□2024-07-14 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書1:40-45
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑨「わたしの心だ。きよくなれ」
導入
①前回の復習
前回の8回目は、1章の35節から39節までのところから「イエスは…祈っておられた」と題して語りました。イエス様の地上生涯の基本形が「祈り」にあったこと。イエス様はそのために、時間と場所を確保されたこと。イエス様は、そのように祈りを大切にされた結果、右にも左にもそれずに使命に生きられたことを学びました。
②今日の流れは、
今日は、マルコの福音書1章の40節から45節までがテキストです。説教題としては、「わたしの心だ。きよくなれ」といたしました。
このところから、いつもと違って、全体をスリーポイントでまとめず、まずは、
1. ツァラアトについて
2. ツァラアトに冒された人の求め
3. イエス様の対応
と話の筋を追った後に、最後に三つのポイントをまとめとしてピックアップしたいと思います。
Ⅰ. ツァラアトについて
- 聖書におけるツァラアト
今日のテキストの初めである40節には、「ツァラアトに冒された人」が登場します。聖書の中における「ツァラアト」という言葉について簡単に見ておきたいと思います。この言葉は旧約聖書で49回、新約聖書で13回、合計62回使われています。
- 旧約聖書におけるツァラアト
一番初めに出てくるのは、出エジプト記4章です。今日、その箇所について詳しくお話する時間はありません。簡単に言うと、モーセの手を懐に入れると「ツァラアトに冒され、雪のようになっていた」。とモーセに出エジプトのリーダーとしての召命を受けたことのしるしとして、神様がモーセにデモンストレーションする力を与えたという文脈で出てきます。
レビ記には13章から14章にかけて人間の皮膚に現れるものだけではなく、衣服や家のツァラアトについてまで細かい規定が書かれています。この二つの章だけで32回ツァラアトという言葉が使われています。先ほど、旧約聖書全体で49回と言いましたから、レビ記13章と14章でその大半が出てきていることになります。
後は、モーセの姉ミリアムが一時的にツァラアトに冒されたこと。預言者エリヤがアラムの将軍ナアマンのツァラアトを癒した記事。だいぶ、時代が下って自分の職分をわきまえず祭司でないのに祭壇で香を焚こうとしてウジヤ王にツァラアトが現れたこと、などの記事がある程度です。
- 新約聖書におけるツァラアト
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書にだけこの言葉は出てきます。ヨハネの福音書や、使徒の働き、ロマ書以降の書簡、黙示録にも一度も出てきません。
そして、今日のテキストに出てくる記事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して出てきます。置かれている文脈は異なりますが、明らかに同一の出来事です。当時の人たちの記憶によっぽど鮮明に残っていた出来事だったに違いありません。マタイでは、5章、6章、7章と3つの章を貫いて書かれた山上の説教が終わり、イエス様一向が山から下りて来た直後の記事として記されています。
現在では、もともと感染力が低い病気だということがわかっています。しかし、医学的知識が十分でなかった時代、見た目がグロテスクになっていくこともあって、この病気は恐れられ、旧約聖書の中では汚れの代表のように扱われています。
Ⅱ.この男の求め
さて、話をツァラアトの一般論から、今日のテキストに出てくる具体的なケースに戻しましょう。当時、ツァラアトに冒された人は、町の外で隔離された生活を送っていました。けれども、その人の所にも、イエス様があらゆる病をいやしているという噂が届いたのでしょう。薬もない治療法もない絶望の中に閉じ込められていたこの人に、一条の希望の光が届いたのでしょう。
禁を犯して、勇気を振り絞って、イエス様目掛けて行動に出ました。そしてこう言いました。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」「お心一つで」というところは、実は41節の2行目の「わたしの心だ」と呼応しています。直訳風にすると40節の「もし、あなたが望まれるなら」と41節の「わたしは望む」という組み合わせになります。
この人の希望は、どこにあったのでしょうか。自分の内にはありません。一般的に病気が治るための唯一の源は自分のうちにある自然治癒力です。しかし、それに期待できる要素はまったくありませんでした。薬も治療法もありませんでした。本当に頼るべきものは何もないのです。そこにイエス様のうわさを聞きました。
しかし、ここからが問題です。イエス様の何に期待するのでしょうか。イエス様が持つ病をドンドン癒していく奇跡的な霊的特殊能力にでしょうか。この人は、そういった特殊能力にではなく、あるいは、癒しが数えきれないくらい起きているという現象にでもなく、「イエス様がそう願われる」というところに望みを置いたのです。
実は、これはすごいことです。宗教改革者マルティン・ルターは、「救いは私たち自身の中にはなく、私たちの外なるキリストから来る」と言いました。今日の聖書箇所に出てくるこの人は、それに止まりませんでした。ルターの「私たちの外」に重要な付け足しをしています。それは、「キリストの内にある」と言うことです。更に厳密に言えば、「キリストの内とは何か?」それは、「キリストがそう望まれる」というところが、キリストの真中心なのです。この人は、絶望に閉ざされた世界で隔離生活をしながら、実は一瞬にしてルター以上の神学者となったのです。
Ⅲ.イエス様の対応
さて、このような決死の求め、そして、核心を突いた求めに対してイエス様はどのような態度を取られたのでしょうか。短く3つのことが記されています。
A. 3つの態度
1. 憐み
一つ目は、深く憐れまれたことです。このことが真っ先に書かれています。この人と接したときに真っ先に現れたイエス様の反応は深い憐みでした。エレミヤは、神のはらわたを「それゆえ、わたしのはらわたは 彼らのためにわななき わたしは彼をあわれまずにはいられない」と31章20節で表現しました。ホセアも11章8節に「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」と神の胸中を明らかにしました。それらがただの預言者の美しい言葉ではなく、本当のことだったのだ、ということをこの時のイエス様の心の動きが証明したのです。
2. 触れられた
二つ目は、手を伸ばして彼に触れた、ことです。これもまた、腰が抜けるほど、すごいことです。すでにお気付きかと思いますが、この人も、イエス様もこのツァラアトに対しては、「癒される」とか「治る」という言葉は使っていません。二人とも「きよくなる」という言葉遣いをしています。当時の理解では、この病気の本質は、健康状態からほ外れて不健康な状態にあるというものではありませんでした。「汚れ」がその本質と理解されていました。
そして、旧約聖書における「汚れ」についての基本的な教えはどういうものだったのでしょうか。それは、まず、「聖なるものと」「汚れたもの」とを区別すること。そして「汚れたもの」には触れないで、「きよさ」を保つ、という考え方です。「汚れたもの」にふれると、その瞬間、汚れが感染るという前提です。
ここで、アラムの将軍ナアマンをエリシャが癒した記事を思い出してみましょう。ナアマンはどのようにしてツァラアトが取り除かれたでしょう。エリシャはナアマンに触ったでしょうか。まったく正反対でしたね。エリシャは、戸口の外に来ているナアマンのところに出ていくこともせず、使いの者に「ヨルダン川にいって7たび身を浸しなさい。そうすれば清くなります。」と言って、指示だけを与えました。
「タラレバ」の話をしてもあまり意味はないかもしれませんが、あの時、エリシャが出て行って、手を伸ばして、ナアマンのツァラアトの患部に手を置いたら、エリシャはナアマンのツァラアトをきよめるどころか、自分の方が汚れた者となったでしょう。それは、エリシャもただちにツァラアトを発病するということとは違いますが、律法の世界の中では「汚れた者」になってしまいます。
しかし、それに対してイエス様は、手を伸ばして触れられたのです。ここは実に感動的なところです。イエス様とこの男は何十センチの距離で立っていたかわかりませんが、かりに50センチだとすると、この50センチは、天と地よりも離れていたのです。この50cmをイエス様以前の誰も越えたことはなかったのです。しかし、イエス様はスっと手を伸ばして触られました。
私は、このところを以前はこのように理解していました。すなわち、エリシャも含めて私たち罪人は、汚れに触れると自分の方が汚れてしまう。汚れが向こうからこちらに伝染してしまう。しかし、イエス様が汚れに触れた場合には、逆のことが起きる。イエス様のきよさが、汚れた人の方に伝染して、向こうがきよいものとされる。この理解も間違っていないかもしれません。しかし、私は、今回の準備をしながら、もう一つの視点を与えられまして。それは、イエス様は、「きよさVS汚れ」という構造とは別の見地に立っていらっしゃったのではないかということです。イエス様の目から見るとこの人は、「きよめられるべき汚れた人」という対象ではなく、「胸があわれみが熱くなる対象」だったのです。それだけだったのです。
3. わたしの心だ
3つ目は、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われたことです。「わたしの心だ。」は、意訳ですが、私は名訳だと思っています。すでに触れましたように直訳では、「わたしは望む」ということです。日本語の聖書ですと、聖書協会共同訳とフランシスコ会訳では、「わたしは望む」と訳されています。
普通私たちは、神の言葉に力があると教えられ、そう考えていると思います。その一番典型的なところば天地創造の場面です。「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」と創世記の初めに書かれています。そして、このところを神は言葉をもって天地万物を創造された。無から有を創造された、と理解します。しかし、その場合の言葉とは一体何でしょうか。人もいないのですから、何語という言語もまだ一つもありません。空気の振動もありません。その前に、もちろん神は霊ですから、空気を振動される声帯もありません。空気の振動を受け取る鼓膜もありません。鼓膜の振動を処理する脳もありません。その段階での言葉とは何でしょうか。それは、「神がそう望まれた」ということが本質であると考えてよいと思います。
神は他の何にも依存することなく始まりもなく存在しておられるので、光がなくても、空気がなくても、相手の人間がいなくても、自由に願い、望むことがおできになるのです。その神様が「そう願われた。そう望まれた。」それがすべてのことの始まりです。そして、すべてのことの原因です。そして、すべてにまさる力です。
今日の前半にお話した「私たちの外、キリストの内に」ということに帰って行きます。イエス様がこの人に言われた「私の心だ」は、キリストの内奥、一番奥の奥の最奥部を示します。これより中心がないほどの、キリストのマッ中心。それが「わたしの心だ」が現わしていることです。そして、そのキリストのマッ中心にあるのは、何か?それは、「きよくなれ」という憐みなのです。
B. 2つの戒め
次に、43節以降のところを見ていきます。たちどころにツァラアトが消えた人に向かって、イエス様は、また、私たちの感覚からするととても意外な指示を与えます。しかも、やさしいアドバイスではなく「厳しく戒めて」と43節にあります。どんな戒めだったかというと二つあります。
1. メシアの秘密
一つは、「だれにも何も話さないように」ということです。これは、「メシアの秘密」と呼ばれることです。スマホ、口コミの時代に生きている私たちには、これほど不思議なことはありません。現在世界で一番人気のあるユーチューバーは、3億人の登録者数を誇っているそうですが、その人がイエス様のアドバイザーについたら、イエス様のやり方を根本から叩き直されるかもしれません。フォロワーを増やすためには、宣伝あるのみ!と。しかし、今回この「メシアの秘密」には深入りしませんが、「誰にも何も言わないように」との厳命を下したイエス様の、2000年後のフォロワーは、全世界で23億人を超えているのです。今、3億人のフォロワーがいるユーチューバーの10年後には、何人の登録者数が残っているでしょうか、わかりません。
2. 祭司に見せなさい
二つ目の指示は、「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」ということでした。これも「メシアの秘密」に負けず劣らず不思議な厳命ではないでしょうか。人類史上誰も越えられなかった50cmの隔たりを、「わたしが望む」という憐みの心で乗り越えるというほど、斬新なことをなさったのに、なんで、その直後に、その本人に、つまらない旧約の規定にこと細かく従うことを要求されるのか理解ができません。
ウィリアムソンという学者は、このところを「犠牲をささげよとのイエスの命令は、癒された男を社会に復帰させるとこになる。」「イエスの関心は、この男を身体的に、精神的に、さらに社会的に回復されるとこであった。」と書いています。これは鋭い考察だと思います。
イエス様の関心は、魂を救うことに限定されていません。健康の回復、肉体の癒しにも限定されていません。人間としての回復、それは、神と人との交わりの中に生きる存在として造られている人間としてのすべての回復です。イエス様は、ご自分にツァラアトをきよめる力があることをデモンストレーションして満足される方ではありません。目の前で、ツァラアトが消えるという癒し、きよめの現象が起きることでも満足されませんでした。この人が、地上で回復された生涯を大切に生きていくこと、永遠の生命をそこから生き始めることに関心をお持ちだったのです。
Ⅳ. まとめ
ここまでお話して、今日は最後にポイントを3つにまとめて閉じたいと思います。
- 「イエス様の願いこそが救い」
一つ目は、「イエス様の願いこそが救い」ということです。救いは「わたしの外、キリストの内」にある。そして、「キリストの内」の更に真中心は「キリストがそう望まれる、願われる」ということだったのです。
②「イエス様の立ち位置こそが救い」
二つ目は、「イエス様の立ち位置こそが救い」ということです。イエス様は、「きよさVS汚れ」という構造ではなく、その外に立って、絶望に閉ざされていた人を目の前にして「深く憐れまれ」るところから始まる方なのです。私たち一人一人を憐みの対象としてご覧になる立ち位置におられるのです。それが、私たちの救いです。
- 「イエス様の目指すところが救い」
三つ目に、「イエス様の目指すところが救い」ということです。イエス様の目指すところは、単なる力のデモンストレーションではなく、健康の回復ではなく、神の形に似せて作られた神の子としての人間の回復にあったのです。私たちはそこまで望めない者です。私たちは目先の苦痛が過ぎ去ればホっとしてそこで求めることを止めてしまう者です。しかし、イエス様が、私たちが願えないところまで願ってくださるところに、私たちの本当の救いがあるのです。
一言、お祈りいたします。 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、一人のツァラアトに冒された人がイエス様にきよめていただいた記事を学びました。全くの絶望に囲われていた人に、このように誰も想像することもできないほど、あらゆる面で素晴らしく接してくださったイエス様。素晴らしいことを望んでくださったイエス様は、今日、私にも同じように、私が願えないほどに素晴らしいことを願って、望んで、計画して一緒にいてくださる方です。そこに救いがあります。この救いの中を今週も歩む者としてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
