「マルコの福音書を学ぶ」⑤

□2024-06-02 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書1:16-20

□説教題 マルコの福音書を学ぶ⑤「イエスの後について行った」

導入

今日は、「マルコの福音書を学ぶ」の第5回目となります。扱う聖書箇所は、1章の16節から20節までです。説教題としては、「イエスの後について行った」とさせていただきました。

前回の四回目は、1章の14節、15節から「福音を信じなさい」という内容でした。バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたイエス様は、その後、荒野においてサタンの試みを受けました。その試みが終わったのち、ガリラヤに行かれ、宣教活動の第一声として、「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたというのが、前回までの流れです。

今日の所は、出来事としては、ガリラヤ湖のほとりでほんの短い時間で、今風に言うと、最初のフォロワーを四人ゲットした、ということになります。今日のポイントは、

1.普通と異常、

2.連続性と非連続性、

3.不明なことと明らかなこと

の三つです。どうぞ、最後までお付き合いいただければと思います。

Ⅰ. 普通と異常

それでは、早速、一番目のポイント、「普通と異常」に入って行きます。あっという間に、イエス様に4人の弟子が付いたというこの出来事については、大変面白いことに、普通と異常が同居しています。

A. 普通

1. 4人は普通の人だった

まず、普通なことは何でしょうか。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという4人の人物は普通の人だったということです。16節の冒頭は、「イエスはガリラヤ湖のほとりを通り」とあります。そこを通ると一番普通にその辺にいそうな人たちが、彼らガリラヤ湖で魚を取って生活をしていた漁師たちでした。ガリラヤの名士でもなければ、実力者でもなければ、インフルエンサーでもありませんでした。イエス様はたったお一人で宣教の業を始められたのですが、最初に弟子になる人たちというのは、ゆくゆく運動が大きくなっていったときには、その働きのコアーになる人たちです。

2. V9巨人のコーチの例

いつものように昭和の野球の話で恐縮で数が、川上監督が巨人でV9を成し遂げた一つの大きな要因は優秀なコーチを引っ張ってきたからだと言われています。川上以前は、プロ野球でコーチをするのは、そのチーム出身者が圧倒的に多かったのですが、川上はあえて他球団出身の牧野を中日から、荒川を大毎から引っ張ってきました。この二人が参謀として選手を育て、徹底した意識改革をおこなってチームを強くしたのです。川上一人では到底できないことでした。川上の頭の中には、選手を育てる前に、優秀なコーチをそろえることが必須のことだったのです。

3. その辺りにいた人たち

コーチと弟子ではあまり重なるとことはないかもしれませんが、イエス様のお考えはだいぶ違っていたようです。企画・管理に向いている緻密なタイプ、ドンドン新規顧客を開拓していく積極的なタイプ、これまでのやり方に捕らわれずに新しい発想が出てくるアイデアマンタイプ、とにかく人が寄ってくる人格者タイプなど、それぞれ得意分野でいかんなく成果をだせるような四人を選りすぐって声をかけて弟子にしたのではありません。その辺を歩いていたら、その辺にいた人を手あたり次第に、声をかけたという感じです。

4. なぜ兄弟が二組?

ちなみに、最初の四人が兄弟二組だったということは、わたしは、イエス様がとにかくそこにいる人に声をかけた、ということの結果だと考えています。ペテロはお調子者で欠点もあるけど、なにしろキャラが立っているから声をかけるけど、アンデレの方はこれといった特徴はないから、やめておこうなどというより分けをなさらなかったです。そして、結果的に、イエス様の最初の弟子となった人たちは、一言で言うとごく普通の人たちの集まりとなったのです。

B. 異常

1. すぐに何もかも捨てて従った

 しかし、同時にこの出来事には、きわめて異常な要素が目立ちます。それは、声をかけられた人たちが、網を捨て、舟や父親、雇い人たちを捨てて、すぐにその場でイエスについて行ったということが起きたからです。他の福音書を読むと、どうもこの4人は、このとき初めてイエス様に会ったのではなく、事前に導火線となるような出会いと出来事があってのことだったと想像してよい記述が、ヨハネの福音書やルカの福音書にあります。しかし、今は、マルコの福音書をはじめから丹念に読むということを続けています。マルコの福音書の世界の中では、いきなり声をかけられて、いきなりなにもかも捨ててついて行った、という出来事として記されています。

2. 捨てたものの意味

漁師にとって、網とか舟は、商売道具です。それで生計を立ててきた命綱です。父とは一番強い結び付きの中にある人間関係です。雇い人は、ヤコブとヨハネがある程度の裕福な経済基盤を持っていたことと、彼らに給料を払っていくべき社会的責任を負っていたことを示しています。雇い人を置き去りにしたということとは、自分につける有利なことと義務を放棄したことを意味しています。

そう考えると、この出来事があまりにも異常であることがわかってきます。普通はありえないことです。普通はしてはいけないことです。普通は思いとどまらせるべきことです。これを可能にしたのは、一言で言うと、イエス様の権威です。

3. 個人的な経験から

私は、大学を出て最初の7年間会社勤めをしていました。会社の中では購買関係の部署にいました。物を買う立場ですから、商売の世界では立場が強いわけです。あるとき、まだピヨピヨの若造の私が、お昼時にある会社のオフィスにアポなしでフラっと訪ねたことがありました。特に用事もなく、「こんにちは―!」と言いに行っただけのようなことだったと記憶しています。私の相手の方は、そうですね私より15歳は上のベテランの方でした。そして、その方はコンビニ弁当をご自分のデスクで召し上がっている最中だったのです。そこに、私が“こんにちわ”と顔を出したところ、今でも忘れなれないことが起きました。

「山田さん、お昼はまだですか?」私が「あ、まだです」。というと、なんとその人は、そのお弁当、まだ半分も食べていなかったのですが、ガサっとレジ袋に包んで、近くのボミ箱に投げ捨て、「山田さん、飯行きましょう」と私を連れて良さげなレストランに連れて行ってごちそうしてくれたのです。

この時、私は自分の会社と自分の所属部署の権威を痛感しました。私自身は、なんの実力もないペーペーの青二才です。しかし、食べかけのお弁当をなんの躊躇もなく、ごみ箱に投げ捨てさせる、権威が会社にあったのです。

4. イエス様の権威

これは、きわめて不適切な例話だと思いますが、イエス様の権威は、もっとすばらしい権威でした。一瞬にしてこの人について行こう、この人について行くためだったら、何を捨てても惜しくないと思わせる魅力がイエス様の権威だったのです。ですから、この4人の人たちが、ただ声をかけられただけで、網も、舟も、父も、雇人も、なにもかも捨ててその場でイエスについて行ったということも異常ですが、それにもまさって異常はなのは、ただ、「わたしについて来なさい」と言っただけなのにこのことが起きる、イエス様の権威が異常だったということになります。

Ⅱ. 連続性と非連続性

 続いて大きな二つ目のポイントに移ります。「連続性」と「非連続性」ということです。

A. 連続性

1. 人間をとる漁師

今日取り上げている出来事の中で、唯一の連続性は、漁師であるペテロとアンデレに対して、イエス様が、ご自分についてきたならば「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたところです。

「人間を取る漁師」というのは、当然、比喩的な表現であって、意味するところは、人々を神様の御許にお連れする働きをするようになる、ということでしょう。それをイエス様は、「あなたがたを私の最初の弟子にしてあげよう」とは仰らなかった。「わたしの働きの宣伝塔にしてあげよう」とも仰らなかった。「御国の建築家にしてあげよう」とも仰らなかった。ただ一言、「人間をとる漁師にしてあげよう」と仰たのです。

2. 聞き手にわかる言い方

この言い方は、ギリギリ、ペテロたちがわかる言い方だったのではないかと思います。これまでの人生を、ひたすらガリラヤ湖で魚を取ることに従事してきた人々に対して、同じ漁師ということばを使いながら、魚ではなく人間をとる漁師なんだ、とイエス様は巧みな言葉遣いをされたのです。

B. 非連続性

1. 断絶を越えて連続するもの

この日を境に、この4人の生活は一変しました。網と船を捨てて、魚をとらなくなったのです。家も出て、イエス様と一緒に町々村々を旅してまわる生活です。これまで一本の線で繋がって来たそれぞれの生涯がここでぽっきり折れて、彼らの毎日は、もうこれまでの続きではなくなったのです。非連続性しかありません。

しかし、冷静に考えると、次の日もペテロはペテロ、アンデレはアンデレです。それぞれの個性、特徴は、それまでと何も変わらずに、ここからの生涯にも持ち越されていきます。思い立ったらすぐに、言ってしまう、やってしまうペテロの性格は、イエス様に声を掛けられる以前からそういう性格だったのでしょう。あまり表舞台に立たない、しかし、親しみやすくて、人から相談を持ち掛けられやすい性格をアンデレは、以前から持っていたのでしょう。

さきほど、私はこの4人を普通の人の集まりだと言いましたが、普通の人という点では4人とも同じと言ってよいのですが、それでも4人ともそれぞれ個性を持つ、独特の存在です。漁師をやって来た人には、そのキャリアが最大限イメージの中では繋がっていくような、ペテロがペテロであり続け、アンデレがアンデレであり続けるような導き方をイエス様はなさるのです。

2. 私たちに声がかけられる時も同じ

 私たちにイエス様が声をおかけになるときにもそうだと思います。思いっきり非連続な新しい生き方に召し出される中にも、一筋の連続性を大切にされる神様なのです。私を私らしく造られた神様は、私を私のまま用いようとされるのです。私を、役に立つ別の誰かのように変質させて用いようとされる方ではないのです。

Ⅲ.  不明なことと明らかなこと

 最後の3つ目のポイントに移りたいと思います。3つ目は、「明らかなこと」と「不明なこと」です。

A. 不明なこと

今日の出来事で、明確にイエス様から4人に伝えられたことは、「わたしについて来なさい」ということでした。それ以上のことは、この時点では伝えられていません。具体的には、イエス様のことについて言うと、イエス様が十字架に付けられてなくなること、3日目によみがえられること、イエス様が神の独り子であられ、その方が人間の形をとって現れてくださった方であること、イエス様が旧約聖書に預言されてきたメシアであることなどです。また、彼らのことについて言うと、漁師でなくなって、どうやって食べていくのか。なんためについて行くのか。ついて行くとどうなるのか、などまったく知らされていません。

何となくのイメージは持っていたでしょう。けれども、もう少し時間がたってから、彼らが実際に口にする、イエス様が御国の位につくときに、自分たちがその右と左の席に座るとか、自分が差し出した犠牲と引き換えに何か大きな報酬にもらえるだろう、などという予想もまだ何にもなかったと思われます。

B. 明かなこと

1. その時、その場からついて行くこと

 それに対してはっきりと示されたことは、その時、その場からついて行くということです。明日からではなく、目下作業中のことにけりを付けて、自宅に戻って、家族に別れを告げてからではなく、声をかけられたその時、その所からイエスについていく、というように声をかけられたのです。

2. イエス様がイエス様であるなら当然

この招きはとても強引で、抑圧的で危ない感じがするかもしれません。しかし、逆に、イエス様が本当に神の御子であるなら。そして、そのお方が人となって地上を歩んでくださっておられるなら。ペテロの罪をアンデレの罪を、ヤコブの罪を、ヨハネの罪をご自分の身に負って十字架に身代わりとなって死んでくださるために、彼らのところまで近づいてくださっておられるお方なら。「都合がついたらついて来ておくれ」「仕事のきりがついたらついて来ておくれ」というような声かけはありうるでしょうか。私はありえないと思います。

わたしが声をかけた以上、今がその時なんだ。今、わたしはあなたについて来てもらいたい。今、ここから、わたしが始めようとする神の国の働きに加わってもらいたい。今なんだ、すぐはじめよう、と時を置かない決断を私たちに迫られるのがイエス様の招きにはふさわしいのです。

3. 私たちの現実生活への適用

 少しだけ、トーンダウンして締めくくりますが、そうは言っても、これだけ複雑な社会に生きている私たちにとっては、イエス様の声が聞こえた瞬間に、それまでのあらゆる経済的基盤、生活手段、人間関係、社会的責任を放棄しろ、ということをお伝えしたいのではありません。実際にはそれらのものを整理する必要がある場合であっても、それなりの時間、段取り、儀礼を尽くす必要などがあるでしょう。しかし、そのような慎重なプロセスを通ることがあっても、イエス様に従っていきますという決断は、イエス様の声が届いたその時、その所でなされるべきだと、私は私の経験から申し上げたいと思います。

まとめ

 今日のお話を締めくくりたいと思います。

①イエス様は、最初の弟子として、4人も一遍に、ごく普通の人々ばかりを招かれました。しかし、招かれた人々はみな、すぐに、すべてを捨ててイエス様についていきました。この異常な出来事が起きたのは、イエス様が異常なほどの権威を持っておられたからでした。

②そして、イエス様は、何もかも変わってしまう新しい生き方に招かれますが、一筋の連続性を保たれます。私が私でなくなることは神様のみこころではありません。あなたをあなたのまま用いるのが神様のご計画です。

③そして、この4人には、先のことはほとんど何も見えていませんでしたし、示されてもいませんでした。ただ、「わたしについて来なさい」という招きだけがあったのです。

私たちにかけられる神様からの招きもいつも同じです。将来の細かいプランは神様は示されません。選挙公約のように、“これとこれとこれ”をあなたの生涯において実現します。だから信頼してついて来てください、というよう声かけはなさらないのです。「わたしについて来なさい。」これだけです。羊が羊飼いについていくように、小さな子がお母さんについていくように、私たちはイエス様についていく、それが一番幸いな道なのです。

一言お祈りいたします。

天の父なる神様、あなたの聖名を心から感謝いたします。今日は、イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いていて、2組の兄弟に「わたしについて来なさい」と声をかけ、4人が何もかも捨てて、その場でその時からイエス様について行ったところを学びました。あなたは、私たちにも声をかけられる方です。神に声が届いた時、すぐにお従いする者としてください。それほどの信頼をイエス様に寄せるのが、私の当然となるほどに、イエス様の愛がわかる者としてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン