□2024-07-07 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書1:35-39
□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑧「イエスは…祈っておられた」
導入
①前回の復習
前回の7回目は、1章の29節から34節までのところから「彼女は人々をもてなした」と題して語りました。イエス様が、カペナウムの会堂から出られた直後に、ペテロの姑の熱病をいやされたこと。そして、同じ日の日が暮れたあと、すなわち安息日が終わった直後に、町中から連れてこられた病人をイエス様が癒されたところを学びました。そして、イエス様の癒しは、有り余る霊的パワーのおこぼれで軽々いやしたのではありませんでした。イザヤ書53章を引用して、他人の病を知り、痛みを身に負い、代わりに打たれることによってもたらされる癒しであることに目を留めました。
②今日のポイントは、
今日は、マルコの福音書1章の35節から39節までがテキストです。説教題としては、「イエスは…祈っておられた」とさせていただきました。
このところから、
1. イエス様は祈る人だった
2. 祈る人は、時間と場所を確保する
3. 祈った結果、使命に生きた
の三つのポイントでお話していきたいと思います。
Ⅰ. イエス様は祈る人だった
それでは、まず最初のポイントである「イエス様は祈る人だった」というところに入って行きたいと思います。
A.人生の基本形
①マルコの福音書の特性
マルコの福音書を丹念に読んでいくシリーズを始めて、まだ1章も読み切っていない段階ですが、私としてはすでにマルコの福音書の特徴として心に留まっていることがあります。それは、マルコは本当にイエス様が実際に話された言葉、教えの内容は記すつもりがないのだな、ということです。1章1節の出だしは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」となっていてそこには、「福音」という言葉が使われています。また、1章14節には「福音を宣べ伝えられた」、21節には、「会堂に入って教えられた」とあります。しかし、どのような言葉で教えられたのか、具体的にどういう教えだったのか、については、具体的に記述がないのです。この傾向は基本的には、最後まで続きます。マタイにある山上の説教や、ルカにある放蕩息子のたとえ、良きサマリア人のたとえ、などが好きな方は、どうしてもマルコに物足りなさを感じてしまうかもしれません。それでも、この福音書が「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」となっているのは、どうしてなのだろうか?と考えてみました。一つ教えられたのは、マルコの基本的な考え方は、イエスが語られた内容というよりも、イエス様はいったいどういうお方なのか、という人物像、あるいは短い3年半の公生涯の生きざまを描写することによって、福音を書き表す、ということだったのではないかと思います。
人にはいろいろなタイプがあって、喋らないで座っているだけなら立派に見えるのに、喋り出すととたんに内容のなさが露呈するというタイプ。見た目はあまりパッとしないけれども、話し出すとたちまち聴衆を虜にしてしまうタイプの人。不言実行タイプの人、いろいろだと思います。マルコはイエス様をことばの人としては描きたくなかったのでしょう。最終的にはご自分の命さえも贖いの代価として、差し出して死んでいくその生きざま、死にざま、そして最後の復活という姿を通してのみ、本当の意味で福音がダイナミックに表現され得る、という考えを持っていたのだと思います。
そんなマルコはすでに、前回までのところでもいくつかのイエス像を紹介しています。例えば、①旧約聖書に預言されていたメシア、②天と特別な関係にある存在、③試みを通って活動を始められた、④時を意識して活動された、⑤弟子たちを召した、⑥ユダヤ教の会堂で権威ある教えをされた、⑦あらゆる病を治された、などです。そして今回のテキストでマルコが私たちに紹介しているのは、イエス様は祈りの人だった、ということです。
②藤井壮太の場合
話は変わりますが、先日7月1日に、藤井壮太がまた大変な記録を塗り替えたというニュースがありました。私は将棋の世界のことは詳しくはないのですが、藤井壮太が永世称号を最年少で獲得しました。永世称号というのは、一つのタイトルを5回連続して保持すると与えられるようです。一度取るだけでも至難の業なのに、5回連続防衛するというのですから、普通はできないことだと思われます。中原誠の23歳11カ月というのがこれまでこれまでの最年少記録だったようですが、それを丸2年更新して、藤井壮太は21歳ヶ月で、永世称号を獲得したのです。この藤井壮太の凄さはどこから来るのか。それは、彼が、詰め将棋を寝ても覚めてもやり続けて来たところにあると言われています。5歳で将棋を初めて以来、学校から帰ってカバンを置くと、すぐに詰め将棋を始める。対極の前の緊張する数日も、相手の研究をそっちのけで詰め将棋をいつも通りするどうです。言ってみれば、詰め将棋の問題に向き合って考えている姿が藤井壮太の基本形なのです。藤井壮太もご飯を食べ、トイレにも生き、何時間か睡眠を取り、私たちと同じ人間として生活をしています。しかし、基本形は詰め将棋に向かっている姿なのです。他にいろいろやることがあっても、それが終わると、詰め将棋に戻ってくる。午前出来なくても午後、そこに戻ってくる。今日できなくても、明日はそこに戻っていく。彼の人の生きざまの基本形が詰め将棋なのです。
それに対して、イエス様の基本形は祈ることなのです。イエス様もいろいろなことに忙殺されます。多くの人々がついて来ます、多くの人の必要に答えて行かなくてはなりません。しかし、人生の基本形が祈りなのです。いつでもここに戻ってくるのです。ここから出発するのです。ここで憩い、補填され、再び遣わされていくのです。
今日の二つ目のポイントに移っていきます。二つ目は、「祈る人は時間と場所を確保する」です。
①時間の確保
35節の冒頭に「イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけ」とあります。イエス様はこの点、実に意志的だったのです。時間があいたらやりましょう、いつか適当な時間帯を見計らってやりましょう、ではなかったのです。まだ、一日の活動が始まる前に、祈る時間を持ったのです。これは、祈りに最高の優先順位を付けているということの表れだと思います。
②場所の確保
また、イエス様は時間だけではなく、場所もしっかりと確保されています。寂しいところに出かけて行き、とありました。これも極めて意志的な行動です。自然に取る行動ではありません。なんとなく、寂しい所にきたのではありません。気が付いたら寂しい所に来ていたのでもありません。わざわざ、そういうところに行こうと思って、行かなければと思って、行きたいと思って、出かけられたのです。この場所の確保も、先ほどの時間の確保と同じで、祈りに最高の優先順位を与えておられたことをあわわしているのだと思います。
③祈りと私たち
ここで、祈りと私たちということを考えてみたいと思います。どういうことかというと、イエス様は、神の子で特別な存在なので、特別に父なる神様と親子の近しい時間を大切にされるのは、わかる。しかし、私たち一般の人間は、どうなんでしょう。私たちの祈りの生活をイエス様はどう考えておられるのだろうか、ということです。イエス様ご自身が大切にされたように、私たちにも大切にしてもらいたいと願っていらっしゃるのか。それとも、所詮、祈りをそこまで大切にできるのはご自分だけで、私たち普通の人間は、この世の様々なことにかかずらって生きていかなければならないので、そこまで要求しない、と考えられているのか。
先に結論を申し上げると、もちろん、イエス様は、私たちにも祈りを大切にしてほしいと願っていらっしゃいます。その根拠となる聖書箇所をマルコから二ヶ所引いてみたいと思います。
一つは、9章の29節です。そこに「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」という言葉があります。これは、9章14節から始まっている少し長い件なのですが、口をきけなくする霊に取りつかれた息子を持つ一人の父親が、その子から霊を追い出してもらいたいとイエスのお弟子さんたちの所に連れてきたのに、埒が明かなかったという出来事がありました。しかし、その場にいなかったイエス様がその父親のところに姿を現わされると、イエス様はたちどころに、その悪い霊をその子から追い出されてしまわれました。それを受けて弟子たちがそっと尋ねました。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」その弟子たちの質問に対するイエス様の答えが、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」なのです。
ここからわかることは、イエス様は通常とは違う形で神の力が働いて、ことがなされるとき必要なことは、私たちが祈ることだ、ということです。そこに必要なのは、私たちの愛の行いでもなく、私たちの熱い信仰でもなく、私たちの行動力でもなく、祈ることなのです。祈りなしには、あとどんなことが整っていても神様の世界のことは進まないのです。
二つ目に、マルコの11章7節です。そこに「そして、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。そして人々に教えて言われた。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』」。イエス様がその時目の前にしていらっしゃったのは、エルサレムの神殿でした。そして、イエス様にとって地上のエルサレムの神殿は何にもまして祈りの家としての意味が一番大きかったのです。イエス様ご在世当時のエルサレム神殿では、朝夕欠かさず動物のいけにえが捧げられていたでしょう。年に三回大きな祭りも行われていたでしょう。しかし、最初の神殿が完成し、ソロモンがその奉献の祈りを捧げた時のように、神殿は「そこに向かって私たちが祈るとき、天にいて聞いてください。」という祈りの家としての意味こそが最大のものだったのです。イエス様は、私たちがこの地上を歩むときに、何はともあれ祈りの家を持つ生活をするように、願っていらっしゃるのです。それは、自分は祈らなくてもやっていけるという傲慢を砕かれながら歩むことです。それは、どんなに小さく弱い私でも、祈りによって神様と繋がるとき、大丈夫なんだという確信に立つことです。
Ⅲ. 祈った結果、使命に生きた
次に本日の3つ目のポイントに移ります。3番目は「祈った結果、使命に生きた」ということです。
①今日のテキストの後半
ここで、もう一度最初に開いていただいた聖書のテキストに帰りたいと思います。朝早く起き出して寂しい所に一人でイエス様が出て行かれた後、どうなったのでしょうか。36節を見ると、シモンとその仲間の弟子たちがイエス様の後を追って来たと書いてあります。そして、「皆があなたを探しています」と伝えます。イエス様は、一気にカペナウムの町の注目の的になっていました。なんせ、会堂ではこれまで誰も話したことのない権威を感じさせる教えをなさり、日没後には町中の病人を直したのですから。町の人はイエス様に直接会って、話を聞きたい、この問題を解決してもらいたい、いろいろなイエス様に対する求めがカペナウムの町には噴き出していました。それは当然の成り行きです。
弟子たちがイエス様を見つけ出して、このように伝えた時、イエス様は意外なことをおっしゃいました。「そうか。わるかったな。カペナウムの人々が私に会いたがっているのはわかっていたが、どうしても父なる神との祈りの時を確保するのは、もって大切なことだから、スマン、スマン。もう十分祈ったので、すぐにカペナウムの人々のところに戻ろう。」と仰らなかったのです。私が自分の説教でよくやる、「もしわたしがイエス様だったら」というのをここでやって見るとすると、私は今言ったようなことを必ず言うと思います。
しかし、イエス様の答えは違いました。38節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」
なんとイエス様は、沢山の人々からの求め、沢山の人々の必要がうごめいているカペナウムに戻らず、近くの別の町や村に行く、と仰るのです。そして「そのためにわたしは出て来たのだから」という少し不思議な言葉が続きます。いったい、イエス様はどこから出て来たと仰っているのでしょうか。出身地のナザレの町のことでしょうか。ヨハネから洗礼を受けたヨルダン川でしょうか。悪魔からの試みを受けたユダの荒野からでしょうか。
どれも可能性はあるかとは思います。しかし、私は、ここでイエス様が「出て来た」と仰っているのは、天の父との親しい交わりを示しているのではないかと思います。そこでは、天地の基が据えられる前から、何もかもが備わっていました。しかし、御子イエス様は、その何もかもを捨てて、そこを出て来てくださいました。そして、今、カペナウムにおられ、カペナウムだけではなく、ガリラヤ全土に福音を知らしめるのが、今の、この日の自分に与えられている果たすべき使命だと認識していらっしゃったのです。
ここからわかることは、イエス様は、この日、朝早くまだ暗いうちに起き出て、一寂しい所に出かけて行き、父なる神様との親しい交わり、祈りの時を持たれた結果がここに現れていいます。それは、イエス様が使命に生きられたということです。あれも良いこと、これも良いこと。あれもやったらいい、これもやったらいい。イエス様はいいことのためにご自分の時間と場所を使おうとはされなかったのです。祈りの中で示され、確信を得るに至った使命の道に迷わず進んで行かれたのです。
時に、あるいは多くの場合、私たちの使命の道はそれほどわかりやすくないかもしれません。右に行くと、左に行くかの二択で、右が正解、のようにシンプルで明快でないことの方が多いでしょう。しかし、それでも、間違いながらでも私たちは祈りに導かれて進んでいくときに、私という小さな存在に対して主イエス様が持っておられる使命を果たしていくことが出来るのです。それは、なんと幸いなことではないでしょうか。それは、なんと光栄なことではないでしょうか。その幸いな道、光栄な道をたどっていく唯一の入り口は祈りなのです。
一言、お祈りいたします。 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、マルコの福音書に出てくる最初の、イエス様が祈っておられるお姿から学ばせていただきました。現代では、私たちはお財布をもっていなくても、定期を持っていなくても、切符を持っていなくてもスマホを持っていれば、どこにでも行けて、何でも買えて、何でも食べられるような社会に生きています。「スマホでピッ!」であらゆるところと繋がれるような気がします。しかし、実際には電波にも、電池にも、財布にも限りがあります。しかし、祈りで私たちが父なる神、御子イエス様、聖霊なる神様と繋がるとき、私たちは確かな導きと力を得ます。どうぞ、私たちがそれぞれ、祈りの世界に成長していくものとしてください。そのようにして、あなたの御心を行い、あなたの御栄え現わす者としてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
