「マルコの福音書を学ぶ」⑥

□2024-06-16 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書1:21-28

□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑥「権威ある新しい教えだ」

導入

①前回の復習

前回の5回目は、1章の16節から20節までのところから「イエスの後について行った」と題で、イエス様がガリラヤ湖漁師たち4人に「わたしについて来なさい」と声をかけられ、彼らが網を捨て、何もかも捨てて、すぐにその場からイエス様について行った、という内容でした。

②本日の場面設定

今日は、「マルコの福音書を学ぶ」の第6回目となります。扱う聖書箇所は、1章の21節から28節までです。説教題としては、「権威ある新しい教えだ」とさせていただきました。

4人の弟子たちを加えられイエス様を入れて5人となった一行は、今日のところでは、カペナウムというガリラヤ湖畔の町で、安息日に会堂に入って行きました。イエス様が地上を歩まれた時代、バビロン捕囚から帰還してきた人によって再建され、その後ヘロデ大王によって増築された神殿がエルサレムにありました。イエス様の一生の間に、なんどかエルサレムの神殿に行かれています。しかし、地方の町々にはユダヤ人の会堂、すなわちシナゴーグがありました。ユダヤ人が10人集まるとシナゴーグを立てるという決まりになっていたようです。そこでは、安息日、今の暦でいうと土曜日にあたりますが、安息日ごとにユダヤ人が集まって、トーラーを読んで、礼拝を捧げていました。シナゴーグはそれだけではなく、ユダヤ人たちに読み書きを教える初等教育機関としての役割も果たしていました。

いずれにせよ、当時のユダヤ人たちは、安息人ごとに、自分たちの町にある会堂に行って、礼拝を捧げていたのです。イエス様と弟子たちは、そこに集いました。イエス様も育ったナザレの町の会堂には、物心がつく前から良心に連れられて出席していたでしょう。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の弟子たちも、同様にユダヤ人である以上、小さいころから家族と共に会堂に集っていたことでしょう。しかし、この5人のメンバーで一つの会堂に行ったのは、この時が初めてでした。そこで、事件が起こりました。

③今日のポイントは、

1. 人々は驚いた

2. 権威ある新しい教えだ

3. 命じると従う

の三つです。どうぞ、最後までお付き合いいただければと思います。

Ⅰ. 人々は驚いた

A.会堂に教える

21節に、「イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。」と出てきます。当時の会堂には、会堂管理者はいても、いわゆる牧師や神父のような人はおらず、特定の説教者はいませんでした。そこで、だれでもその日、読まれたトーラーの箇所について何かコメントをすることがあれば立ち上がって教えることができたようです。イエス様は、その意味では、当時の習慣に則って、誰にでも与えられている機会をとらえて、会堂で教えられたのです。

B.人々の反応

ここでは、残念ながら、イエス様が教えられた内容については一切触れられていません。その代わりに、その教えを聞いた人々の反応が端的に書かれています。22節の冒頭、「人々はその教えに驚いた。」これはなかなかインパクトのある言葉ですね。「驚いた」という言葉は、聖書の中に沢山出てきますが、普通は奇跡のような出来事に驚く、というケースが圧倒的に多いです。しかし、この場面では、トーラーが読まれた後、短い時間、イエスがコメントしただけで、人々が驚いたのです。

①井上尚弥の例

例えば、厳しいトレーニングを積んだスポーツ選手が神業的なプレーを見せてくれる。今日本ではボクシングの井上尚弥選手の活躍が目覚ましいですよね。最近のルイス・ネリ戦では、第一ラウンドに生涯初めてのダウンを期しますが、その後の展開が見事でした。最後はレフリー・ストップのTKOとなりましたが、まさにその場で見た人も、ビデオで見た人も、「驚きのシーン」でした。

②田部井淳子の例

しかし、皆さんは、誰かの話を聞いて驚いた、という記憶がありますか。古い話で恐縮ですが、私は女性で初めてエベレスト登頂に成功した田部井淳子(じゅんこ)さんの講演を聞いたことがあります。何度も雪崩に飲み込まれたり、酸素ボンベが足りなくなったり、と幾多の絶望的な危機を乗り越えて頂上を極め、無事下山するまでの話は、圧倒的に感動的でした。しかし、それは、ある意味出来事を語ったものです。そうではなく、教えに驚いたという経験はおありでしょうか。

③黒田眞の例

これもまた昔の話になりますが、1980年代に日米貿易摩擦の時代に日本側代表で「タフ・ネゴシーエータ」と名前をはせた黒田眞という通産審議官がおられました。私は、会社勤めをしていた時代に、一度だけ、この黒田眞さんが司会・進行役をしている大きな会議に出席したことがありました。もう通産省を退官した後のことだったと思います。私は、黒田眞さんの司会・進行振りに驚嘆したことを、いまだに忘れることができません。その場での黒田氏の役割は、黒田氏が本来かかわって来た分野とは関係のない業界の会合でした。名誉職的な意味で座長として司会をされていたのだと記憶しております。しかし、その司会ぶりがあまりにも見事だったのです。一つの言いよどみ、無駄、繰り返し、などがなく、声のトーンも所作も落ち着いていて、威厳がありあました。もしかしたら、普段テレビのニュースよく見ていた人が同じ会議にいる、というので私の方が舞い上がったのかもしれませんが、ただの司会・進行であれほど感動したことはありません。きちんと議事を進め、最後には、次回の日時、場所を確認し、お忘れ物なきようお帰りください、と締めくくるまで、軽いウィットに聞いたジョークが一つ添えられ終了しました。何十年経った今でもその印象が消えることがありません。

④イエスの場合

イエス様は、どうして、人々に「驚いた」という強烈な印象を与えたのでしょうか。言いよどみがなかったからでしょうか。イケボーだったからでしょうか。理由がきちんとかいてあります。それは、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」と記されています。教えの内容というよりも、所作や、迫力とか言ったパフォーマンスの効果というよりも、「権威ある者」として語ったというところに、人々の驚きの理由がありました。

「権威」という言葉は、前回の説教でも取り上げましたが、福音書に描かれている主イエスを理解するうえで、重要なキーワードの一つです。最初のポイントでは、「人々は驚いた」というところを指摘するにとどめて、次のポイントでこの「権威」について少し考えていきたいと思います。

Ⅱ. 権威ある新しい教えだ

 「権威」という言葉は、今日の聖書箇所の中では、もう一度27節に出てきます。その前に、23節から26節にかけて書かれている事柄に目を向けなければなりません。

A.汚れた霊が出て行った

イエス様一向が初めて、カペナウムの会堂に入っていって、イエス様が教えられたその日、その場に「汚れた霊につかれた人」がいました。「汚れた霊につかれた人」がいったいどういう人だったのか、については様々な考え方があります。ここでは、「神から遠ざかり、神に敵対する、目に見えない霊的存在」というように理解しておきたいと思います。

この「汚れた霊につかれた人」がいきなり叫びました。「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」これは、唐突な発言のように聞こえます。これまで、この人はイエスにあったことなどなかったはずですが、イエスについてとイエスと自分の関係についての極めて正確な知識があることがわかります。そして、最後には、「あなたは神の聖者です」という、直弟子たちもまだそれを告白するまでには、時間と訓練を必要とする、核心をつく告白までしています。イエス様は、「その通りだ」と仰ることもなく、いきなり「黙れ、この人から出ていけ」と言われました。

B.人々の驚き

この汚れた霊が、取りついていた男から出ていくとき、引きつけさせ、大声を上げたという現象が伴ったこともあったでしょうが、これを見た人々は、再び驚きます。27節の冒頭に「人々はみな驚いて」と書いてありますね。一つ目の驚きは「教え」に対する驚きでしたが、今回は悪霊を追い出したという「奇跡的な出来事」を目撃したことへの驚きです。

しかし、マルコの記述はそれを受けて「これは何だ。権威ある新しい教えだ。」と人々が言ったと記しています。「奇跡的な出来事」なのに人々が「教え」と言ったことには、理由があると思います。それは、直前の、トーラー朗読後のイエスの教えを聞いたときに衝撃的に感じ取ったイエスの権威と同じ権威をこの出来事にも感じた、ということです。「教えに驚いた」「奇跡に驚いた」と二つ別の驚きではなく、この両者に共通している権威に驚いたのでしょう。ですから、「権威ある教えだ」と一括りにされているのだと思われます。

C.二つの比較

さて、次に、このイエス様の「権威」を、二つの比較を通して、もう少し考えて行きたい

1. 律法学者たちのようにではなく

①律法学者とは

一つ目の比較は、律法学者たちとイエス様の比較です。新約聖書には、律法学者という人たちは度々登場してきます。調べたら、71回出てきます。そのほとんどは福音書です。彼らは、パリサイ派に属し、律法を解釈し、先祖からの伝承を重んじ、シナゴーグで熱心に教育をした人たちでした。この日、カペナウムの会堂に集っていた人たちは、長年にわたって、律法学者が説く律法の解釈と伝承を聞き続けてきた人たちでした。これは、私の想像ですが、多くの人は、この日イエス様の口から語られる教えを聞くまでは、律法学者たちの教えに対して、自覚的に特に不満を持っていたわけではないと思います。カビの生えた古臭い、時代遅れの教えだとか、権威が感じられないとか、そういうネガティブな思いは持っていなかったのではないかと思います。それ以外のものを知らないと、そういうものだと思って、私たちは特に不満を感じない、ということがあると思います。

しかし、イエスの教えを聞いた瞬間、世界が変わりました。イエス様の口からでる一つ一つの言葉には権威があると感じたのです。同時に、これまで聞いてきた律法学者の教えに、権威がなかったと感じたのです。

②ガラケー、スマホの例

今、ガラケーと呼ばれている携帯電話は、スマホが普及するまでは、多分、誰も古いとか、使い勝手が悪いとか思わないで、便利なものだと思って使っていたでしょう。しかし、もっと遥かに機能の優れたスマホが普及し始めると、とたんに、ガラケーは、使い物にならない時代遅れの物になってしまいました。

③間接性と直接性

一言で律法学者とイエス様の権威の差を表現すると、借り物と本物ということになるでしょう。或いは、間接と直接、と言ってもよいかもしれません。ウィリアムソンという学者は、イエス様は直接的権威をもって語ることが出来るのに対して、律法学者たちは、先にある権威に依存し、聖書的伝承に責任を持つ、という間接性は乗り越えられない限界だと言います。そしてこの限界は、律法学者だけではなく、私たちすべての人も持っている限界だと指摘しています。この指摘は大変するどいです。ですから、ある意味、イエス様の教えを聞いた瞬間「律法学者たちのようにではなく」と権威がない存在として感じられてしまうことは、避けられない、責任を問われるようなことではない、とこ言えます。

④束縛するか解放するか

しかし、それだけではなかったと思います。今日のテキストだけからでは、そこまで言いうことはできませんが、福音書をもっと広く読んでいきますと、次のようなことがわかっています。すなわち、神から与えられた律法は、本来、人を罪から守り、罪から解放し、神の祝福の中を歩み、幸せに生きるためのものだったのです。しかし、律法学者たちは、それを全く正反対に、人をがんじがらめに縛りあげる縄目にしてしまっていたのです。神の意図から離れ、細かい細則を増やし、それに先祖からの伝承を加え、人々から生気と喜びを奪い、他人への裁きと自分へのプライドと注入するものとなってしまっていたのです。それに対して、イエス様は、律法を破棄したのではなく、律法の誤用を破棄し、その本来の目的が完遂されるために来られ、律法のマッ中心にある神の愛を語り、それをご自分の身を投げうって現わされたのです。

2. 汚れた霊との比較

①正確な知識とその限界

次に、イエス様の権威を「汚れた霊」と比較してみたいと思います。汚れた霊は、イエスに対して、かなり正確な知識を持っていたことがわかります。「ナザレの人」と呼びかけて、イエス様の出身地を言い当てています。少し、敷衍して言うと、イエス様がこの世にお生まれになって以降の人間的なバックグラウンドをよく知っていると言えます。

次に、汚れた霊は、「私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。」と言っています。これは、自分という存在が、神との関係でどういう立ち位置にいるかを正確に把握しているとこいうことです。自分は、神との関係でいうには、やがて滅ぼされるべきものなのだということを認識しています。

そして、「私はあなたがどなたなのか知っています。」と言っています。自分のことがよくわかっているだけではなく、イエス様がどんな方かを正確に知っているというのです。

そして、最終的には「神の聖者です。」と信仰告白とも言うべき核心を突くことを口にしています。弟子たちがこの段階に至るまでには、まだまだ時間がかかります。

しかし、自分は、神との間に敗れた関係にあることを知り、自分の目の前にいる方が、神の聖者だということを知っていても、自分の存在の在り方を自分で変えることはできないのです。そこには、モラルが必要です。自分を変えることのできるお方に、自分を造り変えることが出来るお方に、自分の意志を用いて応答することが必要です。それができる唯一の存在が人間です。汚れた霊にはそれができないのです。知識にできることには限界があるのです。

イエス様が会堂で教えられた時、神の子イエスですから、最高の知識をもって、律法について解説されたのでしょう。しかし、イエス様の権威は、その知識の量や正確さから出ているものではありませんでした。語っている事柄と語っている人の人格が深いところで結びついている、その所にイエス様の権威の源泉があったように思います。

Ⅲ. 命じると従う

さて、本日の三つ目のポイントに移ります。三つめは、「3. 命じると従う」ということです。この一点に、本日のキーワードである「権威」は現れます。

①「光、あれ」とのアナロジー

「命じると従う」という記述から連想されることは、創世記冒頭に記されている天地創造のことです。「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」普通、命令というのは、相手があってはじめて成り立つものです。相手がいないのに、命令していたら、単なる独り言になってしまいます。そして、何も起きるはずはありません。しかし、神は、光に対して命令されたのではないことは明らかです。この神の命令以前には、光はなかったのですから。まだ、存在していないものの名を呼び、「あれ!」と神が言葉を発せられると、それが「ある」というのが、究極の権威です。

②人間に対してだけは特別

ここで、私たちが驚嘆をもって、気付き受け止めなければならないことがあります。それは、人間の尊厳です。神の言葉は、無に対して発せられると「有」という結果が現れるほど権威があります。汚れた霊に対して発せられると、問答することもなく、抵抗することもなく、取りついていた人から出ていきます。しかし、人間に対してはどうでしょうか。自由意志を持って、神の形に造られた人間は、たとえイエス様が言葉を発せられても自動的に人格的に変化が起きるようなことはありません。「あなたは意地悪だが、今日から優しい人間になれ」とイエス様が一言発せられると、そう命じられた人間がたちどころに、性格や人格が帰られて素晴らしい人になるという例は、聖書には出てきませんし、人類歴史の中でもありません。聖書を読んでいくと、人間は、ある意味でこの至上の権威を持つ神の言葉からも命令を受けない存在なのです。それは、神の形に、尊厳を持つ存在として造られているからです。

③イエスの権威の真の源泉

まだ、マルコの福音書を読み始めたばかりですが、今日のところに出てくる「権威ある新しい教えだ」との人々の驚嘆の本当の凄さは、実は、権威を越えたところにあると言うべきかもしれません。パソコンがフリーズしてしまって、どのボタンを押しても何の反応もしなくなったとき、私たちは電源ボタンを長押しして強制終了という手段にでますね。神様も、人類に対し、私に対し、強制終了のような、私の意志や感情や希望をまったく無視して、神の権威で何かをやめさせたり、やらせたり、ということは当然、理論的にはおできになる能力はあるでしょう。全能なのですから。しかし、私たち人間との間では、神様は権威のレベルで解決されようとしなかったのです。権威を越える愛のレベルで私たちに向かわれたのです。それが、これからマルコの福音書を読み進めていくとだんだんわかってきます。

ですから、今日の締めくくりとして、こういう逆説的な表現をもって締めくくりたいと思います。すなわち、ガリラヤの人々が、この日、カペナウムの会堂でイエス様に感じた「権威ある新しい教えだ」と感じた源泉は、すべての権威を打ち捨てて、人となり、仕える僕の姿をとり、やがて十字架の上で、ご自身の神の子としての特権のすべてを罪人である私たちにくださるために、お捨てになる覚悟にあったのです。しかし、人間ではない霊的な存在は、イエスの言葉には、逆らえず、お言葉通りのことが展開するのです。

 一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、2000年前、カペナウムの会堂で上がった「権威ある新しい教えだ!」という驚嘆の声を中心に学びました。どうぞ、愚かな私たちの心と霊を開いて、聖書を通し、祈りを通し、日常生活での主の導きを通して、私たちも他人のことばではなく、自分の感覚とことばで、「これは権威ある新しい教えだ」と新鮮な驚きをもって、日々、主イエス様を体験していくことができますように、お導きください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。