「マルコの福音書を学ぶ」(42)

  • 2025-07-13 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ10:17-22
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(42)「永遠のいのちを」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 -今年のテキストの展開―
 ▽この記事は、マタイ19、マルコ10、ルカ18
 ▽一人の人(マルコ、マタイ)、ある指導者(ルカ、新共同「ある議員」)、アルコーン、ruler( rich young ruler )
 ▽マタイ「近づいてきて言った」ルカ「質問した」マルコ「駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。」
 ▽マタイ(先生、どんな良いことを)、マルコ・ルカ(良い先生、何を)
 ▽三つとも「良い」を問題
 マタイ「なぜ、良いことについて私に尋ねるのですか。良い方はおひとりです。」
 マルコ・ルカ「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもありません。」
 ▽質問の要点は、「永遠のいのち」を得るためには何をすればよいか
 ▽イエス様は例によって問答される
 ▽新約聖書における「永遠のいのち」
マタイ3、マルコ2、ルカ3、ヨハネ福音書と書簡23、使徒2、パウロ書簡9、ユダ1、黙示録0、合計43

ここまでを序論としてここから今朝の本論に入っていきたいと思います。ポイントとしては、説教題にも使いました「神の国」との関連で神の国は
 Ⅰ 永遠のいのちと不足感
 Ⅱ 永遠のいのちと愛
 Ⅲ 永遠のいのちとイエス・キリスト
この3点でお話ししていきます。

それでは、さっそく、最初のポイントに入っていきます。

Ⅰ 永遠のいのちと不足感
⒈ 鍵は20節
⒉ 足りないのは情報?(情報で金持ちは可能かも、鉱山創業者の話、でも幸せには)
⒊ 愛の問題

Ⅱ 永遠のいのちと愛(V.22)
⒈ いのちの質は何を愛しているか
 ・その人がどんな人か、友人、時間、お金、YouTube履歴、…何を愛しているか
⒉ 愛はすべてを束ねる
 ・時間とお金と健康と与えられて、自由に使ってよいと言われたら
 ・普通はいろいろな制約があるが、全く制約がないと仮定したら
 ・何をするか、しないか、愛が決める(欲望が決める)
 ・逆から言うと、あなたが愛を注ぐ対象があなたを支配している

⒊ 永遠のいのちは何を愛しているいのち?
 ・永遠のいのちを愛している
 ・永遠のいのちより愛しているものがない

Ⅲ 永遠のいのちとイエス・キリスト(V.21)
⒈ 永遠のいのちではないいのちは?
 ・「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と言えるまでのところ
 ・それを持っていると永遠のいのちを受けそこなうというものを持っている
⒉ 弟子たちは?
 ・網、船、父、雇人、税務署(金の生る木)…何もかも捨ててきた
 ・しかし、それでも捨ててないものが、それが受難予告以降、炙り出されている
  =自分自身
 ・ヤコブのペヌエルの経験 ヤボクの渡し、
   双子の弟ヤコブは、兄エサウをだまし、出し抜いて、長子の権利、父親の祝福を奪いとる。兄に殺意を抱かれ、母方の親族が住みパダン・アラムに逃亡。そこで20年。叔父ラバンとの間に亀裂。故郷に一族と家畜を連れて帰る。兄の殺意が消えているかわからない。偵察の報告は、エサウは400人の人を連れて迎えに出ている。送りもの、陣営を二つに。
ヤボクの渡しというところまで来て、その川を渡ったらもうエサウとの間に障壁はなくなる。荷物、家畜、妻たち、子どもたちを向こう岸に渡らせた。しかし、自分だけ一人、川のこちら側に残った。そこでヤコブは夜明けまで神様と格闘する。
⒊ イエス・キリストのみが
  ・永遠のいのちだけを愛する=イエス・キリストのみができる
  ・十字架=永遠のいのちを何よりも愛した、それ以上に愛するものがなかった証拠
  ・私たちは自分の永遠のいのちだけを問題にすればよい
  ・イエス・キリストは、永遠のいのちそのもの
  ・イエス・キリストが愛されたのは、私たちの永遠のいのち=私たち
  ・v.22「そのうえで、わたしに従ってきなさい」これがキリスト教
  ・私たちにできないことを全部やってくださったイエス様を信じ、心に受け入れ、心に宿し、主の御声を導きに従っていく、これがすべて。

一言、お祈りいたします。
 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、金持ちの青年の記事から「永遠のいのち」について学びました。私たちには、あれも捨てる、これも捨てる。これを愛さない、ということはできそうもありません。しかし、私のためにご自身のいのちを十字架にささげてくださったイエス様を愛することはできます。完璧に愛することはできないかもしれません。しかし、完璧に愛せないからといって愛することをやめることはしません。不完全な愛をもって、あなたを愛し、従ってまいりますので、どうか弱く、愚かな私たちをお導きください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。