくことになります。
3. マルコが提示する新しいイエス像
マルコの福音書は、これまでずっと「イエスは何者なのか?!」というテーマを追いかけてきました。今日のこの取税人レビの召命でも、ここに、非常に特徴的で、重要なイエス像が新たに提示されます。イエス・キリストは、罪びとを招くために来られた方。また、同時に罪人たちが大勢集まる食事会に招かれて、喜んで食事を共にされる方。心の底から彼らの交わる方。同じ非難のむしろに座ってくださる方として提示されているのです。
今日は取税人レビ、すなわちマタイの召命とその直後のマタイが主催した食事会のところから、イエス様がいかなるお方なのか、福音はどこがどのように福音なのかをまなばせていただきました。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、取税人レビ、すなわちマタイが収税所に座っているときに、「わたしについて来なさい」とイエス様に声をかけられ、すぐに立ち上がって従った場面。そして、その後、マタイが取税人の友達をまた罪人と呼ばれていた人たちを大勢呼んで、イエス様とお弟子さんたちも一緒に食事をしたところを学びました。私たちは、福音を自分勝手に小さく限定したり、特定のところだけをピックアップしてそれが全体だと錯覚したりする愚かな者たちです。どうぞ、聖霊のお導きにより、イエス・キリストをそして福音をそのまま受け取ることができますように、お助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
